聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

魏志倭人伝2

2009年10月15日 | 魏志倭人伝の謎


魏志倭人伝・・・三国志の著者の陳寿は、もちろん倭国には来ていない。当然地理も知らないと考えられるわけです。
ですからなんらかの文献・情報を参考にしてこの魏志倭人伝を書いただろうと想像できます。いまの時代のように簡単に情報を得ることはできません。ですから当然、間違いがあると考えられます。陳寿が間違っているんじゃないだろうか?と言うことについてはあまり議論されていないように思います。
よくいわれる文献至上主義というものです。私は、陳寿が勘違いしていると思うところは、“時間の経過と変化”についてことです。
倭国王帥升の国が、東進して、この時期にはすでに、北部九州から畿内に及ぶ連合体が存在していたと言うことです。
そして時間の経過とともに、政治的な中心地が畿内にある邪馬台国に移動している。この連合体の代表として、魏への朝貢は畿内の邪馬台国の卑弥呼がおこなっていますが、狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。ですから魏の使者は九州の倭国に行っています。この倭国を女王国としたのが混乱の元です。
倭国といえばこの九州の倭国でもあり、連合体でもあるわけです。また女王国とは邪馬台国でもあり連合体のことでもあるわけです。ですから間違いではないのですが・・・。私たちは女王国というと、邪馬台国だと勘違いする訳です。

陳寿がおもに参照したと思われる文献は・・・
*後漢書の孝安帝紀東夷伝にある、倭国王帥升等が謁見を請うた時の情報。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

*正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が倭国に行った時の報告書。
「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。」

*正始八年に、張政等が詔書・黄幢を難升米にわたした時の報告書。
「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」

*秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとされた時の情報などです。
倭人伝には、卑弥呼の墓は「径百余歩」とされています。大きな墓だと考えられ、築造には年数がかかったと想像できます。
卑弥呼没年は248年頃と考えられ、、魏の使者の張政等もその頃来たとされています。卑弥呼没後、混乱があったわけですから、この大きな墓がすぐに完成したとは考えらません。ですので、卑弥呼の墓等についての事は、この朝貢時の情報のように思います。
あるいは張政等が帰国した後、卑弥呼が亡くなり、その後台与が女王になった時に再び張政が遣わされたという説です。張政が2度来たという説です。これなら矛盾なく説明できますがどうなのでしょう?
これ以外にもあるかもしれませんが、私は主に正始元年の建中校尉梯儁等が倭国に行った時の報告書を基にしていると考えています。この時、倭国に行って倭王に会っていますが、伊都国から九州倭国の王都までの、距離や方角などの行程記述はありません。
伊都国近隣の、奴國や不彌國は、倭国(九州説の邪馬台国)までの行程途中にある国ではないように思います。
それで、この倭国の王都はどこなのでしょうか?、博多湾沿岸地域が奴国だとすると、有明海に面する九州最大平野、筑紫平野以外には考えられないと思いますが・・・。すると王都は吉野ヶ里なのでは?

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