【黄金のろば】『寺田寅彦随筆集』の編者小宮豊隆は寅彦とともに漱石の門人でドイツ文学者だが、随筆集に付けた注釈はずいぶんしっかりしていて、良心的な仕事である。
いま、取りよせたアプレイウス『黄金のろば(上・下)』(岩波文庫, 1956)(呉茂一, 呉茂一/国原吉之助訳)を読んでいるが、これはひどい訳だ。上巻を呉が、下巻を国原が訳しているのに、下巻もトップ名は呉になっている。訳注はずさんで「略注」と書いてある。
本文には、ギリシアの話なのに物の値段について、「100円のものを80円に値切った」と書いてある。
ところがその数頁先には、「商人は財布を取り出しお泉貨を並べ、そこへ百デナリを数えて置いた」とある。
もう笑ってしまう。舞台はギリシア時代なんだから、ギリシアの通貨単位は「オボロス」だろうが。「デナリ」はローマの通貨単位「デナリウス」の複数形だ。
有名な精神病学者呉秀三の長男で、岩波全書に「ラテン語入門」(1952)を書いており、泉木吉と共著で『ラテン語小文典:付ギリシア語要約およびラテン・ギリシア造語法』(岩波書店, 1957)も書いている。いちおうギリシア・ローマ学の権威という「ことになっている」のだから、こんな初歩的なミスはしないでもらいたい。父親の顔に泥を塗るものだ。
察するに、この男、ギリシア語もラテン語もあまりできず、英語のLoeb対訳本からの訳でごまかしていたとみえる。あの英訳と訳注はしっかりしているからね、ドイツのトイブナー本よりもすぐれている。
たぶん、「英語:ラテン語テキスト」からの翻訳で、いかにもギリシア語からの翻訳にみせかけたのはよいが、人名や貨幣単位や地名のギリシア語化に失敗して、馬脚をあらわしたというわけだろう。
「三省堂 コンサイス日本人名辞典」には、呉茂一(1897~1977):東大卒、戦後東大、名古屋大の教授を歴任、主要翻訳に「イリアス」、「オデュッセイア」などがある、と載っている。デナリウスを「円」と訳す男だから、どんなホメロスになったことやら。幸い岩波文庫ではホメロスもヘロドトスも松浦千秋訳になっている。
寺田寅彦随筆集に誤訳の話があって、「平服でサラダを出した」という訳文に接して、意味がとれず「訳文を直訳で原文になおしたら意味がとれた」と書いている。「ドレッシングをかけないままサラダを出した」という意味で、<undressed salad>を訳者がドレッシングを知らないので、「ドレス=礼服」のことと思い、「ドレスを着ない=平服のまま」と勘違いしたというわけだ。
大正・昭和初めの頃は、まだ洋食のフルコースなど食べられる人は限られていたので、訳者はドレッシングをかけた正式のサラダを食った経験がなかったのだ。
というわけで、別宮定徳「誤訳迷訳、欠陥翻訳」(文藝春秋, 1981)が列挙しているように、誤訳には語学力不足、教養不足、生活体験不足などいろいろな要因がある。呉に不足しているのは学者としての誠実さだが、それを指摘すると人格批判になるから、やれるのは谷沢永一と山本夏彦くらいのものだろう。
こんな最低の学者が訳した本など読みたくなくなった。
いま、取りよせたアプレイウス『黄金のろば(上・下)』(岩波文庫, 1956)(呉茂一, 呉茂一/国原吉之助訳)を読んでいるが、これはひどい訳だ。上巻を呉が、下巻を国原が訳しているのに、下巻もトップ名は呉になっている。訳注はずさんで「略注」と書いてある。
本文には、ギリシアの話なのに物の値段について、「100円のものを80円に値切った」と書いてある。
ところがその数頁先には、「商人は財布を取り出しお泉貨を並べ、そこへ百デナリを数えて置いた」とある。
もう笑ってしまう。舞台はギリシア時代なんだから、ギリシアの通貨単位は「オボロス」だろうが。「デナリ」はローマの通貨単位「デナリウス」の複数形だ。
有名な精神病学者呉秀三の長男で、岩波全書に「ラテン語入門」(1952)を書いており、泉木吉と共著で『ラテン語小文典:付ギリシア語要約およびラテン・ギリシア造語法』(岩波書店, 1957)も書いている。いちおうギリシア・ローマ学の権威という「ことになっている」のだから、こんな初歩的なミスはしないでもらいたい。父親の顔に泥を塗るものだ。
察するに、この男、ギリシア語もラテン語もあまりできず、英語のLoeb対訳本からの訳でごまかしていたとみえる。あの英訳と訳注はしっかりしているからね、ドイツのトイブナー本よりもすぐれている。
たぶん、「英語:ラテン語テキスト」からの翻訳で、いかにもギリシア語からの翻訳にみせかけたのはよいが、人名や貨幣単位や地名のギリシア語化に失敗して、馬脚をあらわしたというわけだろう。
「三省堂 コンサイス日本人名辞典」には、呉茂一(1897~1977):東大卒、戦後東大、名古屋大の教授を歴任、主要翻訳に「イリアス」、「オデュッセイア」などがある、と載っている。デナリウスを「円」と訳す男だから、どんなホメロスになったことやら。幸い岩波文庫ではホメロスもヘロドトスも松浦千秋訳になっている。
寺田寅彦随筆集に誤訳の話があって、「平服でサラダを出した」という訳文に接して、意味がとれず「訳文を直訳で原文になおしたら意味がとれた」と書いている。「ドレッシングをかけないままサラダを出した」という意味で、<undressed salad>を訳者がドレッシングを知らないので、「ドレス=礼服」のことと思い、「ドレスを着ない=平服のまま」と勘違いしたというわけだ。
大正・昭和初めの頃は、まだ洋食のフルコースなど食べられる人は限られていたので、訳者はドレッシングをかけた正式のサラダを食った経験がなかったのだ。
というわけで、別宮定徳「誤訳迷訳、欠陥翻訳」(文藝春秋, 1981)が列挙しているように、誤訳には語学力不足、教養不足、生活体験不足などいろいろな要因がある。呉に不足しているのは学者としての誠実さだが、それを指摘すると人格批判になるから、やれるのは谷沢永一と山本夏彦くらいのものだろう。
こんな最低の学者が訳した本など読みたくなくなった。
…
酷い憶測ですねえ…(苦笑
呉氏はまともな学者ですよ。
80円、100円とかいうのは当時の日本人に判りやすいように
翻訳したということではないでしょうか。
また、通貨単位については、
>>Loeb対訳本からの訳でごまかしていた
のなら、
>>あの英訳と訳注はしっかりしている
はずのLoebもそういう稚拙な間違いをしていたのでしょうかね…?
ちなみに、「黄金のロバ」は
>>舞台はギリシア時代
といっても、ラテン語で書かれた本で
当然、読者も一般のローマ人です。
ローマの通貨単位を使っていてもおかしくはありません。