聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

叡福寺北古墳と釈迦三尊像の台座の墨書き

2015年05月11日 | 聖徳太子の謎


叡福寺
聖徳太子ゆかりの寺といわれます。
ここには、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳あります。
お母さんの穴穂部間人皇女と、妃の膳部菩岐々美郎女と一緒に埋葬されているとされて
います。
しかし、日本書紀にも厩戸皇子のお墓に、妃やお母さんと、一緒に埋葬されたなんて
記述ありません。

残念ながら、ここは厩戸皇子ゆかりの寺でもお墓でもありません。
竹田皇子が亡くなった時、大野岡に墓が築かれたいう、大野岡とはここです。
その後、つまり推古天皇崩御後に息子の竹田皇子が眠るこのお墓に合葬されたわけです。
お母さんと后とともに埋葬されたであろうという伝説があるのは、この竹田皇子です。

日本書記・・・推古天皇36年条「葬竹田皇子之陵」

そうここは、推古天皇と敏達天皇との子の竹田皇子の墓所です。
竹田皇子と同時期に亡くなった后の膳部菩岐々美郎女が埋葬されていました。
後に、お母さんの推古天皇が合葬されていたのです。
竹田皇子のお墓は植山古墳などではありません。

植山古墳・・・
*前述してきたように、竹田皇子の没年は624年であり古墳の築造年と合わない。
石室の築造は東側が6世紀末で、西側が7世紀前半と推定されそうですが、ともに
竹田皇子、推古天皇の没年と合致しません。

*最初から2つの石室をもつ墳墓として築かれていたというのは全くおかしいじゃあり
ませんか?推古の遺言で合葬されるようになったのでは?しかも同じ石室に葬られてい
なければおかしい。ともかく竹田皇子のお墓は植山古墳ではありません。


それで、さすがに推古のお墓はこれじゃーダメだっていうことで、隣に大きなお墓を
作ったわけ、それがいまの推古天皇稜とされる磯長山田陵。
蘇我氏が関係する方墳に改葬されたわけです。この時代の蘇我氏の王墓は方墳です。
ここに改葬されたのですよ。磯長山田陵に現在3人埋葬されている。

磯長山田陵は、山田高塚古墳といわれる方墳です。
古墳内部には、二つの横穴式石室があるとされています。
ひとつは推古天皇と息子の竹田皇子が合葬された石室であり、もうひとつは
后の膳部菩岐々美郎女が葬られている石室です。


ウイッキペディア・・・叡福寺北古墳
*円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。
*明治12年(1889年)の修復調査が実施された・・・調査の際に、棺は確認できたが、
遺骸は風化して残っていなかったとされている。

       ****************

遺骸は風化して残っていなかったのではなく、お隣の磯長山田陵移されただけです。

ほぼ同年代の藤ノ木古墳(こちらの方が古い)には、人骨が残っていて副葬品あったわけですよ。
ここ、なにもなかったわけでしょう?副葬品もですよ・・・?
聖徳太子の棺の中に、なんの副葬品もないわけ?おかしいでしょうに?
遺骸は風化しても副葬品は残っているでしょうに???
何らかの副葬品があったという記録もないのでしょう?そう空だったからですよ。
これ、誰も不思議に思わないのでしょうか?

ですので、このお墓(叡福寺北古墳)を祀ってもしかたありません
残念ながら、ここに聖徳太子は眠ってはいません、というか誰もいません。
推古天皇稜である磯長山田陵を祀ってください。本当の太子こと竹田皇子はここにいます。



それじゃー、厩戸皇子のお墓はどこなのでしょう?

*厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と皇后の広姫の子である。

*敏達天皇はこの広姫のお墓に埋葬されている。
 だとすると厩戸皇子のお墓は敏達天皇稜そばなのではないでしょうか?

*一ヶ月も経たないうちに埋葬されていることから、大きな規模の墳墓ではない。

*押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は同時期になくなっている。
 2月5日が、厩戸皇子がなくなった日で、2月22日が、竹田皇子がなくなった日。

*つまりお墓は同時期に造られ同規模のものではないのか?

*河内の磯長に葬られたとされている。

*この敏達と広姫が埋葬されている古墳は、河内磯長古墳とされますが、もうひとつの
候補が、越前塚古墳だとされています。


越前塚古墳が敏達と皇后の広姫の合葬古墳であり、そばにある「かまど塚古墳」が
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子のお墓です。

「かまど塚古墳」
径45mの円墳で,北側の丘陵と堀り込み,馬の蹄の形をした珍しい堀をめぐらしています。
内部には7世紀前半に造られた大型の横穴式石室がありました。 
聖徳太子御廟と似た規模・構造をもつ重要な古墳です

     **************************

厩戸皇子と竹田皇子はほぼ同時期になくなっています。
そう、内外構造が叡福寺北に類、しかも馬の蹄の形をした珍しい堀は厩戸皇子に相応しい。


そして、法隆寺の金堂釈迦三尊像は、もともとは、叡福寺北古墳そばの西方院で祀られて
いたものが、後に(法隆寺建設時以降)に移動した可能性があるのでは?

ウイッキペディア 西方院・・・ 

『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した
三人の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善
(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として
法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めた
と伝わる。
聖徳太子が造ったとされる阿弥陀如来像が本尊らしいのですが、本当ならこの像は
国宝でしょうね。



法隆寺の金堂釈迦三尊像の台座の墨書き・・・

「相見(了 変換できない)陵面 楽識心陵了時者」

意味は、「陵墓に葬られている人の心が鎮まるように陵墓にお参りしなさい」
というような意味だそうですが、問題はこの陵墓とはどこなのでしょうか?
藤ノ木古墳か、この叡福寺北古墳しかないようにおもうのですが・・?
どうなのでしょう?


ウイッキペディア 叡福寺・・・

太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが
叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で
東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には
見えず、史実かどうか定かではない。
叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。


竹田皇子が、叡福寺北古墳に葬られた後に、母である推古天皇が、墓守りの住む堂
を立てたのが始まり・・・という由緒はいいように思いますが・・・???
叡福寺に関しては後の建設であるわけですから、この陵墓というのが叡福寺北古墳という
なら、この釈迦三尊像は、そばの尼寺といわれる西方院にあったものでは?


日本書紀の記述にあるように、若草伽藍にあったもとの法隆寺は全焼したとされて
います・・・???
実は、火災があったのは斑鳩寺です。(法隆寺の謎はまた後ほど)
しかし本尊ともいわれる、この釈迦三尊像には火災の跡がありません。
これは、この釈迦三尊像は、もとは叡福寺北古墳そばの西方院で祀られていたものが、
後に(法隆寺建設時以降)に移動したものか、あるいは、この陵墓が藤ノ木古墳なら、
斑鳩寺にあったものなのではないでしょうか?

写真は、推古天皇稜とされる磯長山田陵。
そして叡福寺と、押坂彦人大兄皇子の陵墓である、かまど塚古墳です。
聖徳太子が、お母さんと后と一緒に埋葬されているなんて記述ありません。
遺言により、息子の竹田皇子と后とが眠るお墓に合葬されたのは推古です。

     
                             




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