ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【書評など】難波先生より

2017-12-31 14:19:47 | 難波紘二先生
【書評など】
1)「買いたい新書」の書評に、
 No.401:国谷裕子「キャスターという仕事:言葉の力を信じて」
 No.402:堀江貴文&井川意高「東大から刑務所へ」
 No.403:烏賀陽弘道「フェィクニュースの見分け方」
 No.404:大下英治「百円の男、ダイソー 矢野博丈」
を取り上げた。
詳細はこちらに…
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/new2.php

 No.396で取り上げた吉野源三郎「君たちはどう生きるか」(マンガ版、マガジンハウス)
について、12/10「産経」の「週間ベストセラー」(トーハン調べ)が、マンガ版が一位、テキスト版が四位と報じていた。トーハンはニッパンと並んで、書籍流通業の二大大手のひとつだから、神田か新宿の書店調べよりも、より信頼がおけるだろう。

 同日の「毎日」読書欄「今年の三冊」で、約20人の書評者が今年の推薦書三冊を挙げていた。書評欄もこれからは「今年度回顧」の書評が主体となる。
 その中に、海部宣男(国立天文台名誉教授)がマンガ版の「君たちはどう生きるか」を挙げていてびっくりした。
 この本のテキスト版は岩波文庫なら600円(税別)で入手可能だが、岩波は「買い取り制」だから一般書店の店頭には置かれていない。よって売れているのは「マンガ版:君たちはどう生きるか」(マガジンハウス、1300円)だろう。

<12/27追記>東広島市街地にあるSC内の大型書店に行ったら、入り口の平積み棚の一番手前に岩波文庫版「君たちはどう生きるか」が重ねて置かれていた。(写真1)
(写真1)
帯に「累計125万部」とあるので手にとって奥付を読むと、12/19で「第79刷」とあった。書歴からするとこの本は最初、新潮社「日本小国民文庫4」(1948/10)として出ており、岩波文庫版は1982/11が初版なので、累計部数には岩波文庫化より前のものも含まれているかも知れない。
 それにしても「買い取り制」の岩波文庫が書店の平棚に積まれている光景は初めて見た。
少し離れた横置き用の本棚には、マガジンハウス版の漫画本とテキスト本がたくさん並べられていた。結構わかいひとが手にとって見ている。

 同じ「毎日」書評欄に、鹿島茂(仏文学者、明治大教授)が、こう書いていて驚いた。
<出版業界はいよいよ末期的症状を呈しており、劇的な構造変化は必至である。出版部数は写本時代と変わらぬ数にまで落ち込むことが予想される…(以下略)>
 イタリア在住の作家塩野七生も「ギリシア人の物語3」(近刊)の東京都心の有名書店での仕入れ状況を調べ、「たった400部しかない」と嘆いている(「文藝春秋」2018新年号)。「堅い本が読まれなくなった」という鹿島氏の意見は、ここでも裏付けられている。

 上記書評で、鹿島氏が推薦している「今年の三冊」は
 アラン・コルバン他著「男らしさの歴史 全3巻」(合計28,512円)
 鈴木宏「風から水へ:ある小出版社の三十五年」(3,240円)
 左地亮子「現代を生きるジプシー」(5,616円)
といずれもかなりの値段がする。

 上記「産経」のベストセラー欄を見ると、10冊中9冊は価格が1300円以下のペーパーバックあるいは新書・文庫だ。私見では「高いから良い本」とはいえず、「安いから悪い本」とも一概に言えないと思う。「安くて良い本」を探して書評に取り上げるのも、ひとつの方法だと考えている。
 手前味噌になるが、マンガ版「君たちはどう生きるか」(2017/8刊)を店頭で見つけ、10/27付で「買いたい新書」書評に取り上げておいて良かったと思った。

2)12/08「産経」記事によるとノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの邦訳小説がバカ売れして、累計115万部増刷になったそうだ。売れ行きを見ると、
 1位:「日の名残り」(土屋政雄訳)
 2位:「私を離さないで」(土屋政雄訳)
 3位:「忘れられた巨人」(土屋政雄訳)
 4位:「遠い山なみの光」(小野寺健訳)
の順となっている。
 私は上位3位を土屋政雄訳が占めているのは偶然ではないと思う。
 最初に「日の名残り」を読み感動して、書評に取り上げた。(No.281:2015/7/8)

 ついで長﨑を舞台にした「遠い山なみの光」を読んだが、小野寺訳では土屋訳のような感動を感じられなかった。その次ぎに取りよせた土屋訳の「私を離さないで」を読み、新たな感動を覚えた。(これは年末か来年初めに「買いたい新書」にアップの予定。)
 要するに文学作品にとって訳者はきわめて重要で、「カズオ・イシグロを村上春樹風に翻訳しては、つまらないものになってしまう」と思った。

3)H.ヘッセ:12/02(土)の「日経」書評欄「半歩遅れの読書術」に鹿島田真希という作家がヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」(草思社文庫)を取り上げていた。昆虫好きの少年が、友人が採取したヤママユガの標本を盗む、という話が書いてあり「どこかで読んだな」と思ったが、ハードカバー専門だった草思社から文庫が出たと知り、取りよせて見た。
 書棚にあるヘルマン・ヘッセ(V.ミヒェルス編・岡田朝雄訳)「蝶」(岩波現代ライブラリー、1992)と比べて驚いた。両方とも訳者は同じ岡田朝雄だ。

 「少年の日の思い出」には同名の短編の他に3篇の短編小説がある。他方「蝶」は蝶と蛾についての図譜入りの詩文集で、「幼い日の思い出」という超短編がある。読み較べるとまったく違う。「何じゃこれは?」と思いながら探したら、「クジャクヤママユ」という短編の内容が「少年の日の思い出」というタイトルの短編に一致することがわかった。
 どちらもスイスとおぼしき湖の傍に居を構える「私」のところに、友人が訪ねてきて、私が趣味でやっている蝶や蛾のコレクションを見た後、その友人が少年時代の昆虫採取の思い出を語るという構成になっている。
 ランプの炎で煙草に火を付けた後、友人が語ったのは昆虫採取に熱中していた少年の頃、隣家の友人がクジャクヤママユという貴重なガを捕まえたと聞き、昼間に見せてもらいに行ったがあいにく留守で、つい好奇心のおもむくまま4階に上がり、友人の部屋に入り、展翅されていたクジャクヤママユの標本をポケットに入れて持ち帰ろうとした。が、家を出る前に思いとどまり、ガをポケットから出し、もとに戻そうとしたが、ガの羽根はすでに壊れていた。
 「出来心」といえばそれまでだが、母親にきつく言われて、少年が詫びるために、隣家の友人宅を、夜になって訪れる場面がきわめて印象的だ。

 余談になるが、本文のテキストには「蛾」という言葉と「蝶」という言葉が両方出て来る。英語では蝶をバタフライ(Butterfly)、蛾をモス(Moth)と呼んで区別するが、ドイツ語ではともにシュメッテルリンゲ(Schmetterlinge)と呼ぶ。あえて区別する場合には、前者には「昼間」を意味する「Tag-」を蛾の場合は「夜」を意味する「Nacht-」を付ける。
 ヘッセのドイツ語原文にはあたっていないが、和訳する場合に、訳者は文脈から「シュメッテルリンゲ」が蝶か蛾かを決めなければならない。学名が書いてあればそれが決め手となる。

 そう気づいて、訳者経歴や「訳者後書き」を読むと、訳者自身が「昆虫・蝶蛾採取」の趣味を持ち、「日本昆虫学会」副会長という経歴の持ち主だとわかった。日本にいない「クジャクヤママユ(Eudia spini)」という蛾の和名は、訳者岡田朝雄が付けたと知り驚いた。

 岩波版「蝶」(1984)にある「クジャクヤママユ」と草思社文庫にある「少年の日の思い出」のテキストにちがいがあるのはなぜか?同じページなのに「蝶」という用語と「蛾」という用語が同じ昆虫を指すのに用いられている。
 この疑問は以下により解けた。
 訳者は「シュメッテルリンゲが蝶と蛾の総称として、あるいはどちらか判定困難の場合は<蝶>と訳した」(岩波版「蝶」)と述べている。つまり訳者と読者の「解釈のちがい」だ。

 もう一つ、食い違いが起きた要因として、ヘッセ自身が自作に何度も手を入れ、原文を変え、表題を変えて発表しているということが挙げられる。
 「クジャクヤママユ」(1931)は20年後の1931年に「少年の日の思い出」と改題・改稿されて新たに発表されている。ヘッセの作品は多くの場合、終生にわたり、そういう改稿が繰り返されたという。これでは年代によりテキストに食い違いが出るのは当たり前だ。

 映画化もされた小説「ロリータ」の著者ウラジミール・ナボコフの言葉に「凡人は天才をコピーするが、天才は自分自身をコピーする」という言葉がある。「美しきかな青春」(草思社文庫版所収)のように、1907執筆、1930改稿、1949完成、というような作品を見ると、ナボコフのいうように、ヘッセはやはり「天才」だったと思わざるをえない。


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