聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺再建の謎と金堂薬師如来像光背銘

2015年05月18日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は、謎が多くあるとされます。なかでも再建されたのかどうかということが、
大きな謎とされているようです。

ですが、この法隆寺再建の謎は、わたしにとっては凄く簡単な謎です。
斑鳩宮と斑鳩寺は、推古の息子の竹田王子の宮と寺とするわたしには、こんなの謎でも
なんでもない。
もーーーーーぅ、どうしてこんな簡単な問題が解決していないのか不思議なくらいです。


斑鳩寺を、創建法隆寺というのなら法隆寺は再建されたいうことですが、斑鳩寺は
法隆寺ではありません。
法隆寺は再建されたのではなく、天武朝に初めて建てられました。
いま再建されたといわれている時が、創建された時です。

法隆寺再建の問題は、火災にあった若草伽藍跡が見つかったために法隆寺は再建された
ということになっていました。
しかし、五重塔の心柱の用材が、樹木の年代がかなり正確に解ると言われている、
年輪年代法によって594年に伐採されたヒノキ材だったということが判明し、新たに謎が
深まったとされています。
ですが、そーーーではないのです。

法隆寺再建の謎が、これによって解決したということです。

聖徳太子が建立に関わったとされる、七大寺(法隆寺、四天王寺、広隆寺、橘寺、中宮寺、
法起寺、葛木寺)や、それ以外にも創建の由来を聖徳太子にしているお寺が多くあります。
実際、同時期にこんなに沢山造れるわけでもないわけです。
ほとんどは、聖徳太子が生きていた時代以降に建てられたものですが、創建の由来を
聖徳太子しています。
実際に創建には関わっていないので、この法隆寺と四天王寺以外は「聖徳太子ゆかりの寺」
とされています。

この法隆寺は、聖徳太子が実際に関わったとされていますし、誰もがそう思って疑うことを
しないところに問題があります。
そう法隆寺も同じです。法隆寺も、「聖徳太子ゆかりの寺」です。四天王寺もです。
あくまで、・・・ゆかりです、もちろん実際に創建には関わっていません。

法隆寺は天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄大王を祀るために建てたものです。
斑鳩宮と斑鳩寺は推古の息子の竹田王子の宮でありお寺です。
そして、この斑鳩寺は藤ノ木古墳と関係するのは、まず間違いないように思います。


法隆寺と斑鳩寺は、ことなるということは日本書紀に記述されています。

日本書紀 天智天皇条・・・
八年
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。 

九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

天智天皇条において斑鳩寺と法隆寺とが書き分けているわけですから、斑鳩寺は法隆寺
ではありません。しかも8年と9年、半年も経っていません・・・。


天武は祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために、また、官営の寺として建設を開始する
ために、法隆寺の創建を聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の時代に持っていく必要が
あったわけです。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、天武が押坂彦人大兄皇子を祀るこの法隆寺を、
古くから天皇の発願による勅願寺であったとするための捏造分です。
薬師仏の信仰は、天武朝時代であり薬師寺が造られたころです。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘

池邊大宮治天下天皇大御身。勞賜時。歳次丙午年。
召於大王天皇與太子。而誓願賜我大御病太平欲坐故。
将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。
小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王。
大命受賜而歳次丁卯年仕奉


そして、天智九年の・・・
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

日本書紀のこの記述こそ捏造です。大雨の中、全焼ってもっと考えなさいよって
思うんだけど・・・これ、わざとわかるように記述していると思うんだけど・・・?

この法隆寺火災の記述は、金堂薬師如来像光背銘の文を正当化するために、また法隆寺
創建を押坂彦人大兄皇子存命の時代に持っていくために必要な記述だったわけです。

斑鳩宮と斑鳩寺は、推古の息子の竹田皇子の宮であり寺であるわけで、蘇我氏によって
造られたものです。四天王寺もです。

日本書紀推古天皇・・・
十四年・・・秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經
於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

こう記述されています。ここも斑鳩寺と記述されていて法隆寺でありません。
推古が大変喜んだと記述されているように、この皇太子とは息子の竹田皇子です。


つまり、凄く簡単なお話ですが、日本書紀にも法隆寺再建の記述がないように、
法隆寺は天武朝に初めて建てられたものです。再建されたものではありなせん。

天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀ったのがはじまりですが、後に権力を握った藤原氏や
天智系の女帝にとっても彼を祀る必要があったわけです。

これは、前に藤原不比等の謎で述べた、ふたつの系図をみればわかります。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

彼を聖人にする必要があったわけです。

そして、日本書紀の記述のように、斑鳩寺(若草伽藍)は火災にはあってはいても全焼と
いうわけでもなかったわけです。

全焼したのなら同じ場所に建てればいい訳ですが、建物や周囲に巡らしていた塀が残って
いた場合は、撤去して同じ場所に立てるより隣に新たに造る方が効率的です。
その建築時、再利用できるものがあれば利用すればいいわけです。

問題とされる法隆寺の西院伽藍の五重塔の心柱の用材は、斑鳩寺の五重塔の心柱です。
塔の心柱は再利用されたものです。ですので、古い(594年に伐採されたヒノキ材)のです。
斑鳩寺を再利用したため高麗尺で設計されているのです。

証拠は塔の敷石です。斑鳩寺の塔の礎石は再利用されていないのです。
塔の心柱は残っていたのです。もっとも再利用されてもいいはずの礎石は再利用されて
いない。新たに、隣に伽藍を設計して、建設しながら斑鳩寺を撤去していったからでは
ないでしょうか?

だから、法隆寺の西院伽藍は、もとの斑鳩寺(若草伽藍)の位置とは異なるのです。
今の西院伽藍は、尾根を削り、谷を埋めて整地した後に建てられたとされるのは、若草伽藍
は火災に遭ってはいても全焼したわけではないということです。



そして、前に述べた法隆寺金堂も釈迦三尊像の台座の墨書きの
「相見(了 変換できない)陵面 楽識心陵了時者」・・・
「陵墓に葬られている人の心が鎮まるように陵墓にお参りしなさい」

この陵墓というのが、藤ノ木古墳のことなら、金堂の釈迦三尊は斑鳩寺にあったもので
あって、若草伽藍(斑鳩寺)は火災に遭ってはいても全焼したわけではないということです。

藤ノ木古墳は、暗殺された崇峻天皇と穴穂部皇子のお墓であり、斑鳩寺はこの藤ノ木古墳に
葬られている二人の王を祀るために竹田皇子により造られたものです。


斑鳩宮と斑鳩寺は聖徳太子こと厩戸皇子の宮であり寺だとする限り謎は解けません。


              
     




    


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