行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

地獄・極楽とは(二)

2017年02月07日 | 仏の心
松原泰道師の言葉から

 若侍は、白隠の声を聞いて目からうろこが落ちた思いをします。

つまり怒りが爆発したとき、そこには「痴」の修羅が生じました。

しかし、まもなく正しい判断に気づいて、その修羅場を越えることができたのです。

教える白隠も命がけです。

真剣でなければ教えることはできません。

 修羅の世界は私たちの外からばかりやってくるものではありません。

誹謗されたり、罵声をあびせられたり、讒言されたり、

あるいは事業に行き詰まったり、左遷されたりなどといった外的要因だけでなく、

嫉妬や妄想、欲望、煩悩など、内なる悪魔が跳梁することによってももたらされます。

 修羅場が訪れたのは白隠禅師にしても同じです。

 まかり間違えば命を落とすわけですから、

そのときは外からきた修羅場であったわけです。

同時に、なんとしても教えてやらねばなるまい、

という内なる修羅場もあったことと思います。

 教えることに真剣なあまり、

感情に激して暴力をふるう先生がありますが、

それも「痴」の修羅といえます。

そこには人間存在の真理が見えていません。

暴力をふるうことは、すでにして相手を個として尊重していないのです。

 一度でもそうすると、その子は生涯その学科を嫌ったり、

教師を恨み続けたりしてしまうのです。

 人を教える立場にいる人は、そういった修羅を与えてしまってよいものかどうか、

よくよく考えて、正しい判断を立ててもらいたいものです。

 「怒っているときは叱るな、叱るときは怒るな。」

といいます。

怒るのは修羅で、叱るのは慈悲です。

修羅で怒っては効果がないのです。



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