30年の時を超えて~椎葉から延岡へ~の続きです。
旭中の卒業生とつながったところまでは、前回書きましたが、
実は、その当時3年生だったO君が書いていたコメントを
前略部分を含めてご紹介しますと、こう書いてありました。
はじめまして。
私は延岡、父親は椎葉村出身です。
私は今は、故郷を離れて神奈川県に住んでいます。
先日、祖母が死去(享年百三歳)し椎葉を訪れました。
幼い頃は同じ宮崎なのに悪路で遠く大変でしたが、今は道が善くなり時間もかなり短縮されたようにおもわれます。
やはり、椎葉村の素晴らしい所は大自然と村に暮らす人々ではないでしょうか。
私も日本全国を渓流釣りで訪れましたが、これほど素晴らしいフィールドはありません。
是非、この素晴らしい椎葉村を全国の方々に知ってほしいものですね。
そして、私の書いた前回のブログを読んで、フェイスブックにこんなコメントを
書いてくれました。
実は五月の連休に五年ぶりに帰郷したんです。
その時はなんとなく、「バァーチャンに会わないと。」と思っての里帰りです。
神奈川に移ってからはやはり、こちらがメインの生活になりますので
次第に故郷から離れていきました。
ご存知のとおり、私は渓流釣りを中心に魚釣りをしています。
夏山や雪山を登りつつ日本全国をまわりその土地どちの景色や風土に触れることができます。
それでも、解禁日の三月一日には椎葉村を訪れ、一年間のスタートとしておりました。
しかし年齢が経つにつれ、仕事も私生活も慌ただしくなり、
趣味である釣りも故郷も遠く感じるようになります。
しかし、あの時「バァーチャンに会わないと。」と思ったことは
いま察するに、”虫の知らせ”だったんだと思わざるを得ません。
椎葉に向かい、バァーチャンにあったのですが思いの外、元気です。
(バァーチャン、享年百三歳)
それどころか、バァーチャンから「郵便局の仕事はどうか、まだ結婚しないの?」とか、
「なんだ全然元気じゃん、あと数年は大丈夫じぁね」と、話しかけました。
しかし、バァーチャンが胸のうちをポツリ、ポツリと話し始めます。
「孝が会いにきてくれて、嬉しい。私が死んだら葬儀にはくるな、
お金がかかるじゃろ?生きているうちに会いにきて嬉しいよ。」
「〇〇も〇〇も〇〇も〇〇も、自分の子供は死んでしもうた、孫の〇〇さえ私より先に。」
「なぜ、私は生きているんじゃろ?」
私はバァーチャンの前で子供のように、嗚咽し泣き崩れ、
察してくれた叔母は静かに部屋からいなくなりました。
そしてバァーチャンと二人きり、いつのこと以来でしょう。
話て泣いて二人きり、四十六年生きてきて多分初めてです。
そこには、十年間以上会っていない祖母と孫の隔たりはなかったように思えます。
私は眠りについた祖母を残し静かに部屋をでて、縁側から木々を眺めました。
そこには、見えない筈の渓流が泣き腫らした瞼に映ります。
よし、今度は釣りをしに帰ってこよう。
・・・先生、このような出来事が私にもあったんですよ。
コメントは多分、数日後に書いたものだと思います。
祖母は九月五日真夜中に静かに息を引き取りました。(享年百三歳)
私は祖母の言い付けを守らず、通夜、葬儀、火葬と参加しました。
偶然が偶然をよび、もしかしたら必然的にこのような出会いになったのかもしれませんね。
人生って不思議ですよね。
私は、この文章を読んで、涙があふれました。
おばあちゃんの言葉が切なくて・・でも愛情に満ちていて・・
心が通じ合う二人の様子が浮かび、まるで映画のシーンを見ているようにさえ思えました。
椎葉の空は、本当に手の届きそうなほど近く、すぐそこにありました。
おばあちゃんは、あの満天の星のどれかになって、今日も輝いていらっしゃることでしょう。
ご冥福を心からお祈りしています。
O君のおばあちゃんは、椎葉村最後の明治生まれだったそうです。
最後に、私が昔作った「おばあちゃんの笑顔」という歌を
O君とおばあちゃんにプレゼントしたいと思います。
(・・って録音がないので歌詞だけですみません)
おばあちゃんの笑顔
作詞・作曲 高山千代美
編曲 打木悟
明治生まれの おばあちゃんの笑顔
長い人生を 生きぬいてきた
深いしわのある やさしい笑顔
そばにいるだけで 心が和む
明治・大正・昭和・平成 どんな時にも
家族のため 人のために 働き続けた
明治生まれの おばあちゃんの笑顔
心を込めて ありがとう
明治生まれの おばあちゃんの笑顔
厳しい時代を 生きぬいてきた
みんな大好きな おおらかな笑顔
見つめてるだけで 胸が熱くなる
明治・大正・昭和・平成 辛い時にも
戦火の中 涙こらえて 走り続けた
明治生まれの おばあちゃんの笑顔
心を込めて ありがとう
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