卑弥呼の鏡といわれているのは、画文帯同向式神獣鏡や三角縁神獣鏡です。
それで・・・これらの鏡が卑弥呼の鏡であろうと、なかろうと、またこれらの鏡が中国産であろうと日本産であろうと、3世紀になると、中国からの鏡の分布が畿内中心になっています。三角縁神獣鏡は、畿内の有力古墳からの出土が多く、畿内を中心に分布しています。画文帯神獣鏡の出土も、畿内と瀬戸内東部に偏っています。これらの鏡の出土は、主に畿内で、中国鏡の輸入が三世紀前半以降には畿内に移行している。つまりこの時期には、畿内が政治的主導権を保持していたと考えられるのでは?
纏向遺跡は2世紀末に出現していて、卑弥呼の時代と重なります。また纏向遺跡には関東から九州までにわたる広範囲の土器が出土します。この時代の中心地です。この時期に纏向に匹敵する遺跡がないのでは?
魏志倭人伝が九州内のことしか記述されていないのであれば、巨大な墳墓を作るこの畿内の勢力を何故無視するのか考えづらいわけです。ですが、魏志倭人伝はほとんど九州内のことしか記述されていません。これは陳寿が、倭国王帥升の国から、卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れなかった間違いなのでは?また地理もほとんど理解していなかったようにも思われます。
三角縁神獣鏡には、卑弥呼が朝貢した年とも考えられる、景初三年の年号が入ったものがあります。この年は魏王朝 明帝なくなり次の皇帝の斉王が即位したことによる、朝貢とも言われます。ですから景初二年は三年の誤りだろとも言われます。景初二年と記述されているわけですから、景初二年でいいようにも思うのですが・・・?また景初四年のものもありますが、これこそ鏡が日本で作られたものではなく、中国でつくられた証拠のように思います。
ともかく魏の年号が入っているかぎり、この鏡は魏で作られたものに他ならない。ですから、この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼の鏡のように思います。もちろん画文帯同向式神獣鏡もです。それで、鏡が大量に作られたのはなんらかの理由があるはずです。それは辰砂との交易のために中国側が鏡を大量に作くったように思うのですが? (写真は大神神社)
それで・・・これらの鏡が卑弥呼の鏡であろうと、なかろうと、またこれらの鏡が中国産であろうと日本産であろうと、3世紀になると、中国からの鏡の分布が畿内中心になっています。三角縁神獣鏡は、畿内の有力古墳からの出土が多く、畿内を中心に分布しています。画文帯神獣鏡の出土も、畿内と瀬戸内東部に偏っています。これらの鏡の出土は、主に畿内で、中国鏡の輸入が三世紀前半以降には畿内に移行している。つまりこの時期には、畿内が政治的主導権を保持していたと考えられるのでは?
纏向遺跡は2世紀末に出現していて、卑弥呼の時代と重なります。また纏向遺跡には関東から九州までにわたる広範囲の土器が出土します。この時代の中心地です。この時期に纏向に匹敵する遺跡がないのでは?
魏志倭人伝が九州内のことしか記述されていないのであれば、巨大な墳墓を作るこの畿内の勢力を何故無視するのか考えづらいわけです。ですが、魏志倭人伝はほとんど九州内のことしか記述されていません。これは陳寿が、倭国王帥升の国から、卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れなかった間違いなのでは?また地理もほとんど理解していなかったようにも思われます。
三角縁神獣鏡には、卑弥呼が朝貢した年とも考えられる、景初三年の年号が入ったものがあります。この年は魏王朝 明帝なくなり次の皇帝の斉王が即位したことによる、朝貢とも言われます。ですから景初二年は三年の誤りだろとも言われます。景初二年と記述されているわけですから、景初二年でいいようにも思うのですが・・・?また景初四年のものもありますが、これこそ鏡が日本で作られたものではなく、中国でつくられた証拠のように思います。
ともかく魏の年号が入っているかぎり、この鏡は魏で作られたものに他ならない。ですから、この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼の鏡のように思います。もちろん画文帯同向式神獣鏡もです。それで、鏡が大量に作られたのはなんらかの理由があるはずです。それは辰砂との交易のために中国側が鏡を大量に作くったように思うのですが? (写真は大神神社)