中川宋淵老師の言葉から
『臨済録』の老師の言葉にいう。
仏法とは、本当の悟りとは、人間の解脱とは、本当の自由人とは、
「仏法は功を用いる処無し。祇(た)だ是れ平常無事」
何でもないことだ。
「屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくいきっぱん)、昏時来れば即ち臥す。」
大小便したくなったらしろ、
着物を着る必要があったら着たらよい。
飢えたなら飯を喫し、腹が減ったら飯を食え、
疲れたなら、夕暮れ時がきたなら寝ることだ。
それだけのことだ。とね。
これが只。
仏法は、真理は、自由はと改めて求めたり、功を用いたりしない。
作為せん。
当たり前にしとればよい。
『碧巌録』第19則にいう「平常心是道」
ところが、そんなことをいうと人はなあんだ、
そんなもんどこが有り難いんですかと、
「愚人我を笑う。智は乃ち(すなはち)焉(これ)を知る。
古人曰く、外に向かって功夫を作(な)す、総に是れ痴頑(ちがん)の漢と」
馬鹿者はワシを笑うが、智者はこれがわかる。
古人もいうた、
外に向かって思慮を巡らすのは、みんな大馬鹿者だとね。
千利休はいう。
「茶の湯とはただ湯をわかして茶をたてて
呑むばかりなるものとこそ知れ」
あり合わせの道具、あり合わせの野草一輪挿して一服の茶をいただく。
この精神からいろいろのお手前が生ずるならよいが、
茶の型を知らねば茶がのめんというふうに作為が出てくる。
竜沢寺っへ行くのもよいが、
茶を出されるので恥ずかしいから女房を連れていかんならんちゅうふうになるな。
只、茶をのんでくれたらいいのだよ、こっちは。
仏法も同じ。
只ありがたくなればいいのに、仏教哲学したり、坐禅したりしなくては、
生きていることのありがたさがさっぱり分からんようになる。
茶でないのが茶。禅でないのが禅。
『臨済録』の老師の言葉にいう。
仏法とは、本当の悟りとは、人間の解脱とは、本当の自由人とは、
「仏法は功を用いる処無し。祇(た)だ是れ平常無事」
何でもないことだ。
「屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくいきっぱん)、昏時来れば即ち臥す。」
大小便したくなったらしろ、
着物を着る必要があったら着たらよい。
飢えたなら飯を喫し、腹が減ったら飯を食え、
疲れたなら、夕暮れ時がきたなら寝ることだ。
それだけのことだ。とね。
これが只。
仏法は、真理は、自由はと改めて求めたり、功を用いたりしない。
作為せん。
当たり前にしとればよい。
『碧巌録』第19則にいう「平常心是道」
ところが、そんなことをいうと人はなあんだ、
そんなもんどこが有り難いんですかと、
「愚人我を笑う。智は乃ち(すなはち)焉(これ)を知る。
古人曰く、外に向かって功夫を作(な)す、総に是れ痴頑(ちがん)の漢と」
馬鹿者はワシを笑うが、智者はこれがわかる。
古人もいうた、
外に向かって思慮を巡らすのは、みんな大馬鹿者だとね。
千利休はいう。
「茶の湯とはただ湯をわかして茶をたてて
呑むばかりなるものとこそ知れ」
あり合わせの道具、あり合わせの野草一輪挿して一服の茶をいただく。
この精神からいろいろのお手前が生ずるならよいが、
茶の型を知らねば茶がのめんというふうに作為が出てくる。
竜沢寺っへ行くのもよいが、
茶を出されるので恥ずかしいから女房を連れていかんならんちゅうふうになるな。
只、茶をのんでくれたらいいのだよ、こっちは。
仏法も同じ。
只ありがたくなればいいのに、仏教哲学したり、坐禅したりしなくては、
生きていることのありがたさがさっぱり分からんようになる。
茶でないのが茶。禅でないのが禅。