私は信者ではないが、この教会堂とはいくらか縁がある。
息子が9歳のときKomunie「堅信礼」とよばれるカソリックの通過儀式を十数名の同年齢のこの村の他の子ども達といっしょに受けた。そのときの教会堂である。
*(教会)**(ウインク)*
まだすこし寒さが残っている晩春だったと記憶している。そのときもそして今も筋金入りの敬虔なクリスチャンである義理の母はわざわざそのため?にワルシャワからやってきていた。
先のヨハネパウロ二世を輩出した名うてのカソリック国生まれで育ちの生粋のポーランド人であるからこういうことをするときは半端ではなかった。
そして孫のためにこの儀式用にとくべつにあつらえた正装一式を持参してきた。
彼にとってはかたくるしいことこの上ない正装をさせられてブンムクレている息子をなだめつつ家族みんなでこの教会堂へ出かけていったことをおもいだす。
その儀式にさきだつ2週間まえこの教会堂からまねかれ儀式ついての説明をうけた。
神父さんみずから礼拝堂の中を歩きながらあれやこれやをひとつづつていねいに説明してくれた。
階段を上がって大きな鐘がある鐘楼の内部やパイプオルガンの中身まで見せてくれてその由来を教えてくれた。また側廊に沿ったいくつかのへやも見てまわった。ラテン語で書かれたたたみ半畳ぐらいもある年季の入った聖書やそれからなんとかの聖体であるとか古めかしいが由緒ありそうななんとかの聖像物などもみせてくれた。
いちばん驚いたのがさほど大きくないガランとしたへやへ入ったときのことである。
へやの真ん中にあった50cm角の床板を一枚はがしてその穴の中をのぞき込みなさいという。
その穴に落ちないように恐る恐るのぞき込んで見るとなんとその薄暗い床下1mほどのところは水深0.6mぐらいの水が張ってあるのだった。
それはこのへやだけにかぎったものではなくこの教会堂全体の床下がそうなっているのだそうだ。
そして教会堂すぐ横の水路の水位と同調しているということである。
ということはこの教会堂の基礎はすぐ近くの湖沼の浅瀬に建てられているのと同じことになる。
まるで厳島神社とその鳥居のようではないか!
この教会堂の母体はすでに13世紀後半にはあったそうで、いまある高さ70mの尖塔をもつ時計台と教会堂は19世紀のはじめ頃建立されたということだ。
なおこの教会堂は国定史跡に指定されている。
この地域で高層の建物を建てる技術はたぶんこのような教会堂を建てることから始まっただろう事は容易に想像できる。
ふつうの意味でしっかりした地盤というものがない低湿地帯の砂地盤ではまったく独特の工法でおこなう必要がある。
基礎の敷地面積あたりどれだけ多く杭を打ち込むかで建てられる建物のたかさが決まるのだそうだ。
それはまるで生け花に使う剣山をひっくり返して砂地の浅瀬においたようなものである。
表面層30~50cmは砂地盤のように見えるがその下部層は液状化していて半分砂地もう半分は水の上に乗っているようなものである。
さいわいにもここは地震というものがないためそれでも建造物として成り立っているのだろう。
わが家に向かう車からいつもいちばん最初に見えてくるのが拙村のこの教会堂の尖塔である。
昔も今もこの村でいちばんたかい建造物である。
その教会堂とMaria-oordとよばれる新しい3階たて建物の養護老人ホームにはさまれた敷石の間道を左に折れた。
とおりぬけてでてきた右手のところにバス停がある。
この道路は左へ行くとつきあたりにショッピングセンターがあり反対へ折れると教会堂である。
ひだりへ折れてさらに敷石の歩道を歩き続けた。
赤い郵便箱が立っているところは銀行とVVVオフィス(観光案内所)が一つ屋根の下に入っている建物で、ふだん現金をおろすATM機が設置してある。
かつてそこはこの村の郵便局だったところである。
その先には息子が通った小学校の校舎とさらに村の公民館が並んでいる。
公民館の後ろには図書館と屋内スイミングプールがある。
そこもまた息子が小さな頃はほとんど毎日のようにお世話になったところである。
その先は幅15mほどの水路をまたぐたいこ橋が架かっている
公民館の正面へさしかかったとき、たいこ橋の向こう側から性能アップを施した独特のかん高い排気音を響かせてスクーターが駆け上がりそしてくだってきた。乗っていたのは近所の十代の若者であった。
オイルの焼けた匂いをあたりに残して一気に後方へ走り去った。
その排気音が遠のきふたたび静かになったと思ったら今度はうしろから低周波のズッドッ-ドッ-ドッ-ドッと腹に響くような音をたてて定期運行バスがやってきた。
車内灯が明るい車内にはだれも乗客はいなかった。
そのバスは大きな車体をきしませながらたいこ橋をかけ上がりそして向こうへ側へゆっくり沈んでいった。
前述したとおりこの水路は湖沼へつながっている。
春から夏場は舟遊びをする人たちの大小のボートが煩雑に行き交う水路である。
そしてこの水路を境界線に西側地帯と東側地帯に分かれている。
いまここの橋を渡って坂を下りたところでの我が家がある東側地帯へふたたびもどってきたことになる。
たいこ橋の真ん中までのぼってきて足元の水路を見下ろすと、土堤に沿って設置された外灯のランプがいくつも水面に揺らめいていた。
*(三日月)**(うるうる)*
息子が9歳のときKomunie「堅信礼」とよばれるカソリックの通過儀式を十数名の同年齢のこの村の他の子ども達といっしょに受けた。そのときの教会堂である。
*(教会)**(ウインク)*
まだすこし寒さが残っている晩春だったと記憶している。そのときもそして今も筋金入りの敬虔なクリスチャンである義理の母はわざわざそのため?にワルシャワからやってきていた。
先のヨハネパウロ二世を輩出した名うてのカソリック国生まれで育ちの生粋のポーランド人であるからこういうことをするときは半端ではなかった。
そして孫のためにこの儀式用にとくべつにあつらえた正装一式を持参してきた。
彼にとってはかたくるしいことこの上ない正装をさせられてブンムクレている息子をなだめつつ家族みんなでこの教会堂へ出かけていったことをおもいだす。
その儀式にさきだつ2週間まえこの教会堂からまねかれ儀式ついての説明をうけた。
神父さんみずから礼拝堂の中を歩きながらあれやこれやをひとつづつていねいに説明してくれた。
階段を上がって大きな鐘がある鐘楼の内部やパイプオルガンの中身まで見せてくれてその由来を教えてくれた。また側廊に沿ったいくつかのへやも見てまわった。ラテン語で書かれたたたみ半畳ぐらいもある年季の入った聖書やそれからなんとかの聖体であるとか古めかしいが由緒ありそうななんとかの聖像物などもみせてくれた。
いちばん驚いたのがさほど大きくないガランとしたへやへ入ったときのことである。
へやの真ん中にあった50cm角の床板を一枚はがしてその穴の中をのぞき込みなさいという。
その穴に落ちないように恐る恐るのぞき込んで見るとなんとその薄暗い床下1mほどのところは水深0.6mぐらいの水が張ってあるのだった。
それはこのへやだけにかぎったものではなくこの教会堂全体の床下がそうなっているのだそうだ。
そして教会堂すぐ横の水路の水位と同調しているということである。
ということはこの教会堂の基礎はすぐ近くの湖沼の浅瀬に建てられているのと同じことになる。
まるで厳島神社とその鳥居のようではないか!
この教会堂の母体はすでに13世紀後半にはあったそうで、いまある高さ70mの尖塔をもつ時計台と教会堂は19世紀のはじめ頃建立されたということだ。
なおこの教会堂は国定史跡に指定されている。
この地域で高層の建物を建てる技術はたぶんこのような教会堂を建てることから始まっただろう事は容易に想像できる。
ふつうの意味でしっかりした地盤というものがない低湿地帯の砂地盤ではまったく独特の工法でおこなう必要がある。
基礎の敷地面積あたりどれだけ多く杭を打ち込むかで建てられる建物のたかさが決まるのだそうだ。
それはまるで生け花に使う剣山をひっくり返して砂地の浅瀬においたようなものである。
表面層30~50cmは砂地盤のように見えるがその下部層は液状化していて半分砂地もう半分は水の上に乗っているようなものである。
さいわいにもここは地震というものがないためそれでも建造物として成り立っているのだろう。
わが家に向かう車からいつもいちばん最初に見えてくるのが拙村のこの教会堂の尖塔である。
昔も今もこの村でいちばんたかい建造物である。
その教会堂とMaria-oordとよばれる新しい3階たて建物の養護老人ホームにはさまれた敷石の間道を左に折れた。
とおりぬけてでてきた右手のところにバス停がある。
この道路は左へ行くとつきあたりにショッピングセンターがあり反対へ折れると教会堂である。
ひだりへ折れてさらに敷石の歩道を歩き続けた。
赤い郵便箱が立っているところは銀行とVVVオフィス(観光案内所)が一つ屋根の下に入っている建物で、ふだん現金をおろすATM機が設置してある。
かつてそこはこの村の郵便局だったところである。
その先には息子が通った小学校の校舎とさらに村の公民館が並んでいる。
公民館の後ろには図書館と屋内スイミングプールがある。
そこもまた息子が小さな頃はほとんど毎日のようにお世話になったところである。
その先は幅15mほどの水路をまたぐたいこ橋が架かっている
公民館の正面へさしかかったとき、たいこ橋の向こう側から性能アップを施した独特のかん高い排気音を響かせてスクーターが駆け上がりそしてくだってきた。乗っていたのは近所の十代の若者であった。
オイルの焼けた匂いをあたりに残して一気に後方へ走り去った。
その排気音が遠のきふたたび静かになったと思ったら今度はうしろから低周波のズッドッ-ドッ-ドッ-ドッと腹に響くような音をたてて定期運行バスがやってきた。
車内灯が明るい車内にはだれも乗客はいなかった。
そのバスは大きな車体をきしませながらたいこ橋をかけ上がりそして向こうへ側へゆっくり沈んでいった。
前述したとおりこの水路は湖沼へつながっている。
春から夏場は舟遊びをする人たちの大小のボートが煩雑に行き交う水路である。
そしてこの水路を境界線に西側地帯と東側地帯に分かれている。
いまここの橋を渡って坂を下りたところでの我が家がある東側地帯へふたたびもどってきたことになる。
たいこ橋の真ん中までのぼってきて足元の水路を見下ろすと、土堤に沿って設置された外灯のランプがいくつも水面に揺らめいていた。
*(三日月)**(うるうる)*