行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

親不孝者は牛に生まれ変わるぞ

2013年12月13日 | 禅の心
次は、寒山の詩の一つです。

我見世間人     われ世間の人を見るに
堂堂好偽相 堂々として好き偽相(ぎそう=スタイル)なるも
不報父母恩 父母の恩に報いず
方寸底模様 方寸、底(なん)の模様ぞ
欠負他人銭 他人の銭を欠き負い
蹄穿始惆悵 蹄(ひづめ)穿(うが)ちて始めて惆悵(ちゅうちょう)す
箇箇惜妻児 箇箇(ここ)妻児を 惜(いとおし)み
爺娘不供養 爺娘(やじょう)をば供養せず
兄弟似寃家 兄弟(けいてい)は寃家(えんか)に似
心中常悒怏 心中常に悒怏(ゆうおうー楽しくない)
憶昔少年時 憶ふ昔少年の時
求神願成長 神に求めて成長せんことを願ひしに
今為不孝子 今は不孝の子と為る
世間多此様 世間此の様多し



世間の人の様子をみると
実にかっこよくて立派なものじゃ
ところが、親の恩さえわからぬ者もいるが
いったいどんな心でいるのじゃろうか。
他人からお金を借りても返すわけではない
蹄の割れた牛になって後悔するのがおちというものじゃ。
どいつもこいつも、妻子をいとおしむのは良いことなのじゃが
それに対して、年老いた父母のことなどほったらかしじゃ。
兄弟の仲も悪くて心安らぐときもない。
思えばむかし、彼らが少年のころ
その親たちは我が子の健やかな成長を神仏に祈ったものじゃが。
今はこんなに親不孝者になってしもうたもんじゃ。
世間にはこんな見本がいくらでもあるんじゃよ。


 寒山子のニヒルな皮肉というよりも、世間に対する叱責の詩です。
生前に借金を返さずに死んだ者は、お金を借りた家の牛となってこき使われるという説話が中国にあります。他人のことではなく親に育ててもらっていながら、親を大切にしないのも同じだというのです。親は子供を育てるために汗水垂らして働いてきたのに子供には軽くあしらわれているのは嘆かわしいことだと寒山子は言うのです。
 親は、将来子供に養ってもらおうと思って子供を育てているわけではないので、親孝行しないのと、借金を返さないのとは別次元のことのようで同じことなのです。

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ぼくは12歳

2013年12月10日 | 禅の心
『ぼくは12歳』は、作家の高史明さんの息子の岡真史さんの詩集です。岡真史さんは、1975年に12歳の若さで自ら命を断ちました。夏目漱石の『こころ』などを読んで物思いにふけるような繊細な心をもった少年でした。

にんげん
あらけずりのほうが
そんをする

すべすべ
してた方がよい

でもそれじゃ
この世の中
ぜんぜん
よくならない

この世の中に
自由なんて
あるだろうか

ひとつもありはしない

てめえだけで
かんがえろ
それが
じゆうなんだよ

かえしてよ
大人たち
なにをだって
きまってるだろ
自分を
かえして
おねがいだよ

きれいごとでは
すまされない
こともある
まるくおさまらない
ことがある

そういう時
もうだめだと思ったら
自分じしんに
まけることもある

心のしゅうぜんに
いちばんいいのは
自分じしんを
ちょうこくすることだ
あらけずりに
あらけずりに・・・・・・・・

 自殺の動機など、詳しいことは私にはわかりませんが、日本の社会の繁栄の陰で少年の心にひずみが出てきていたのかもしれないと私は考えます。
もっともっとがんばって、他人に負けるなという当時の風潮の中で心が疲れていったのかもしれません。「てめえだけで考える。それが自由なんだよ」釈尊も「自灯明」という言葉で同じことを言われました。自分で考えることができない。自分で自分自身の人生を生きていくことができない。そんな世の中に嫌気がさしたのかもしれません。
自分で自分の人生を生きていくために、自分自身を荒削りに彫刻することに一筋の光を見いだしたのも束の間、すべすべした心はなかなか荒削りにならないのでした。親の敷いたレール、社会の敷いたレールの上をただ進んで行くしかなかったのでした。自分で自分の人生を生きていくことは幸せなことなのですが、現代社会ではそれがとても難しいのです。社会に抵抗していく勇ましさをもつことができれば、自ら命を断たなくてもよかったのでしょうけども、それができないのです。

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一会一期

2013年12月06日 | 禅の心
 「あなたの好きな言葉は何ですか」と聞くと、「一期一会」と返ってくることが多いです。「一期一会」は、ある意味、ありきたりな座右の銘といった感じですが、一期一会の精神で、今という時を精いっぱい生きているのか、自問自答していかなけばならないと思います。「一期一会」は安政の大獄で暗殺された井伊直弼の座右の銘で、「今の出会いは一度限りだから、今の出会いを大切にしよう」といった意味になりますが、発展して「今というときはにどとかえってこないのだから、今を精いっぱい生きようということになります。」
 しかし、私は、さらに発展させて、今を精いっぱい生きることは、永遠を生きることだと思っています。これを「一会一期」と表現したいのです。
 今を生きることは永遠を生きること、これが禅の心なのです。

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ラストストロー

2013年12月03日 | 禅の心
ラストストローとは、ついにたえきれなくなる負担のことです。ラクダに重荷を背負わせます。さまざまな荷物を、もうこれ以上積めないぎりぎりまで積むのです。そして、その上にわら一本を載せます。そうするとラクダは完全に参って倒れてしまう。その一本のわらが最後のわらです。だから、その最後の一本のわらが、「ついに耐えきれなくなる負担」になるのです。ラクダは、一本のわらによって倒れてしまったのではありません。たくさんの荷物によって倒れたのです。でも、私たちは、最後の一本のわらによって倒れ込んだものと、錯覚してしまうのです。
たとえば、ガンで死ぬというのは、ガン細胞に侵されて死ぬのではありません。ガン細胞に侵されるまでに、過労、睡眠不足、ストレスなど、体が弱ってしまう原因があったのです。
 子供がぐれて不良になってしまったり、引きこもりになってしまうのは、親が悪いとか、環境が悪いとか、何か特定の原因があるのではありません。いろいろな要素が積み重なって、ぐれたり、引きこもりになってしまうのです。
 何か(ラストストロー)にとらわれてしまうと、物事の本質がわからなくなってしまいます。
 釈尊は、物事には原因(ラストストロー)があって結果があるだけではない、縁(重い荷物)というものがあって結果が生まれるのだと考えました。縁をよくみて考えようというのが仏の道というものなのです。

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