霧が渦巻く中で陽が昇り、ミルク色の海底に迷い込んだ
ように明るいのに先が見えない世界をチャータはトボト
ボと飢餓の谷に入って来た方へ向けて歩き出した。
霧は尾根に沿って流れている。所どころ隙間が空くと
谷向かいの高い岩山が見えた。チャータは鼻をくんくん
利かせて進んでいるが行き先はわからない。ただあのア
オタンの歌うさえずりを頼りに歩いているのであった。
姿は見えないが道案内しているルリビタキ。一見いじわ
るそうに見えたが指し示す方向が進むにつれて霧が薄く
なるのを見ると結構いい奴かもしれない。
やがて飢餓の谷に入った松林の入り口に辿りついた。
あの巨大なイノシシ、タルカのいたノノハラッパが林の
向こうに見える。そのときアオタンの歌が頭の上で美し
い調べとなって鳴り響いた。どうやら頭上をくるくる旋
回しているようだ。
ピピピピィィピピー、マヨウナ、ススメ
ピピピィィチチチィー、ジブンニ、シタガエ。
ピピピピィィィーチチチィ
今までに聞いたことがない美しい歌がチャータの耳に
鳴り響く。本当にこれをあのアオタンが一匹で歌ってい
るのだろうか。
そう思っているうちにみるみる霧が晴れて松林と飢餓の
谷がはっきりと姿を現した。
チャータの後ろに飢餓の谷が落ち込むように真下に見え
る。チャータは、ノノハラッパの方へ肢を進めると目の
前に大きな黒松の木がそそり出た。右に行くか左へ行くか。
チャータはアオタンに聞いたが歌はもう聞こえずアオ
タンの姿もなかった。谷からの風に鼻をたてて血の匂い
のする右側へ歩き出した。
するとノノハラッパとは似ても似つかない峠へ出た。
風がはげしく、峠道から落ちないように肢の爪をしっか
りと立てた。素晴らしい山脈が間近に見える。その峻厳
な気持ちにさせる山々にチャータは、足をとめた。生き
てゆく。この世界で何があろうと自分が生きていれるだ
け精いっぱい生きよう。なぜかそうチャータの心がつぶ
やいた。揺るがない意志をもって、晴れ渡った青空へそ
の心の言葉を遠吠えにして叫んだ。
それは、また一人前の、オスの、力強い宣誓の叫びで
もあった。チャータの遠吠えは谷間へ幾重にも鳴り響い
て木魂した。
チャータは、顎をおろしてふと尻尾の下の谷を見た。
それはあの飢餓の谷だった。いつの間にか「風の峠」に
来ていたのだった。とうとう飢餓の谷を抜け出したのだ
った。
×
それから豊かな森へ着いたのは、お昼に近かった。ダ
テカンバの林と椎や楓の森が平地に広がっていた。その
中央に小さな草地に湧水があった。チャータは、半日峠
道を歩いて来たので喉が渇いてゴクゴク一気に飲んだ。
甘い水だった。今まで緊張していた分ほっとしてシダの
葉の上で体をこすりつけてゴロゴロと草地を転がった。
ダテカンバの梢の先に青空が見えた。チャータは腹這い
になって森の草地のぽっかりと開いた空を見上げた。春
の雲が流れている。この空は大昔も同じように青空に白
い雲が流れていたのだろうと濡れた鼻を突き出してぼん
やりと思った。
すると突然地響きがした。ハッとチャータが体を起こ
す前にメスジカがチャータの視界を過って水場を飛び越
えて森の方へ走って行った。そのシカの凄まじい形相は
何かから逃れるようで決死の顔だった。すぐにチャータ
が身を起して見送るその脇を今度は数十頭のヤマイヌが
走り抜けて行った。まるでチャータなど気にも留めず森
の中へ獲物のメスジカを追って消えて行った。
「おまえには分け前をやらねえぞ。」
後ろから声がしてチャータが振り返ると、あの黒いカミ
ソリのようなヤマイヌだった。この縄張りの群れのリー
ダー・ミカズキに次いで二番目に強い獰猛な奴だった。
「オレは腹が減ってるんだ。シカのエサにあり付いたら、
次におまえを八つ裂きにしてやる。ここで待ってろ。」
チャータはムッとして前へ出たが、黒カミソリは、もの
すごいスピードで森へ入って行った。
やがて森の中から烈しいヤマイヌの唸り声と雄たけび
が聞こえた。そしてシカの骨を噛み砕く音。シカのモモ
肉を奪い合う烈しいヤマイヌ同士の喧騒が森に響き渡った。
チャータも腹が減っていたが、今またあいつらともめ
事をするのは、つまらないと思いシカの逃げた森と反対
の方へ歩き出した。それは渓流につづいていてその川沿
いに行くと山芋の蔓が密集していて、とりあえずチャー
タはその土手を掘り返して芋を齧った。ヤマイモは水分
がたっぷりで空腹を満たしてくれた。さらに進むとあち
こちに地ネズミの穴があり、熊笹に忍んで何匹かのネズ
ミを捕って食べた。やはりここは豊かの森だけあって地
ネズミも丸々としていた。
「腰ぬけには、ちょうどいいエサだな。チビよ。」
チャータはその声の方に振り返ったと同時に黒カミソ
リの鋭い牙がチャータの肩に刺さった。