天正14年(1586年),豊臣秀吉は、坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに、現在の大津市浜大津に天守もある水城を築城させた。だが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、大津城主の京極高次は、東軍(徳川方)に属し大津城に3,000騎で籠城した。防衛には、不向きな城であったが、奮戦し、7日間持ち堪え、9月13日西軍の立花軍が、二の丸を占領した時点で、高野山の客僧木食応其和尚の仲介で講和が成立した。9月14日に降伏開城した。京極高次は、近くの園城寺に入り,剃髪して、高野山に上った。西軍の15,000騎を大津城に釘付けにした。功績は、大きく、戦後、徳川家康は、京極高次に22,000石加増して若狭小浜城82,000石に転封させた。京極高次が若狭へ移りまもなくして、徳川家康は、大津城を廃城にした。
[所在地:滋賀県大津市浜大津5]
<アクセス>京阪電鉄石山坂本線・浜大津駅下車徒歩1分
▼大津城跡の石碑・・・・・京阪浜大津駅から琵琶湖側へ道路を渡ったところに設置されています。
▼大津城縄張り推定図
▼階段の下が大津城本丸址です。
2013/7/6 訪城
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壬申の乱 瀬田川の戦 弘文元年(672年)
天智天皇後の皇位争いで、近江朝、大友皇子(天智天皇の子)軍と大海人皇子(天智天皇の弟)軍が、近江国の瀬田川で戦い、大津宮陥落。大友皇子自害。翌年、大海人皇子は、飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)宮で即位し、天武天皇となる。
木曽義仲、打出浜で最後の戦 元暦元年(1184年)
源頼朝が、木曽義仲を追討のために、弟の源範頼、源義経を上洛させる。近江国の打出浜で木曽義仲軍約300騎と範頼、義経軍と最後の戦になり、義仲大津栗津で戦死(31歳)。
比叡山焼き討ち 元亀2年(1571年)
浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、延暦寺の近江国の寺領を乗っ取る。
大津城の戦 慶長5年(1600年)
関ヶ原の戦の前哨戦。大津城主で6万石の京極高次が、東軍(徳川方)に与したために、大津城に3,000騎で籠城。西軍(大坂方)15,000騎の攻撃を受ける。大津城は、関ヶ原の戦の前日の9月14日に落城。京極高次の正室(常光院)は、お市の方の三姉妹の次女。