中川宋淵老師の言葉
人間は本来自由なんじゃ。
不自由せん心こそが大切なのです。
自由の外側の社会に向かって、自由をよこせ、自由をよこせというが、
鼻はやはり鼻の在るところにしか置けんじゃないですか。
目は目のところにしかないではないか。
自分で鼻毛一本自由に動かせやせん。
絶対自由といってもいいし、絶対不自由といってもよい。
それが人間のあるがままの現在じゃろうが。
どうなったら自由なんだ。
女にやたら抱きついて性交できたら自由なのか。
自由というならやってみろ。
何も変わったことできやせん。
いいかね。自由とは外にあるべきものでなく内にある。自己にある。
それがわからねば、自らが菩薩であることもわからん。
自由は内にある。わからんかな。
では、これを読んでみなされ。
「只今の只に只乗れ只の人」
只・・・それがわかれば、自由の本質もわかる。
只とは只。法然上人のいう凡夫。
上人は『一枚起請文』で、仏を念ずる心を、
「観念の念にもあらず、また学文をして念の心をさとりて申す念仏にあらず。」
と言われる。
学問や哲学、観念に基づいた念仏ではない。
「唯往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す他には、別の仔細候はず」
これは只。只念仏、只喝ーっ、只棒・・・と同じ。
只お茶飲めばいい。いろんなものをもぞもぞくっつけない。
人間は本来自由なんじゃ。
不自由せん心こそが大切なのです。
自由の外側の社会に向かって、自由をよこせ、自由をよこせというが、
鼻はやはり鼻の在るところにしか置けんじゃないですか。
目は目のところにしかないではないか。
自分で鼻毛一本自由に動かせやせん。
絶対自由といってもいいし、絶対不自由といってもよい。
それが人間のあるがままの現在じゃろうが。
どうなったら自由なんだ。
女にやたら抱きついて性交できたら自由なのか。
自由というならやってみろ。
何も変わったことできやせん。
いいかね。自由とは外にあるべきものでなく内にある。自己にある。
それがわからねば、自らが菩薩であることもわからん。
自由は内にある。わからんかな。
では、これを読んでみなされ。
「只今の只に只乗れ只の人」
只・・・それがわかれば、自由の本質もわかる。
只とは只。法然上人のいう凡夫。
上人は『一枚起請文』で、仏を念ずる心を、
「観念の念にもあらず、また学文をして念の心をさとりて申す念仏にあらず。」
と言われる。
学問や哲学、観念に基づいた念仏ではない。
「唯往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す他には、別の仔細候はず」
これは只。只念仏、只喝ーっ、只棒・・・と同じ。
只お茶飲めばいい。いろんなものをもぞもぞくっつけない。