行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

理論家は弱い

2014年04月11日 | 禅の心
寒山詩の一節です。



我見利智人 觀者便知意
不假尋文字 直入如來地 
心不逐諸緣 意根不妄起 
心意不生時 內外無餘事



われ利智の人を見るに 観ずればすなはち意を知る
文字をたずぬるをからず 直ちに如来の地に入る
心は諸縁をおはず 意根はみだりに起こらず
心意の生ぜざる時は 内外に余事無し




私は智恵のすぐれた人を見たが、彼は観想によってまっすぐに心を認識する。文字によらず、まっすぐに仏のすがたを得る。心は多くの因縁を追わず、意識の根源たる精神作用はみだりにおこらない。心と意識が妄動しないときには、心の内と外に少しも混乱が起こらない。


これは、禅の4つの特色である 不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏 を表した寒山詩です。禅は文字だけでは表しきれないこで不立文字というのです。文字で表せないのではなく、表しきれないのです。利智の人というのは、真実を見極めることのできる人です。禅は理屈ではないのです。理論、理屈ばかり追い求めている人は弱い。理論武装とはいいますが、理論ほど壊れやすくもろいものはないのです。理論を超えたものが強いのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

澤木興道老師の言葉

2014年04月08日 | 禅の心
○宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。



○一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合財みんな見本が悪すぎる。



○世の中はヒトやヨソモンを背景にして自分をエラクみせようとする。味ないものを、皿で味をもたすようなもんじゃ。そんなことで世間では、人間を見失う。



○仏道とはよそ見せんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧という。飯を食うのはクソをするためではない。クソをするのはコヤシをつくるためではない。ところがこのごろは、学校へ行くのは上の学校へ行くため、上の学校へ行くのは就職するため、と思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人殺しには縁が必要

2014年04月04日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
親鸞聖人は、人殺しをする縁があるから人殺しをするのだと言っておられます。どんな聖人君子でも、死ぬまでの間に、大きな間違いをする可能性があります。悪いことをする可能性があるのが人間というものです。自分の中の悪人性を自覚している人が救われるのです。自分は決して悪いことなどしないと思うのは、親鸞聖人のいう善人なのです。親鸞聖人のいう善人は決して好ましい意味ではありません。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水のごとく

2014年04月01日 | 禅の心
山田無文老師の言葉です。

水のごとく よどみなく
さらさらと 流れたい。
どんな良いことがあっても、
どんな悪いことがあっても、
うしろをふり向かずに、
前へ前へ、
さらさらと流れたい。

左右の岸にどんな美しい花が
咲いておっても、
どんなに楽しく小鳥が
鳴いておっても、
その美しさをほめながら、
その楽しさをよろこびながら、
足ぶみせずに流れよう。

流れる水は凍らぬとか。
流れる水は腐らぬとか。
それが生きておると
いうことであろう。

田畑をうるおし、
草木を養い、
魚を育てながら、
決して高きを望まず、
低い方へ低い方へ、
水の流れる如く、
わたくしも流れたい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする