行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

夕方には白骨になるかもしれない

2014年04月22日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
蓮如上人の白骨の御文章です。



それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
 されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
 されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。






人間の無常な人生をよくよく考えると、この世の中でおよそ無常なものは、幻のごとく迎える人生の最期である。いまだかって1万歳も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。今の世でも百歳まで生きることは難しい。自分が先にか、人が先か。今日かもしれないし明日かもしれない命で、長生きする人、早死にする人は、木のしずく葉のつゆの数よりも多い。
 だから、朝は紅顔の美少年であっても、夕方には白骨になってしまうかもしれない身なのである。無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。




人間は、死ぬ存在であることをいつも考えて生きるべきなのです。それが、充実して人生を送っていくことなのです。人間は死ぬ存在であることを忘れるから人生が薄っぺらなものになってしまうのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする