聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

卑弥呼の鏡

2009年10月05日 | 朱砂女王卑弥呼
卑弥呼の鏡といわれているのは、画文帯同向式神獣鏡や三角縁神獣鏡です。
それで・・・これらの鏡が卑弥呼の鏡であろうと、なかろうと、またこれらの鏡が中国産であろうと日本産であろうと、3世紀になると、中国からの鏡の分布が畿内中心になっています。三角縁神獣鏡は、畿内の有力古墳からの出土が多く、畿内を中心に分布しています。画文帯神獣鏡の出土も、畿内と瀬戸内東部に偏っています。これらの鏡の出土は、主に畿内で、中国鏡の輸入が三世紀前半以降には畿内に移行している。つまりこの時期には、畿内が政治的主導権を保持していたと考えられるのでは?
纏向遺跡は2世紀末に出現していて、卑弥呼の時代と重なります。また纏向遺跡には関東から九州までにわたる広範囲の土器が出土します。この時代の中心地です。この時期に纏向に匹敵する遺跡がないのでは?
魏志倭人伝が九州内のことしか記述されていないのであれば、巨大な墳墓を作るこの畿内の勢力を何故無視するのか考えづらいわけです。ですが、魏志倭人伝はほとんど九州内のことしか記述されていません。これは陳寿が、倭国王帥升の国から、卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れなかった間違いなのでは?また地理もほとんど理解していなかったようにも思われます。
三角縁神獣鏡には、卑弥呼が朝貢した年とも考えられる、景初三年の年号が入ったものがあります。この年は魏王朝 明帝なくなり次の皇帝の斉王が即位したことによる、朝貢とも言われます。ですから景初二年は三年の誤りだろとも言われます。景初二年と記述されているわけですから、景初二年でいいようにも思うのですが・・・?また景初四年のものもありますが、これこそ鏡が日本で作られたものではなく、中国でつくられた証拠のように思います。
ともかく魏の年号が入っているかぎり、この鏡は魏で作られたものに他ならない。ですから、この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼の鏡のように思います。もちろん画文帯同向式神獣鏡もです。それで、鏡が大量に作られたのはなんらかの理由があるはずです。それは辰砂との交易のために中国側が鏡を大量に作くったように思うのですが? (写真は大神神社)

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神様の国譲り

2009年10月05日 | 出雲族
出雲の国譲りは、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受けるという神話です。
この舞台はもちろん、此処大和盆地です。出雲ではありません。大国主は、出雲での宮殿建設と引き換えに国を譲ることになります。
大国主とされていますが、素戔嗚尊です。スサノオこそ、出雲族の神であり、三輪山(ミモロ)の神様です。スサノオは朱砂王です。
このスサノオ2番目の妻のカムオオイチヒメこそ卑弥呼だと考えています。魏志倭人伝には、卑弥呼は共立されたとされています。九州からきた、天津神系の氏族と、出雲からきた、円錐形の山を神が宿る山として、銅鐸を祭祀に使用した国津神系の氏族との、いわば神婚です。おそらく卑弥呼が、三輪山の祭祀を行なうことで争いが治まったのだと思います。これは融和策です。
大神神社の神様は、蛇だとも言われています。これはとんでもないことです。あまりにもひどい。そして有名なのが注連縄(シメナワ)です。逆向きです。
これは出雲大社もそうです。謎だといわれていますが、これは神様を封じ込めている以外に考えられないわけです。三輪山が、神体山なのですが、拝殿正面に、三輪山がない。出雲大社もそうです。神様は横を向いています。神様を拝ませないようにしています。争いがあり、敗北し征服された方の神様は、普通抹殺されるはずですが、日本はそういうことはしません。祟りが怖いからです。ですが場所を移動させられます。ですからここ大和から、出雲へ追いやられているわけです。神様の国譲りです。
卑弥呼の宮はここ大神神社です。
(写真は大神神社拝殿です。三輪山山頂は左後方になり正面にはありません。)

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