【通州事件】反日デモによる損害の責任は日本政府にある、という中国外務省の声明は、1874(明治7)年、「台湾生蕃は化外の民」と弁明した清朝政府とあまり変わらない。http://www.47news.jp/CN/201209/CN2012091701001789.html
9月18日は1931年9月18日、満州の奉天郊外で「柳条湖事件」が起きた日である。関東軍の参謀石原完爾と板垣征四郎が計画して、満州鉄道を爆破し、張学良軍の仕業としてその兵営を攻撃し、張学良軍は本格的に抗戦せず、北京(当時は南京が首都だったので「北平」)に撤兵。翌32年3月、関東軍は「満州国」を設立し、首都を長春に置き、これを「新京」と改名した。
その後、長城南部の湖北省に「翼東(きとう)防共自治政府」という傀儡政権を1935年に樹立した。満州国と北京との間に介在する重要な地域である。この国家の首都所在地が「通州」である。北京から東に20キロほどの所にある。
1937年7月29日、翼東自治政府軍5,000人が反乱を起こし、日本軍特務機関(10人)、日本軍守備隊(約120人)、日本人居留民(本島人約200人、半島人約200人)を襲撃し、特務機関員全員、守備隊30余人、本島人104人、半島人108人が虐殺されるという事件が起きた。たんなる虐殺でなく、暴行・略奪と家屋破壊を伴っていた。世にいう「通州事件」で、中国大陸における軍事衝突が、以後、虐殺と暴行略奪を伴うことの始まりとなった。(「世界戦争犯罪事典」, 文藝春秋, 2002)
事件後、すぐに救援・救助のため現地に動員されたのが日本軍第16師団(京都)で悲惨な状況をつぶさに見た。この師団は同年12月南京攻略戦に投入され、「南京大虐殺」に関与した主な師団のひとつとなった。
南京事件を知る人は多くても、その半年ほど前に起きた「通州事件」を覚えている人は少なかろう。
日本軍がおかした蛮行は日本のメディアには記録されていないが、中国軍の蛮行は当時のメディアに報道されている。「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」という日中戦争のプロパガンダに利用されたのである。
1937(昭和12)年に文藝春秋社から「話」という月刊雑誌が出ていた。今日の週刊誌のような編集方針である。
その10月号に「通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会」が掲載されている。事件発生後4日目に現地入りした「調査隊」に同行した雑誌記者が開いたもので、「近水楼」という高級旅館の様子がこう書かれている。
「天津の芙蓉館、北京の扶桑館にも劣らない」というこの旅館の、
「玄関からそれに続く広間などは目茶苦茶で血しぶきは飛び、どす黒い血潮は餅を置いたように、厚みをもって床の上に固まっていた。…土足のまま二階に上がってみたが戸障子からふすま、畳まで剥がされてよくもこれまで荒らしたものと思われるほどであった。…階下に降りて料理場に続いた女中部屋を覗いて、血液が一時に逆流するかと思われるほど、愕然とした。そこには六、七人の女中が、頭といわず、顔、首、胸、手足、ことに腹部より下に対しての残忍極まる鬼畜もなさざる虐行を敢えてしてあった。」(菊池信平編「昭和12年の<週刊文春>」, 文春新書, 2007)
最後の部分は当時の検閲のためズバリと書いてないが、若い女中たちが強姦された後、殺戮されたことは疑う余地がない。
この古い事件を持ち出したのは、別に「反中感情」を煽るのが目的ではない。
座談会中、恐らく軍と関係があったと思われる森脇高英という「生存者」が語っているように、「翼東保安隊は、反乱を起こしたものの少数の通州日本軍が意外に頑強で、手間取っている内に援軍は来る、空襲はされる、危ないと思ったので、鬱憤を無力な居留民の虐殺ではらし、行きがけの駄賃で金目のものを略奪した」というのが、事件の本質だろう。
統制を失った人間集団は、容易にこのような略奪・残虐行為にはしる。万余に膨れ上がった中国の反日デモ隊が、「鬱憤はらし」に暴走するのはいたしかたない面がある。問題は「暴走をいかに防ぐか」にある。
「読売」が伝える日本人に対する現地の反応は、ちょっと恐ろしい気がする。旅行を中止して本当によかった…
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120918-OYT1T00691.htm
<18日に関西空港に帰国した兵庫県たつの市の男性(55)ら4人は、柳条湖事件の舞台となった中国・瀋陽を3泊4日で観光旅行した。同行した現地ガイドが別のガイドから「おまえたちはここから去れ」と中国語で言われたといい、男性は「緊張の連続だった」と話した。
成田空港に帰り着いた群馬県桐生市の主婦(70)は、観光ツアーで瀋陽や長春を訪れた。現地ではガイドから私語を慎むように言われ、持ち物につけていた日本語のシールをすべてはがしたという。北京市内に住む俳優青木一世かずやさん(19)は「雰囲気が危なくて日本に戻ってきた」という。「3日前にタクシーの中で電話した際、うっかり『もしもし』と言ってしまい、運転手に降ろされた」と話した。>
この「現地ガイド」というのがくせ者で、日本人はお人好しだから旅行会社のいいなりに高い金を払っているが、一党独裁の中国では見てほしくないところが山ほどある。だから勝手にあちこち見ないように、共産党の見張りがつくのである。これが「現地ガイド」。私は1987年に訪中した時、これを経験した。ガイドは党幹部の娘だった。
天津から北京にバスで戻る日、仲間三人と天津駅に行ったら北京行き一等車切符を売ってくれたので、「列車で戻り、天安門広場で落ち合う」と告げたら、「身の安全は保証できない」とガイドに言われた。ガイドは党命令に忠実だっただけだろう。
何しろホテルに自動ドアなどなく、すべてのドアに監視が貼りついていて、出入りしようとするとドアを開けてくれる。早朝から深夜までそうである。失業対策だろうと思うが、「常時監視されている」と感じる。脱出して天津から特急に乗り、北京駅でタクシーを拾って天安門広場に行き、「ここで100万人の大集会を開くとき、トイレはどうするのだろう?」と周囲の歩道を探検したら、ちゃんとその仕掛けがあった。
ガイドなんかなくても、バックパッカーが気軽に安心して歩き回れる国にしないと、本当の「観光立国」はできないだろう。そのためには「隠すものがある」独裁体制はダメなのである。
日本メディアの報道ではデモ参加者の生の声がぜんぜん聞こえてこない。参加者の年齢すらわからない。何で中国人をふくめ、外国人記者を使わないのか。不思議でしょうがない。
ロイターによると、18~20歳の若者が多い。テレビ画像によると、圧倒的多数は男性だ。中には毛沢東の肖像写真を掲げた姿もある。毛沢東が小平との権力闘争に敗れ死去したのが1976年である。この年に生まれた人すら、いま36歳だ。ましてや1966~76の「文化大革命」を実際に経験した世代は、もう60歳以上になっているはずだ。
今の若い世代は「文革」の10年がいかにひどい時代だったかを知らない。だから「造反有理」と書いてある、赤い「毛沢東語録」手帳を振りかざせば、誰からも妨害されることなく権力者を糾弾できた、あの時代が羨ましいのであろう。
1979年から中国は「一人っ子政策」を推進した。よって1980年から約20年間はいちじるしい出生率の低下がある。今、32~22歳の年代層である。この年代が急速に高齢化が進む中国社会の今後の社会保障制度を支えなければならない。他方で、余分に生まれたため「戸籍に登録されていない」無戸籍者が1,300万人(全人口の1%)もいる。これも大問題である。
日本で「団塊の世代」がいかに大きな社会的インパクを与えたかを知れば、80年代以後の国策的人口減と、それに伴う男女比のバランスの乱れがどれほど大きなショック・ウェーブになるか、推測がつく。
9月18日は1931年9月18日、満州の奉天郊外で「柳条湖事件」が起きた日である。関東軍の参謀石原完爾と板垣征四郎が計画して、満州鉄道を爆破し、張学良軍の仕業としてその兵営を攻撃し、張学良軍は本格的に抗戦せず、北京(当時は南京が首都だったので「北平」)に撤兵。翌32年3月、関東軍は「満州国」を設立し、首都を長春に置き、これを「新京」と改名した。
その後、長城南部の湖北省に「翼東(きとう)防共自治政府」という傀儡政権を1935年に樹立した。満州国と北京との間に介在する重要な地域である。この国家の首都所在地が「通州」である。北京から東に20キロほどの所にある。
1937年7月29日、翼東自治政府軍5,000人が反乱を起こし、日本軍特務機関(10人)、日本軍守備隊(約120人)、日本人居留民(本島人約200人、半島人約200人)を襲撃し、特務機関員全員、守備隊30余人、本島人104人、半島人108人が虐殺されるという事件が起きた。たんなる虐殺でなく、暴行・略奪と家屋破壊を伴っていた。世にいう「通州事件」で、中国大陸における軍事衝突が、以後、虐殺と暴行略奪を伴うことの始まりとなった。(「世界戦争犯罪事典」, 文藝春秋, 2002)
事件後、すぐに救援・救助のため現地に動員されたのが日本軍第16師団(京都)で悲惨な状況をつぶさに見た。この師団は同年12月南京攻略戦に投入され、「南京大虐殺」に関与した主な師団のひとつとなった。
南京事件を知る人は多くても、その半年ほど前に起きた「通州事件」を覚えている人は少なかろう。
日本軍がおかした蛮行は日本のメディアには記録されていないが、中国軍の蛮行は当時のメディアに報道されている。「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」という日中戦争のプロパガンダに利用されたのである。
1937(昭和12)年に文藝春秋社から「話」という月刊雑誌が出ていた。今日の週刊誌のような編集方針である。
その10月号に「通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会」が掲載されている。事件発生後4日目に現地入りした「調査隊」に同行した雑誌記者が開いたもので、「近水楼」という高級旅館の様子がこう書かれている。
「天津の芙蓉館、北京の扶桑館にも劣らない」というこの旅館の、
「玄関からそれに続く広間などは目茶苦茶で血しぶきは飛び、どす黒い血潮は餅を置いたように、厚みをもって床の上に固まっていた。…土足のまま二階に上がってみたが戸障子からふすま、畳まで剥がされてよくもこれまで荒らしたものと思われるほどであった。…階下に降りて料理場に続いた女中部屋を覗いて、血液が一時に逆流するかと思われるほど、愕然とした。そこには六、七人の女中が、頭といわず、顔、首、胸、手足、ことに腹部より下に対しての残忍極まる鬼畜もなさざる虐行を敢えてしてあった。」(菊池信平編「昭和12年の<週刊文春>」, 文春新書, 2007)
最後の部分は当時の検閲のためズバリと書いてないが、若い女中たちが強姦された後、殺戮されたことは疑う余地がない。
この古い事件を持ち出したのは、別に「反中感情」を煽るのが目的ではない。
座談会中、恐らく軍と関係があったと思われる森脇高英という「生存者」が語っているように、「翼東保安隊は、反乱を起こしたものの少数の通州日本軍が意外に頑強で、手間取っている内に援軍は来る、空襲はされる、危ないと思ったので、鬱憤を無力な居留民の虐殺ではらし、行きがけの駄賃で金目のものを略奪した」というのが、事件の本質だろう。
統制を失った人間集団は、容易にこのような略奪・残虐行為にはしる。万余に膨れ上がった中国の反日デモ隊が、「鬱憤はらし」に暴走するのはいたしかたない面がある。問題は「暴走をいかに防ぐか」にある。
「読売」が伝える日本人に対する現地の反応は、ちょっと恐ろしい気がする。旅行を中止して本当によかった…
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120918-OYT1T00691.htm
<18日に関西空港に帰国した兵庫県たつの市の男性(55)ら4人は、柳条湖事件の舞台となった中国・瀋陽を3泊4日で観光旅行した。同行した現地ガイドが別のガイドから「おまえたちはここから去れ」と中国語で言われたといい、男性は「緊張の連続だった」と話した。
成田空港に帰り着いた群馬県桐生市の主婦(70)は、観光ツアーで瀋陽や長春を訪れた。現地ではガイドから私語を慎むように言われ、持ち物につけていた日本語のシールをすべてはがしたという。北京市内に住む俳優青木一世かずやさん(19)は「雰囲気が危なくて日本に戻ってきた」という。「3日前にタクシーの中で電話した際、うっかり『もしもし』と言ってしまい、運転手に降ろされた」と話した。>
この「現地ガイド」というのがくせ者で、日本人はお人好しだから旅行会社のいいなりに高い金を払っているが、一党独裁の中国では見てほしくないところが山ほどある。だから勝手にあちこち見ないように、共産党の見張りがつくのである。これが「現地ガイド」。私は1987年に訪中した時、これを経験した。ガイドは党幹部の娘だった。
天津から北京にバスで戻る日、仲間三人と天津駅に行ったら北京行き一等車切符を売ってくれたので、「列車で戻り、天安門広場で落ち合う」と告げたら、「身の安全は保証できない」とガイドに言われた。ガイドは党命令に忠実だっただけだろう。
何しろホテルに自動ドアなどなく、すべてのドアに監視が貼りついていて、出入りしようとするとドアを開けてくれる。早朝から深夜までそうである。失業対策だろうと思うが、「常時監視されている」と感じる。脱出して天津から特急に乗り、北京駅でタクシーを拾って天安門広場に行き、「ここで100万人の大集会を開くとき、トイレはどうするのだろう?」と周囲の歩道を探検したら、ちゃんとその仕掛けがあった。
ガイドなんかなくても、バックパッカーが気軽に安心して歩き回れる国にしないと、本当の「観光立国」はできないだろう。そのためには「隠すものがある」独裁体制はダメなのである。
日本メディアの報道ではデモ参加者の生の声がぜんぜん聞こえてこない。参加者の年齢すらわからない。何で中国人をふくめ、外国人記者を使わないのか。不思議でしょうがない。
ロイターによると、18~20歳の若者が多い。テレビ画像によると、圧倒的多数は男性だ。中には毛沢東の肖像写真を掲げた姿もある。毛沢東が小平との権力闘争に敗れ死去したのが1976年である。この年に生まれた人すら、いま36歳だ。ましてや1966~76の「文化大革命」を実際に経験した世代は、もう60歳以上になっているはずだ。
今の若い世代は「文革」の10年がいかにひどい時代だったかを知らない。だから「造反有理」と書いてある、赤い「毛沢東語録」手帳を振りかざせば、誰からも妨害されることなく権力者を糾弾できた、あの時代が羨ましいのであろう。
1979年から中国は「一人っ子政策」を推進した。よって1980年から約20年間はいちじるしい出生率の低下がある。今、32~22歳の年代層である。この年代が急速に高齢化が進む中国社会の今後の社会保障制度を支えなければならない。他方で、余分に生まれたため「戸籍に登録されていない」無戸籍者が1,300万人(全人口の1%)もいる。これも大問題である。
日本で「団塊の世代」がいかに大きな社会的インパクを与えたかを知れば、80年代以後の国策的人口減と、それに伴う男女比のバランスの乱れがどれほど大きなショック・ウェーブになるか、推測がつく。
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