伯父、魁が経理GMをしていた 日本庭園が素晴らしい純和風旅館が在った事は
以前お話しておりますが
そこは、旧国道26号線沿いに面し、南海本線・羽衣駅からも徒歩数分で
立地もよく 素敵な旅館でした。
伯父の息子、
従兄弟の悦夫とは旅館の広大な日本庭園でよく鬼ごっこで遊びました^_^
伯父は常々
「古い建物や古い畳 や 汚 れた寝具じゃお客様に逃げられてしまうので
旅館は常に設備の補修、保全の為に資金が多額に必要だよ」と
「それに従業員だよ」と 「部屋数が多くなればなるほど従業員はたくさんいるんだよ」と
「だから旅館を維持すると言う事は、一時的な羽振りだけで
持続的な営業は出来ないよ」と
よく言ってました。
大阪府下で広大な日本庭園を持った、ホテル形式の旅館は無かったので
結構賑わっていました。
後年、JALホテルシステムに登録されて 海外にも認知されましたが、
規模が大きくて集客に苦慮し 廃業に追い込まれた。
本当に旅館経営は難しいです。
廃業されたのですね。
残念です。
高校が萩高校で伯父がその萩高の後輩で、伯父が税務署勤めで当時公務員は薄給で先輩の小嶋社長からうちに来たらどうかねぇ〜とお誘いを受けたと伯父からは聞いてはおりますが、借入金が多く、どんぶり勘定の旅館の経理状態に杓子定規の伯父が社長様に諫言していたそうですが、伯父は社長様がなくなられます前に退職したと思いますが?でもとても大きな器の社長様でお金は何処からでも引っ張って来れると豪語されていたとの事ですが、お亡くなりになられては致し方ございませんね、確かにお料理は良い素材の美味しいお料理でした、子供の小生でもその、美しい盛り付けや器にはびっくりしました
ご苦労為されてたんですね、わざわざのご投稿
有難うございました。びっくりでございます。
拝
昨年末、羽衣荘について調べていると、阿部様の投稿記事が出て、懐かしく読ませて戴きました、私も1964年頃羽衣荘で和食の修業をしながら、八切有悟親っさんの御理解のもと、辻調理師学校に通わせて戴、卒業後1966年1月渡仏パリへ1967年12月渡米その後波乱万丈の人生を歩んでまいりました。私の数々の自叙伝の中「私の修業時代」に羽衣荘出の事が写真入りで書かれて有ります。minae5151@gmail.comご一報ください。情報交換を出来たら、嬉しいです。又タイトルのシェフタック末次を押すと、限られた情報がパソコンに出て参ります、お試しください。