行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

富士山ばかりが山じゃないよ

2013年02月08日 | 禅の心
 柳宗悦は、浄土真宗の影響を受けた人で、民芸運動を起こした人です。民芸運動とは、豪華なもの、金銭的に値打ちのあるものではなく、名もない作家が生活用品としてつくった実用的なものに、素朴な美や力強さを見いだしていこうという運動です。
私は、有名な作家の作品には誰もが認める値打ちがあると思いますが、ふだんの生活で使っているものにも、それなりの値打ちがあると思っています。
 日本人は、一見価値のないと思われるものに美を見いだしてきました。それを侘び、寂びといっています。豪華なものに対して一見劣っていると思われるものを「侘び」、時間の経過とともに、古くなったものの内側からにじみ出てくるものを「寂び」と言っているわけです。
しかし、残念なことに現代ではその侘び、寂びでさえ、お金持ちの世界のものになってしまいました。
小学生の女の子が、おじいさん、おばあさんに、似顔絵を描いてあげました。おじいさん、おばあさんはとても喜びました。おじいさん、おばあさんにとっては、モナリザよりも、竹久夢二の絵よりも値打ちのあるもののはずです。たとえ、広告の裏にクレヨンで描いたものであっても、宝物のはずです。
登山する人のあこがれは、何と言っても富士山でしょう。しかし、有名な山にばかり目が向いているうちは、まだまだ山の値打ちがわかっていないのです。富士山も、自分の家の裏山も同じ山だと思えるようになれば、本当の山好きだと言えましょう。
法華経には「諸法実相」という言葉がありますし、天台宗では「草木国土悉皆仏性」「一切衆生悉皆仏性」といいます。すべてのものは、真実を歌い上げているというのが仏教思想なのです。

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猿沢の池

2013年02月05日 | 禅の心
手を打てば 鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ 猿沢の池

奈良の興福寺のたもとにある猿沢の池の光景をよんだうたです。

 手をパンパンとたたくと、鳥は驚いて逃げるし、鯉は餌をもらえると思って近寄り、女中さんは、お客さんが来て、呼んでいると思ってお茶を持って出てくるという光景です。唯識では、同じことでもそれを受け止める人によって、違った解釈をすると考えます。手をたたいて、鳥が逃げるのも、鯉が寄ってくるのも、女中さんがお茶を持ってくるのも、どれも真実であって、正解であるのです。現代人の悪い癖は、一つのことがらに答えが一つしかないと考えてしまうことです。確かに、答えが一つしかないものもあります。自分の見方と違う意見にも耳を傾けてみることも大事なのです。
原子力発電所の再稼働に賛成か反対か、消費税の増税に賛成か反対かというようなことは、人のそれぞれの立場によって違ってきます。答えがないのです。あるいはどれも正解なのです。しかし、宗教の世界には、真理はあります。しかしそれは簡単にはわかりません。それを自分の考え方が絶対に正しいとみんなが言い合うから争いになるのです。
 猿沢の池の「猿沢」とは、「去る差和」ということなのです。生死、美醜、善悪などの差別的な見方から去りなさい、離れなさいということです。差別的な見方から離れたとことに真実の姿が見えてくるのです。
手をたたいた人は、何かをしたくて手をたたいたのでしょう。真実は一つです。鯉を呼んだのか、あるいは、女中さんを呼んだのか、それとも、目の前に飛んできた蚊をたたいたのかもしれません。それを、「あの人は女中さんを呼んだに違いない」と、とらわれてしまうと、真実の姿は見えてきません。猿沢は、とらわれた心から離れなさいということなのです。
とらわれたり、こだわったり、かたよったりすることが、苦しみの根源だというのが仏教思想の根本の部分なのです。

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自分らしく生きる

2013年02月01日 | 禅の心
ひろさちや先生のお話に出てくる江戸の小咄です。
若者の家の大家さんが、若者に説教をするお話です。
大家「若いうちはしっかり働きんさいや」
若者「大家さん、しっかり働いたらどがあなるんかね?」
大家「そりゃあお金がもらえるんじゃよ」
若者「お金がもらえたらどがなるんかね」
大家「自分の店を持つことができるじゃろうよ」
若者「自分の店を持ったらどがあなるんかね」
大家「自分の店をもって、番頭さんに店を任せて自分はのんびりできる身分になれるんじゃ」
若者「わしゃぁ、もうのんびり昼寝できる身分なんよ」

良い大学を出て、良い会社に就職すれば幸せな一生を送ることができるということは昔の話になりつつあります。それどころか、一生懸命生きてきて、気がついてみれば、「自分は何のために生きているのだろう」と思う人もいます。楽な生活をするためだけに一生懸命働いて生きているのでしょうか。
人間は、自分らしく生きるために生きているのだと私は考えます。あるいは、自分で自分を生きると言ってもいいかもしれません。社会の奴隷になって生きるのではなく、あくまでも、自分らしく生きることが大事なのです。
般若心経の「空」の心は、概念や権威にとらわれずに生きなさいという教えなのです。仕事一筋に生きる人はそれでも良いし、自分の生活のためにお金を稼ぎ、趣味を充実して生きてもいいのです。自分はどうありたいかを考えることが大事なのです。

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