あい変わらずだるくなるようなゆるやかにゆったりとした振幅で起伏が連なる自然の地形のなかを人工的な硬いアウトバーンの線が貫いている。
いまはほとんど土砂降りといってもよいぐらいの雨降りのアウトバーン(ここクロアチアではアウトセテと呼ばれる)であるが交通量はまばらだが車の流れはけっこう速いのだ。
反対車線の交通量はこちらがわよりもはるかに多い。
ここ地元クロアチアナンバープレートにつけられた国を表すHRマーク車よりもとくにドイツ=D,オーストリア=A,オランダ=NL車が目立つ。
実学知識からEUメンバー諸国のナンバーはベースプレートの色合いや表示されている数字と記号の配列の違いでどこの国か判別できる。
察するに彼らは早めの夏休みが今週末で終わり(今日は土曜日)それぞれの家路を急ぐ人たちだろうか。
楽しかった休暇が終わり財布もめっきり軽くなって週明けの月曜日であるあさってからはまた普段の生活へ戻っていく人たちだろう。
そんな情景を視界の片隅に見送りながらも自分もあとわずか10日後にはその立場に変わってしまうのかなどと余計な事を考えてしまう。
私と同じベオグラード方向へ向かって走っているのは大型貨物トレーラー車を除くと大半は私と同類の風体をしている。
ややくたびれた感じがする最新モデルと比べれば当然スタイルも冴えない数モデル落ち西欧州製小型車ご愛用の“平民車乗り”たちである。
種類で言えばセダン,ステーションワゴン,ハッチバックそしてワンボックスタイプなどである。
残りはとくにドイツ製の車が多い。
そのほとんどは新車同様の中・大型高級セダン、ステーションワゴンやSUV車たちを駆る方々で,命名して“成金車乗り”である。
社会学的言い方?では“荒稼ぎ階級あるいは新興中産階級的”方々がお乗りになる法人登録車であると自分で勝手に決め付けている。
ナンバープレートで識別するかぎり大半の西欧諸国からのホリデー客にまじって地元の“成金車乗り”風もけっこう走っている。
追い越されるたびに窓ガラス透しに垣間みるそういう類の車に乗車しておられる人たちの風体はなぜかけして裕福そうにはみえない。
男の場合夏休み時だから普段のビジネス衣装は羽織ってはおらずたいがい誰もが崩れたラフな格好でそれにあわせた訳でもなかろうがその顔つきまで緊張感がないようにさえ見える。
たまたまガソリンスタンドで給油する時やアウトバーンのレストランで食事する時などにそういう人たちに出くわすことが多い。
ただし女性の場合は違いがないように思えるが...。
どこの土地でもみられる漆黒の高額高級車ご愛用のケースが多い刺青むんむん濃いひげ面で濃いサングラス姿の大兄いさんでもなさそうだしいったいどういう暮らしを営んでおられる類の人たちが乗っているのかなかなか興味があるところだ。
今までの個人的体経験ならびにドイツ以南を走ってきた現象から言えることは1点ほぼ共通している振舞いがある。
彼ら“成金車乗り”風の方々の運転するそれら高価な中・大型高級車はその実力(ステイタス)を誇示するのかのように雨水が波立って流れるほどの追い越し車線を盛大な水煙をまき上げてめっぽう速いスピード差で私たち“平民車乗り”を蹴散らすように追い越していくことだ。
まるで“退け退け~い この俺様がお通りだぞ!!”というような感じだ。
それから偶然“成金車乗り”どうしが遭遇したりすると同類同士遭遇した相手に負けたくない面子があるらしく結果そのスピード競争がエスカレートしていくという情景にたびたび出くわす。
こんな所にも嘆かわしき昨今の世相が反映されているのかも知れない。
“成金車乗り”になるとアウトバーンではそのステイタスを誇示したいがため同類に負けんが為のつかの間のスピード競争に命さえ賭けるほどの浅ましい意地と猛々しささえもが現われてくるのでしょうか。
あんな走り方をしていればやっぱり燃費が悪いだろうし神経疲れるし当然事故につながるリスクも多くなるしなどと老婆心ともやっかみともいえぬものが起きてくる。
真正ビンボー人でありあきらかにもう若くはない私のような“平民車乗り”にはしようと思ってもなかなかマネのできない走り方でもある。
日差しの長い夏場とはいえもう夕方8時近くである。
雨降りの分だけよけいに薄暗くなってきている。
薄暗くなるに従いますます見るべき景色も無くただひたすら距離をかせぐような走り方をする状態がしばらく続いている。
そんな代わり映えの無い情景の中ではあったが“平民車乗り”が“成金車乗り”に追い越されるか場面が幾たびも繰り返される。
また規制速度のめいっぱい90km/hぐらいで走っている大型トレーラートラックが巻き上げる大きな水しぶきトンネルへ突っ込んでは走り抜ける幾らかテンションが高まる場面もこなしながらひたすら南パンノニア盆地を南下し続けていた。
今日もまたそのご尊顔を拝ませてもらえない真夏の太陽はもう雨雲のむこうの西空に沈んでしまったであろうか。
ぼんやりそんなことを考えていた時である。
右側前方約100メートルたらずの路側帯に停車中の1台の車が見えた。
近づくにつれまごう事なき“平民車乗り”風体のしょぼい濃いグレーの小型車であるのがわかった。
ライトも点けずに停まっていたからどこかがこわれてやむなく立ち往生しているのかと想った。
もうこんなにうす暗くなっているのに可哀そうに。
そしてその車までわずか50メートルたらずのところまで近づいたその瞬間である,その車がなんの前触れもなくいきなり走行車線に走り出してきたのだ。
その時こちらは110km/hぐらいで走行中だった。
近くに他の車は走っていなかった。
反射的に追い越し車線のほうへハンドルを切りながらかつタイヤがロックしないようにブレーキを踏んだ。
ほとんど無意識の操作だった。
たぶんほんの数秒間たらずのできごとだったろう。
窓ガラス越しに右前方わずか数メートル足らずのところまで相手の車の汚れて黒くぬれたバンパーが近づいて来た。
が間一髪ぶつからずになんとか追突/接触事故を避けることができた。
跳ね上がる水しぶきをバシャバシャ窓ガラスやボディに浴びながら急ブレーキで極端に落ちたそのままのスピードでその車の左斜め後をゆっくり併走する形になった。
いったん2NDギヤ入れ替えその車の左側を追い抜きながらクラクションを鳴らしつつこぶしを振り上げて相手のドライバーに怒りの合図を送った。
ところが相手のドライバーはこっちを振り向きながらもいったい何のことかさっぱり分からないといった表情をしている始末だった。
他の同乗者も同じようにちらっとこちらを見ただけだ。
雨天走行中でもあり急ブレーキや急ハンドル操作による針路変更はそれだけで単独事故にさえつながりかねないリスクがあったのでいずれの事故にも至らずにすんで幸運だった。
その車はうしろをまったく確認せずにいきなり走り出してきのだ。
その運転手は一体全体どういうこと(事故になる寸前だったこと)が起きたのかまったく頭が廻っていないようだ。
不自然なほどまったく反応なし。
いや,おそらくなにが起きたのかうすうすはわかりつつも必死に心の動揺を取り繕っていたのだろうか。
不味いことをしたのを実感しつつもそのときはまだ完全に状況把握ができないのだ。
いやたぶんたった今わかったのだがそれを認めて素直に謝るなぞという所作はあまりやったことがない人だったのかもしれない。
こういうケースに遭遇した場合,不運にも相手が悪いと逆にいわれの無い危険な攻撃にあったりや醜悪な逆恨みのメッセージを投げつけられたりするので注意が必要だ。
外見からはわかりにくいが自分本位で倣岸・不遜・横暴の輩がたくさんいるから。
幸い事故には至らなかったがぎりぎりで避けることができた。
自分でもはっきりわかるぐらい頭の中は真っ白で顔からはすっかり血の気がひききって普通は意識することはない下着のシャツがひんやりと感ずるほど背筋に冷や汗がながれおちているようだった。
やっぱりけっこうな急ブレーキ操作だったので助手席に置いてあったここクロアチアの地図やウエストバッグや食べかけのスナックの袋やハンドライトらがみんな床にずり落ちてしまっていた。
まあこういうこともたまにはあるだろうと自分に言い聞かせ気を持ち直すように努めた。
まずはその“愚かで走る危険物”から一刻も早くはなれるにこした事は無いと判断しバックミラーのかなたへ追いやった。
やっと温かい血の気が戻って落ち着いたころで床から拾い上げたクロアチア地図で今走っている場所を確認してみた。
できたら今晩中にたどり着きたいと思っていたセルビアのベオグラードよりもはるか手前(180kmぐらい)でまだクロアチア東部に広がるスラヴォニア地方の真中辺りだった。
ついこの間までチェコと同国だったスロバキアやすぐ隣のスロベニアと混同しやすい名前だ。
スラヴォニア地方は第一次大戦まではハンガリー王国統治地域に所属していたクロアチア・スラヴォ二ア王国の東側の地域でありわずか10数年前には凄惨なクロアチア紛争の激戦地になった地域でだ。
紛争の結果セルビア人が追い出され今はクロアチア人がほとんどになっている。
ついここの間旧ユーゴスラヴィア連邦が解体するまではなかった国境線の向こう側である現在のセルビアのヴォイヴォディナ自治州とはかつては同地域だったそうだ。
そのヴォイヴォディナではセルビア人と少なくないハンガリー人(マジャール人)との軋轢があり今でも両国に緊張が続いているそうだ。
よく欧州各地域で交わされる人たちの会話の中には外からやってきた異邦人には聞き慣れない名前=地域名や地方名あるいは民族や人種名が良くでてくる。
たとえば分かりやすい所ではスコティシュ,ババリアアン,ボヘミアンやシシリアンなどがある。
永い歴史を経てきた広く多様な欧州大陸とその周辺地域との興亡の変遷をへてきて引き継いできたものでもありまたわずか数百年ぐらい前から現われ見えてきたものだ。
イタリア人にしろドイツ人にしろまたロシア人や中国人にしたってずっとずっと昔からそう呼ばれてきたわけではないですね。
日本にいると分かりにくい類の話です。
南蛮渡来の古文書籍に書かれてあったからそうなったのではなくて,いわば現在の自分と自分達を取り巻く状況と過去を振り返った時に見えてくるものでもある。
あくまでも異なる他との対比において自分の体の中を流れる血を感じ日々の生活のなかでの文化慣習(冠婚葬祭)に浸りながら身にまとう衣装や歌舞踏に誇りを持ち,そして家族で囲む食卓に並ぶ料理を楽しみながらしゃべる言葉などから実感する帰属意識の結晶が上記の名前になっているのだろうと思う。
グローバル化が進む今はますますその帰属意識が強くはっきり表現されあるいは抑圧され隠蔽されていたものが新たに浮上してきても不思議ではない状況だ。
そういう点ではここバルカン半島地域はまさにそういう事柄がおきやすい地政学上の位置にある。
東西文化勢力が万華鏡のごとく煌めき入り乱れ乱舞しつづけ多様性が混在しているその歴史をひもとけば明らかだ。
時々の周辺大国の覇権や争奪の舞台となりつつ北西ヨーロッパからもたらされた近代国家的民族意識をめざめさせられ戸惑い葛藤しながらも歴史の狭間になお平穏な生活をもとめ営む人たちが住むところのようだ。
そんな時ちょうど大きな道路標識が左手前方に見えホテルのことである濃紺のベッドのアイコン表示されてあった。
ためらわずその標識をたどり数キロ先にあったアウトバーン沿いの休憩エリアへすべりこんだ。
地方都市オシエクの真南にあるスロボンスキー・ブロッド近くLuzenというところにある小さな構えのホテルだった。
ホテル前の駐車場には10台たらずの車が並んで停まっていた。
ちょうど開いている所があったのでそこへ割り込み駐車した。
貴重品が入ったウエストバッグを持ってホテルの前に広がる植え込みの木立をぬけてそのホテルの受付さがす。
建物のなかにはいったらさがすまでもなく目の前にあったカウンターらしき所で部屋の有無を聞いた。
マネージャーらしき大兄のクロアチア語がよくわからなかったが紙片に書いてくれたのをみると朝食込みで210クナ=30ユーロだそうだ。
この休憩エリア内ではここが唯一のホテルで名前はHOTEL OZLJAVAとある。
部屋数20室足らず木造建ての小さなホテルであった。
即刻OKをしたら,部屋を見せるからついて来いと言うので階段をあがった2階(欧州では1階と呼ばれる)の突き当たりのアウトバーン側の部屋を見せてくれた。
カーテンを開け窓から外を見たが木立の枝葉にさえぎられてアウトバーンは見えなかったが停めてある自分の車は見ることができた。
大きな部屋ではなかったがぜんぶ揃っている。中型のベッドにテレビ・トイレ・シャワー・ソファーはもちろんエアコンまである。
宿泊登録をするためにパスポートを渡し、その部屋の鍵をうけとりいったん自分の車にもどってこんどは手荷物を運び込んだ。
やれやれこれで今夜の宿はみつかった。
疲れも多少あったがそれよりも何より腹ペコ状態である。*(いっぷく)*
遅くなって食いっぱぐれるといけないので荷もほどかず再び部屋をでて下のフロアにある美味しそうなにおいの漂うレストランへ行った。
私のほかに3組が食事中であった。
壁に取り付けられているテレビの画面がみえるそして開いているテーブルを見つけ自分で勝手に席を取った。
間髪をいれずさっきのマネージャーそして今はウエイターに成り変わった大兄がメニューを持って恭しく注文を取りに来た。
多分クロアチア語とドイツ語で書かれた数ページのメニューだった。
さて何をいただくとしようか…
どんな美味しいものがあるのだろうか?
書いてあるメニューの内容が1/4ぐらいしか解らないのでここは勘と運を総動員して選ぶしかない。*(ウインク)*
飲み物のコーラ・ライトは問題なし,え~とそれからと...?*(ワイン)**(ニヤ)*