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佐伯沖組の仏教壮年会は七里恒順和上のお寺、博多の万行寺さんにお参りしました。
西本願寺の学匠・七里恒順師は、九州博多の万行寺の住職で、その名は一世を風靡しました。
天保6年(1835)、新潟県の本願寺派明鏡寺に生まれ、14歳から、新潟県内の勧学(本願寺の最高学位)について真宗教学を学ばれました。20歳で、大分県下の勧学(かんがく)を訪ね、さらに教学研究に打ち込まれました。
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門をくぐると、「お念仏しなされや」という恒順和上の言葉が刻された碑があり、本堂に入ると、師の大きな写真とともに「お念仏しなされや」のお言葉がかかげられていました。
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七里恒順師は30歳から布教生活に移り、福岡県博多の万行寺に入った。由緒ある寺であったが、このころは、昔日の面影はなく、荒れはてていたそうです。
七里恒順師は、まず、寺内に私塾「甘露窟」を開き、青年学徒の教育に着手した。
同時に、対象者別に、各種の聞法の会合を設けるというユニークな形で布教を進めた。寺族を教育する「坊守講」、近隣の紳士階級を対象に「恵以真会」、一般の人向けの「要籍会」、少年向けの「教童講」など、ハッキリ的を絞った。なかでも、子供への法話会は新たな試みで、毎月七の日は男子、四の日は女子の集会日と定め、六歳から十五歳までの男子200名、女子400名が集ったといわれる。
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七里恒順和上(しちりごうじゅんわじょう)は明治の大徳と慕われ、全国の求道者の間に「法を聴くなら万行寺へ」と多くの人々が諸国から、この博多の地にご法話を聴きに来られたそうです。当時は「万行寺のお宿」といわれる門前町(祇園町、矢倉門町)に旅館が三十数軒、軒を並べていたといわれています。
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万行寺さんで記念の一枚!
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博多の万行寺さんの次は博多の光専寺さんへ向かいました。
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光専寺さんにお参りしました。光専寺のご住職、城先生は佐伯沖組の中町徳正寺のお生まれです。
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本堂でお勤めのあと七里恒順和上についてお話いただきました。
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庫裏でお茶をいただきました。素敵な設計の庫裏でした!
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このあと今夜の宿舎原鶴温泉、泰泉閣へ向かいました。