行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

性善説でも性悪説でもない

2013年04月12日 | 禅の心
性善説でも性悪説でもない

○(記者)「衆生本来仏なり」だから仏教は性善説ですね。
○(烏鷺滝)ちがう。

○(記者)「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」だから仏教は性悪説ですか。
○(烏鷺滝)ちがう。

○(記者)性善説でも性悪説でもなかったらどちらなんですか。
○(烏鷺滝)あんた、性善説か性悪説かどちらかでないと気が済まないんじゃね。
よう覚えときんさい。仏教では「善と悪」「生と死」というように物事を二つに分けて考えることをしないんじゃよ。

○(記者)どちらかはっきりしないと気持ち悪いですね。
○(烏鷺滝)あんたも大学までの学校で、物事を二つに分けて考えることに慣れとるんじゃろうけ、仕方ないわの。特に西洋文化ちゅうもんは、ものごとを分けて考えることが主なんじゃ。そもそも科学というもんは物事を分析することから始まるんじゃけぇの。しかし、仏教では分けんのんじゃよ。

○(記者)では、仏教では人間の善悪についてどのように考えているんですか。
○(烏鷺滝)「衆生本来仏なり」つまり、人間はもともと仏心をもっておると考える。

○(記者)仏なのになぜ悪いことをするのですか。
○(烏鷺滝)月が雲に隠れてしまうように、仏心が悪い心に隠れてしまうんじゃよ。
鏡がくもって見えなくなるようなもんじゃ。

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烏鷺滝が生死を語る

2013年04月09日 | 禅の心
烏鷺滝が生死を語る

○人間にとって死ぬか生きるかということほど大きな問題はない。
○死ぬのは誰でも怖い。
○怖くないと言っても怖い。
○自殺はなぜいけないかと議論してもつまらない。
○命を絶つということでは、自分も他人も同じことなのだ。だから自殺は人殺しと同じことなのだ。
○死にたいという人に、「生きていればいいことあるさ」というのはどうか。
○確かに生きていればいいこともある。
○しかし、死にたいと言っている人に「生きていればいいことある」と言っても無駄である。
○生きていてもいいことがないと思っているから死にたいのだから。
○「死ぬな」でいいのだ。

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澤木興道老師の平和観

2013年04月05日 | 禅の心
澤木興道老師は、日露戦争に出征し、負傷されました。確かに当時はお国のために戦ってこられたのですが、第二次世界大戦が終わってみると、自らがグループボケしていたことに気付かれたようです。
「忠義、忠義と言うけれど、どっち向いてどうしておるのかわからぬ。わしらも日露戦争では本気になって戦争したのじゃが、こう負けてみると、せんでもよかったことをしたということが、よう分かる。だいたい戦争なんぞせんでもええんじゃ。」
澤木興道老師はよくグループボケということを言われますが、戦争こそグループボケのさいたるものなのです。そして、このグループボケののぼせをさますのが坐禅なのです。まわりに流さず、常に自分自身で、何が正しいか、何が善い事なのかを考えていかなければなりません。

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宿業

2013年04月02日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
大漁

          金子みすゞ

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ

はまは祭のようだけど
海の中では
何万の
いわしのとむらい
するだろう


金子みすゞの『大漁』という詩です。
 人間が生まれながらに背負っている「罪」をうたっていると思います。あるいは「宿業」といってもいいかもしれません。
 どんなに自分は善人だと思っていても他の命を犠牲にしなければ生きていけないのが人間というものなのです。この持って生まれた罪は決して消していくことはできません。しかし、犠牲になった命に感謝して生きていくことと無駄を少しでもなくしていくことが、ささやかな罪滅ぼしになるのです。「南無阿弥陀仏」の六字の名号には感謝と懺悔の気持ちも含まれているのです。

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