岐阜城は、建仁元年(1201年)、二階堂行政が標高329mの金華山山頂に山城を築いた。当初は金華山城と称し、約100年間存在したが、二階堂行政の玄孫にあたる二階堂行藤の死後、廃城となった。その後、15世紀半ばには、美濃守護代の斎藤氏が、稲葉山城を築き、居城とした。斎藤氏の支配が約70年続き、大永5年(1525年)に家臣であった長井氏が謀反を起こして城を奪取したと言われている。この長野氏の息子の新九朗が、のちの「美濃の蝮」と呼ばれた斎藤道三である。斎藤道三は、稲葉山城を改修を行い、さらに美濃守護であった土岐頼芸を追放して美濃一国を支配した。その後、美濃を支配した織田信長が大改修を行い、天守閣を築いた。慶長5年(1600年),関ヶ原の合戦で東軍に攻められ、城主織田秀信は、投降。岐阜城は、消失した。江戸時代になると、近くに加納城が築かれ、岐阜城は廃城となった。現在、金華山山頂には、昭和31年(1956年)、地元の市民・企業の募金で鉄筋コンクリートで復興された岐阜城のシンボルの三層の天守閣が建っています。
[所在地:岐阜県岐阜市金華山天守閣18番地]
<アクセス>JR岐阜駅からバスで15分、岐阜公園・歴史博物館前下車。 山頂へはロープウエイで。
▼金華山の頂上に建つ岐阜城天守閣
▼岐阜城の歴史(1) 二階堂行政~長井新左衛門
▼岐阜城の歴史(2) 斎藤氏三代(道三・義龍・龍興)
▼岐阜城の歴史(3) 織田三代(信長・信忠・秀信)
▼織田信長公以前の居館(斎藤氏の時代)
▼織田信長の居館
▼織田信長居館跡
▼天下第一の門
▼岐阜城題目塚の由来
▼題目塚 ▼山頂部の本丸残る井戸
▼白い城壁
▼復興天守閣
明治期の復興天守閣が昭和18年(1943年)に消失、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリートで復興された天守閣である。高さは18m、内部には資料館、最上階は展望台になっています。
▼天守閣からの眺め
2015/02/27 訪城
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▼常在寺の概要
▼常在寺(日蓮宗)・・・・・斎藤氏ゆかりの寺院
▼板垣退助遭難の地
▼板垣退助像
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長良川の戦 弘治2年(1556年)
斎藤道三に対する斎藤義龍の反抗で、斎藤道三軍約3000騎と斎藤義龍軍約1万7千騎が、長良川で激突。斎藤道三敗死。
稲葉山(岐阜)城の戦 永禄10年(1567年)
斎藤龍興の西美濃の三将が、織田方に味方後,織田信長軍が、稲葉山城の斎藤龍興軍を攻める。斎藤龍興、伊勢長島へ逃亡。織田信長が美濃を奪取。
◆二階堂行政 生没年不詳
鎌倉時代前期の鎌倉幕府の官吏で、二階堂氏の祖。金華山に初めて山城(要害)を築いた。その後は、二階堂氏及び分家の伊賀氏一族が稲葉山に住し、室町時代には美濃国の守護代・斎藤氏一族や小守護代の長井氏が住した。
◆長井氏 (城主不明)
長井氏は、守護代・斎藤氏の家臣であったが,度重なる内乱で力を失った斎藤氏に代わり、力を持つようになっていった。
大永5年(1525年)6月、長井氏はクーデターを起こし、守護・土岐氏と斎藤氏一族を一時武芸谷(現:関市)へ追いやった。10月に越前・朝倉氏と近江・六角氏の介入で、長井氏は尾張へ一時退去するが,この時長井氏が最後に拠点としたのが、稲葉山城である。これ以後も度々戦が起きるが、結果的に美濃における長井氏の権力は増大する。
元々は京都の妙覚寺の僧侶であったとされる、斎藤道三の父・長井新左衛門尉も、長井家中で頭角を現し、後の道三の下剋上の基盤が、この時期にはあったことが分かる。
◆斎藤道三 (生年不詳~1556年)
長井新左衛門尉の子。長井規秀と名乗り父の跡を継いだ後、長井氏の惣領となった。さらに守護代・斎藤氏の名を継いで、「斎藤利政」と名乗った。斎藤利政は、稲葉山城と井口(現:岐阜市)の城下町を整備し力を蓄えていった。遂には、主君である守護・土岐氏を追放して、本格的に美濃の実権を握り、井口は美濃の中心となった。尾張の織田信秀とも戦うが、後に和睦して娘を織田信秀の息子・織田信長に嫁がせる。晩年、出家して「道三」と名乗る。
天文23年(1554年),家督を息子の斎藤義龍に譲って隠居したが、2年後の弘治2年(1556年)に斎藤義龍と長良川で戦い、討たれてしまう。
◆織田信長 (1534年~1582年)
尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男。織田信長の家系は尾張の守護代・織田氏の分家であったが、織田信長は弟・織田信勝を殺して家督争いに勝利し、尾張の他の尾張家を滅ぼし、遂には守護・斯波氏も追放して、尾張を統一した。また、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いで今川義元を撃破した。
永禄4年(1561年)に稲葉山城主・斎藤義龍が死亡し、跡を子の斎藤龍興が継ぐと、織田信長は美濃への侵攻を強め、永禄10年(1567年),遂に稲葉山城を奪取し本拠を小牧から移した。織田信長は、城を大規模に改修を加え「岐阜城」と改めた。また、城下町も「岐阜」と改めて整備した。
以後、天正4年(1576年)に安土に移るまで約20年間,岐阜を天下統一の拠点として勢力を拡大していった。
◆織田秀信 (1580年~1605年)
織田信忠の長男。幼名を三法師という。本能寺の変後、清州会議の結果によってわずか3歳ながら織田家の後継ぎに決められ、安土城に移ることになったが、叔父の織田信孝が安土へ移すことに反対して岐阜城にとどめた。羽柴秀吉は岐阜城を攻めて織田秀信を引き取り、安土に移して織田信雄に後見させた。文禄元年(1592年),岐阜城主となって13万石を拝領した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では西軍に加担し、東軍と木曽川で戦ったが、敗れて岐阜城に籠城した。その後、福島正則・池田輝政らの攻撃を受けて岐阜城は落城し、織田秀信は降伏して出家した。その後、高野山へ送られ病死した。