聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

女王國

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭魏志倭人伝は、正始元年に、太守弓遵の建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の文献ののでは?倭国王帥升朝貢時の情報や、秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢した時のの情報など、複数の文献を参考にして、魏志倭人でとして纏めています。
そして混乱の元は、陳寿が「女王国」と名付けたことです。
以下の女王国は、九州の倭国のことです。
*伊都国・・・世王有るも皆女王國に統属す・・・
*女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも
*郡より女王國に至ること萬二千余里
*男子は大小と無く~倭の地は温暖にして~・・・九州のこと
*女王國より以北には、特に一大率を置
*女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり・・・
これを倭国でいいのに、女王国と呼んでしまっているのです。
そして私たちは、女王国は邪馬台国として勘違いしてしまいます。
つまりこの時期には、倭国王帥升の国が、東進していて、北部九州から畿内に及ぶ連合体が存在していたと言うことです。つまり間違いではないのですが・・・。
魏の使者が向かったのは九州の倭国です。
そして狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。倭人伝の、倭女王は卑弥呼ですが、倭王は九州倭国の王です。
倭国王帥升の時代から、時間の経過とともに政治的な中心地が畿内にある邪馬台国に移動しています。
正始八年に、張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。・・・です。
それで、・・・張政が、邪馬台国に行っているなら、黄幢を卑弥呼に渡しているはずだし、
倭国に行っているなら、倭王に渡しているはずです。それが、難升米に渡しているのは、
おそらく倭国から、張政等の滞在先である伊都国まで出向いたのでは?
ですのでこの倭人伝は、正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の情報が書かれた文献を基にしている。
ではこの太守弓遵、建中校尉梯儁等がおもむいた、倭王の住まいするところは何処なのでしょうか?これは倭国王帥升から続く国で、筑紫平野周辺だとしか考えられないように思います。そこから北部九州の奴国までが領国。吉野ヶ里が中心地でしょうか?
そして伊都國を含む、北部九州の国だろうと思われる、末盧國、奴國、不彌國などは、邪馬台国に向かう途中の国々なのでしょうか?これは滞在先である、伊都国周辺の国々を報告しているだけとも考えられるのでは?
ここは少し想像になりますが、・・・おそらく張政等も倭王のもとに行くはずだったと思われますが、狗奴国との争いにより倭王のいる倭国(吉野ヶ里)には行けなかったように思うのですが?




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魏志倭人伝

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
魏志倭人伝については、・・・正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行っています。「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。」とあります。
また正始八年に、張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。・・・とされていて、倭人伝は、主にこの塞曹掾史張政等の報告だろうと言われていますが、どうなのでしょうか?
倭人伝はこの建中校尉梯儁が九州の倭国について記述した文献を主に採用しているのでは?。
倭人伝の、倭女王は卑弥呼ですが、倭王は九州倭国の王です。
この文献をもとにして、その後の張政等の報告や秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したときの情報、また倭国王帥升が朝貢したときの情報など、複数の文献をまとめて、一つの魏志倭人伝にまとめています。わたしは、九州の倭国王帥升の国が東進し、卑弥呼共立時には、北部九州から畿内におよぶ連合体のようなものが存在していたと考えています。混乱の原因は、この「女王国」です。

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