行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

自動車が悪い

2018年03月13日 | 仏の心
山田無文老師が49年前に次のようなお話をされていました。
「今日の社会の混乱は・・・・・自動車が悪いのだ。
 あの冷たい車という機械の中に入ると、人間の心も機械のごとく冷却し、人間性を喪失せざるを得ないだろう。
 自動車に乗って、高速道路に出て、規定の料金さえ払えば、人間はみな平等の権利を持つのである。
前の車も、後ろの車も横の車も敵である。車に乗れば四方八方敵ばかりである。
これが今日の社会人の習慣づけられた性格ではなかろうか。一部過激学生に言わすと、教授も敵、学長も敵、理事会も敵、文部省も敵、佐藤内閣も敵である。
 いったい味方はどこにおるのであろうか。マイカーだけ。横に座っておる助手の妻と、後ろに乗せた子どもたちだけが味方である。マイホーム主義というのは、畢竟マイカー生活から割り出されたものではなかろうか。
 車の中は狭いのだから、両親や兄弟も別の車に乗ってもらわねばならぬ。両親が別の車に乗られるとたちまち敵になってしまう。なんと味気ない世相であることよ。」


車社会に限らず、文明とは、日本人の持っていた「和」の精神までも失わせるのでしょうか。

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諸行無常

2018年03月09日 | 仏の心
太宰治の『人間失格』の第三の手紙の最後の部分です。

いまは自分には、幸福も不幸もありません。
 ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
 ただ、一さいは過ぎて行きます。
 自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。


「ただ、一さいは過ぎていきます」が真理らしく思われたというのです。
これは仏教思想というよりは、日本人の持ち続けてきた感性です。

全てのものは移り変わっていくのですが、その中に永遠不変なものを求めていく。
始まりがあれば必ず終わりがある。
出会いがあれば必ず別れがある。
生があれば必ず死がある。

全てのものは過ぎ去っていきます。しかし、その中に永遠不変なものを求めていくのが、華道、茶道、俳諧などの日本文化なのです。



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迷信を否定するのもまた迷い

2018年03月06日 | 仏の心
仏教は死後の世界、輪廻、霊魂の存在などを否定していると言われています。(実際には釈尊は、否定というよりも、死後の世界の事を語らない無記の立場をとられました)
しかし、そのことは頭に入れておく必要があるとは思うのですが、現在、私たちが目にしている仏教は中国、日本でその土地の思想や宗教(具体的には儒教、道教、陰陽道、日本の神道などです。)と結び付いて、その風土に合ったように形を変えていったのも事実です。
原始仏教は、先祖供養、葬儀、死後の世界、輪廻(生まれ変わり)などを否定してきたのかもしれません。しかし、それらは日本人の文化や道徳観に大きな影響を与えてきたことも事実です。
原始仏教について正しい知識を持っておくことは大切ですが、長い時間で私たちに合うように形を変えてきた意味も考えてみる必要があると思います。


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履き物をそろえて脱ごう 心が落ち着く

2018年03月02日 | 仏の心
難しい言葉では、「看脚下」とか「照顧脚下」と言っています。

 人間、忙しくなったり、心が乱れてくると、一つ一つの動作が雑になってきます。心の乱れが字の乱れになって表れたり、言葉の乱れになったりするものです。急いでいるあまり、履き物を乱して脱ぐこともままあります。
 心が乱れると、動作が乱れるのなら、動作を正せば、心をただすことになるのかもしれません。忙しいときほど、一つ一つの動作を正確に行えば、心が落ち着いてくるものです。
  さらに言えば、照顧脚下、看脚下は、人の悪いところばかりに目をやるのではなく、自分自身を厳しく見つめましょうという意味もあります。特に現代人に欠けていることなのでしょう。

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