行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

自由について(二)

2017年02月14日 | 仏の心
中川宋淵老師の言葉

 人間は本来自由なんじゃ。

不自由せん心こそが大切なのです。

自由の外側の社会に向かって、自由をよこせ、自由をよこせというが、

鼻はやはり鼻の在るところにしか置けんじゃないですか。

目は目のところにしかないではないか。

自分で鼻毛一本自由に動かせやせん。

絶対自由といってもいいし、絶対不自由といってもよい。

それが人間のあるがままの現在じゃろうが。

 どうなったら自由なんだ。

女にやたら抱きついて性交できたら自由なのか。

自由というならやってみろ。

何も変わったことできやせん。

 いいかね。自由とは外にあるべきものでなく内にある。自己にある。

それがわからねば、自らが菩薩であることもわからん。

自由は内にある。わからんかな。

 では、これを読んでみなされ。

 「只今の只に只乗れ只の人」

 只・・・それがわかれば、自由の本質もわかる。

只とは只。法然上人のいう凡夫。

 上人は『一枚起請文』で、仏を念ずる心を、

「観念の念にもあらず、また学文をして念の心をさとりて申す念仏にあらず。」

と言われる。

学問や哲学、観念に基づいた念仏ではない。

「唯往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す他には、別の仔細候はず」

これは只。只念仏、只喝ーっ、只棒・・・と同じ。

只お茶飲めばいい。いろんなものをもぞもぞくっつけない。







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