小谷城は、大永3年(1523年)頃に、初代浅井亮正が小谷山の南の尾根に築いた山城です。築城時は、現在の本丸跡よりさらに北の大嶽城が、本丸であった。二代、浅井久政、三代、浅井長政によって拡張を重ね多くの砦を持つ堅固な山城となった。元亀・天正の争乱で4年間織田信長に攻められ天正元年(1573年)8月28日落城した。その後、浅井氏の旧領のうち伊香郡・浅井郡・坂田郡は、羽柴秀吉に与えられた。羽柴秀吉は、小谷城を嫌い、天正3年(1575年)に今浜に新しい城を築城して居城(長浜城)した。そのため小谷城は城割りで廃城となった。現在、曲輪(郭)、石垣、空堀、土塁などが残っています。昭和12年(1937年)に国の史跡に指定された。
[所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部(旧・近江国浅井郡)]
<アクセス>JR北陸本線・河毛駅下車徒歩
▼JR北陸本線・河毛駅前の浅井長政と市の像 ▼正面の山が小谷山
▼小谷城とその支城・砦の配置図
①出丸跡
本丸などがある尾根の先端にあり、敵の侵攻に対しては最前線で、戦い、敵の侵入を食い止めるための砦である。敵の動きを見張る役目した。
▼出丸の略図
②金吾丸跡
大永5年(1525年)、浅井亮政を攻めるため六角定頼に味方した朝倉教影太郎左衛門尉が陣地を築いた所である。金吾丸の「金吾」は、左衛門尉のことである。
③番所跡 ▼番所略図
本丸への入り口にあたり、通行する人を見張ったり、怪しい人を呼びとめて検問した所である。
▼番所からの眺め 中央の山が織田軍が布陣した『虎御前山砦』です
④御茶屋跡 ▼御茶屋略図
中央に土塁が見られ、その内部に御殿があった。
▼御茶屋跡
⑤御馬屋跡
馬屋があったところです。
▼御馬屋略図
⑥首据石
天文2年(1533年)、京極氏の家臣だった今井秀信が六角氏に味方したため、浅井亮政が秀信を神照寺(長浜市神照寺)に呼び出して謀殺し、その首をこの石にさらした。
⑦赤尾屋敷跡
浅井氏の重臣の屋敷跡で、天正元年(1573年)9月1日,浅井長政は、29歳でここで自刃した。
⑧黒金御門跡
石段を上ったところに黒金御門があった。
⑨桜馬場跡 ▼桜馬場略図
南北に長く、東西二段からなっている曲輪(郭)跡である。 ここは、最も重要な「物見」の場所であった。
▼浅井長政と家臣の供養塔
小谷城の戦で700名もの兵士が亡くなり、小谷城址保勝会が、浅井氏と家臣団の霊を慰めるため、昭和47年にこの供養塔が建立されました。
⑩大広間跡
小谷城の曲輪(郭)の中では、一番広いところ(約3,000m)であった。
⑪本丸跡
▼本丸・大広間略図 ▼御局屋敷跡
⑫大堀切跡
本丸北側の下の大きくくぼんだところは、「堀切」で「大堀切」と呼ばれている。
⑬中丸跡 ▼中丸略図
中丸は、三段からなる曲輪(郭)で、それぞれ上段から下段に向かい、また、虎口の左右から侵攻する敵を討つように造られている。
⑭京極丸跡 ⑮小丸跡
▼小丸・京極丸略図
⑯山王丸跡 ▼山王丸略図
⑰六坊跡 ▼六坊略図
浅井氏の領国内にある寺院の出張所が置かれていた。
⑱大嶽(おおづく)城跡
小谷山の最高峰(標高495m)に、初代城主浅井亮政が最初に築いた城跡である。
▼大嶽城概略図
⑲福寿丸跡 ▼福寿丸略図
元亀3年(1572年)、に朝倉軍が最新の築城技術を駆使して手直しした城郭です。
⑳山崎丸跡 ▼山崎丸略図
朝倉軍の築城技術によって改造された城郭。
2014/06/10 訪城
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姉川の戦 元亀元年(1570年)
2月、浅井氏が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長が京へ脱出。6月浅井攻めに着手、織田信長軍2万3千騎・徳川家康軍5千騎と浅井長政軍5千騎・朝倉義景軍8千騎が姉川で激突。援軍の徳川家康軍の奮闘で織田信長方の勝利。
小谷城の戦 天正元年(1573年)
8月織田信長軍の越前侵攻と小谷城攻め。織田信長軍、一乗谷の戦いで大勝した後小谷城を猛攻し朝倉氏、浅井氏両家の滅亡。お市の方と娘3人が浅井氏から織田信長に返される。