navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

ウクライナ方面への旅-11

2006年11月20日 | 日記
強烈な真夏の太陽が描く陰影のなかにその宮殿(と歴史建築博物館)はあった。*(晴れ)*

イスラム風の造りでほどよく枯れて寂れてジンギス汗一族の血縁のハーンが治めたクリミア・ハーン国の栄華を偲ばせている。

クリミア・ハーン国はロシア帝国の歴史上「タタールのくびき」として知られているモンゴル帝国のひとつカスピ海北岸から東スラブ一帯に覇をとなえたキプチャク・ハン国の事実上の継承国でした。

西欧世界のごつくて厳しくまた絢爛豪華な歴史的建造物を多く見てきたこの目にはこの宮殿のような身の丈サイズの建物(二階建ての高さ)はとても新鮮に見える。

がんばれば飛び上がれるほどの高さの漆喰?塀で囲われすりへった石敷きの宮殿の中庭を歩いていると,肩から力が抜けとても身近で親しみを感じる。
入って左側にある白壁のモスクの周りにはあまり高くないミナレット(塔)が5つ紺碧の空に鉛筆を立てた様に建っている。

宮殿内の調度と内装はやわらかい木材と絹や木綿の材質感が基本で,暖かい赤と黄と金の色合いが微妙に調和しておちついた渋さを醸し出している。

色鮮やかな菱形の連続した模様のステンドグラスの帯を上下で挟んだガラス窓が壁一面に配されている。
人工的な照明は一切使わなくても部屋の中は爽やかな明るさに満たされている。

いまはもう色あせてしまったが往時はどん
なに鮮やかだっただろうかと思わせるような絹のじゅうたんが大理石の床に敷かれている。

中庭の噴水の周りには色とりどりの花々が咲き乱れ, あたりに漂う花の薫りが鼻腔をくすぐる。
手の届きそうな高さの軒下には背の低い庭木が濃い緑の葉を茂らせてところどころに生えている。

コントラストの強い陰影のその辺りの木陰から爽やかな涼風が微かに吹いてくる。*(波)*

昼下がりそんな涼風に火照る頬なぜられ格子模様の天井を仰ぎながら昼寝をしたらさぞ気分がいいだろうなと思った。*(いっぷく)*

遊牧民は昔から満天の星空をいただく広大な草原の一角に張幕(ゲルまたはオルダといわれる)を張ってその中で生活をしてきたと云われている。
遊牧生活の世界観生活観では”線引きをして領地を定め木造や石の大建造物を造って定住する”と言うスタイルは本来なじまないはずだが。

しかし15世紀半ばにここクリミア半島に居を定めたハジ・ギレイ汗頃からはすで黒海の対岸オスマン・トルコ帝国の影響を強く受けたようでだんだんにイスラムの風に馴染んでいったのだろうか。
古いトルコ風でありながらもかつての遊牧民の生活も忍ばせるような風情をもつ宮殿を造ったのだろう。

13世紀に史上空前の世界大帝国を打ち立てたモンゴル帝国にまつわる話はここウクライナやロシアではなかなか彼らの歴史のおもて舞台には出てこれないようだ。

地球的規模の遠い遠いところからやって来て征服者として君臨したモンゴルやタタールの歴史文化慣習はいまも忌むべきもの否定的なものとして位置づけられているようです。

いまあるこの国にとってモンゴルやタタールの歴史文化的な価値は低くしかも民族的由縁が薄い。有益で誇れるべきものは殆ど無かったと。

キリスト教対イスラム教との心情的感情的対立の事情もあるようなのだが...*(割ハート)*

こんなことがある。
誰でも知っている「東方見聞録=原題・マルコポーロとアジアの不思議な物語の書」はヴェネツイア商人マルコポーロの大旅行記である。

マルコ・ポーロ達がたどった行程はヴェネツイアから元の大都まで。
それはモンゴル帝国が築いた「ジャムチ」=駅伝制度を伝って行った筈で長い道中でも安全な旅行ができたと思われる。

それからこんなこともありますね。
そして西欧世界史のポルトガルを初めとするいわゆる大航海時代が始まるその動機についてです。*(波)*

この旅行記に記されている東方世界の豊かな黄金・銀・真珠・そして香辛料を求めて始まったのはいまは周知の事実ですね。*(お金)*

その中には「黄金の国ジパング」のことも記されていました。

この旅行記が出た当時は“ほら吹きマルコ”とか“大口マルコ”とか呼ばれだーれも信じようとはしなかったようです。
彼が亡くなってからなんと200年以上もたってからやっと信じられ興味を持たれて大評判になったんだそうです。*(びっくり1)*

どんな風に歴史が動いていったかと言うと,
当時通商国家ヴェネツイアが独占していた香辛料(丁字とナツメグ)を求めてバスコダ・ガマがインド航路を開拓してからは西欧世界は堰を切ったように争ってインド・アジア世界へ神の名の下に武力征服(植民地化)を開始して行きました。

同時期コロンブスが目指したところも逆周りでのやっぱりインド・アジアでした。

その同じ頃ポルトガル人も種子島へやって来て鉄砲をまたフランシスコ・ザビエルも鹿児島からキリスト教を日本へ伝えましたよね。

と,モンゴル帝国が残した歴史的意義は“ユーラシア大陸の東と西を結びつけた。”と言うことで「パクス・モンゴイカ」のもとどれだけの文化や物品が豊かな東から西へ伝えられたか調べていくととても興味深いと思います。*(初心者)**(ウインク)*

西から東へ伝えられたものは既によく記録されよく認知理解されているようなので。*(ジロ)*


宮殿の半分ほどは歴史博物館のようになっていて古の栄華を語るいろんなものが展示されている。
「スーホの白い馬」のお話に出てくる馬頭琴, 竹の縦笛,タンバリン,アラブ音楽でおなじみのカヌーン?(台形の琴),バグパイプや太鼓もある。 

ゆったりした太鼓のリズムに哀愁を漂わせるメロディの琴を爪弾きかすれた竹笛の響きを奏でれば中央アジア世界の旋律そのものになる。
どこからともなくあの”シルクロード世界の旋律”が流れてきそうだ。*(音符)*

別の部屋には戦闘用具である弓矢や斧やこん棒それと皮製の鞍があった。

生活用品では石臼,手打ち出しの金属盆大小・水差し・花びんや日本の古い和ばさみに似たはさみや菜(肉かな)包丁らが額に入ったセピア色の写真とともに並べられていた。

チャードル姿の女性達が集まっている絵が幾幅か展示されている部屋にはコーラ-ンがのった書台と絹のショールやスカーフの隣にロザリオ(数珠)がいくつも並べてかけてあった。

この宮殿の目玉である有名な「涙の泉」には白と真紅のばらの花が二つ滴り落ちる涙にぬれそぼってならんで挿してあった。*(バラ)*

何気なくとおりすぎた二重籠目模様の透かし衝立が並ぶ向こうがわには華やかし頃のハーンの宮殿の生活のようすが垣間見えたような気がした。

宮殿の門の外側にはみやげ物屋が立ち並んでいた。
まばらな観光客に混じって露店に並ぶ商品をながめる。ここはあきらかにイスラム世界とはっきりわかる品揃えだった。

紫・緑・濃紺・青・黒・赤・白地に金糸の刺繍を施したイスラム帽やさらに色鮮やかな絹や木綿のスカーフやショールがそよ風になびいている。
磁器製やガラス細工のアクセサリーや置物もまぶしくかがやいていた。
素朴な木工品も並んでいた。
ながいこげ茶の毛並みの子犬が足元をすりぬけて陳列台の下へ駆け込んでいった。
ワンちゃんだってこの炎天下ではさぞ暑いだろうな。

流れ落ちる汗が目に入って視界が霞んで来る。

ハーンの宮殿のまえをとおりすぎ,しばらく行った道端に駐車してある自分達の車のところへ帰ってきた。
すぐにすべてのドアを開け放ち陽よけシートをかたずけてこれから向かう方面の地図を見開く。

ひなびた村のハーンの宮殿を後にして再びカンカン照りで砂ほこりの舞うガタガタ舗装路?を走り始めた。*(ダッシュ)**(車)*

クリミアへやってきた道をそっくり戻るルートである。

街道脇には西瓜や野菜(ピーマン,トマト,たまねぎ)やぶどう売りの露店がいくつも並んでいる。

強烈な印象と忘れがたい思い出をいくつもつくってくれたクリミア半島に別れを惜しみながらこの半島が大陸とつながっている首根っこであるペレコプ地峡を目指し国道?M24をひたすら走り続ける。
路面状態と交通状態により80~110KM/H程度のペースで時々はおそい貨物トラックや車を追い越す。

精一杯注意して運転しているのだけれど,追い越しの時対向車線にある予想もできない深い穴ぼこや大きなこぶに車輪を取られ”ガツンッ”といういやな底つきの異音とショックに見舞われる。*(すっぱい)*

そんなことが幾度かあってシェルソン南郊20KM付近で車のリアトランク辺りから何か大きなものが踊っているようなガタツキ音が時折聞こえて来るようになった。

”なんだろう?トランクの中で何かが転がっているみたいだけど?”*(はてな)*
”調べてみた方がいいんじゃない?”
”そうだな,あそこに停まろうか...”

心配になって街道脇のガソリンスタンドの駐車場へ車を乗り入れた。

リアトランクの中にはがたつくような物は見当たらなかった。

床下を覗き込んでみた。
左側のリアサスからどうもオイル漏れがあってびっしょり濡れてていた。

左側のリアタイアを手で引っ張ってみると”相当なガタ”があった。
右側リアタイヤと前輪も同じようにしてみたが他はなんともない。

てっきりリアタイアのホイールボルトが緩んでいるのだろうと思ってホイールキャップをはずしてみた。
緩んだ形跡はまったくみられなかった...
カージャッキを取り出してジャッキアップしてみた。

ななんと?!左リアサスユニットがごっそり上側から外れてぶらぶらしているではないか!!*(青ざめ)*
上部取り付け部がのシャフト部が繰り返しみまわれた強烈な底づきのショックで折れてしまったようなのだ。

これはたいへんなことが起きてしまったぞ!
このまま走り続けるのはとても不可能だ。
火曜日で時刻は午後5時半ごろである。
反対側のサスは特に異常無しのようにみえる。

さてどうしたものだろうか?こんなところでこんなたいへんな故障が起きてしまうとは...困ったぞ...いろんなことが頭の中を駆け巡る。
トホーにくれてしまった。*(驚き)**(最低)*

そんな我々のようすを見かねてガソリンスタンドの大兄さんが心配そうにやってきた。
何か言っているのだが,勿論言葉はまったく通じないのである。*(バツ)*

このたいへんなことがそれからどうなったかの顛末を次回書きます。


うわの空ものと未熟ものめが!

2006年11月10日 | 日記
早朝4時起きして朝早い便でイタリアはボローニアからフランスのパリへ移動した時遭遇した2件の話です。

その一: 
到着したパリのCD空港でチェックインした荷物を受け取るつもりがいっこうに出てこない。紛失係に問い合わせてみるとトランジットホールへ入っているようだと...*(驚き)*
ボローニア空港でチェックインした時に口頭で”パリで受け取る”と繰り返し確認したのに係りのお姉さんはうわの空だったんだ。”パリ経由アムスで受け取る”に登録してしまったのだ。
今日の目的地パリでの仕事のためにわざわざ手持ちで持ってきたものがその荷物の中に入っているのにとっても困った。*(すっぱい)*
そこの紛失係で徹底的に粘ること1時間半何とか見つけ出し受け取ることが出来た。延べ3人の係りとやり取りした。
訪問先との約束の時間はとっくにすぎている。やれやれ。
*(最低)**(ジロ)*

その二:
その荷物を持って急ぎ飛び乗ったタクシーの運転手行き先を書いた紙片を渡したがGPSをああでもないこうでもないといじっていてばかりでいつまでたってもスタートしない。*(いっぷく)*
手元にあった詳細の住所が書いてある別の紙片を渡したがまだ走り出(せ)さない。
見るに見かねて, 手元の携帯で行き先に電話してタクシーの運転手に直接説明してもらって何とかスタート。
*(困る)*もう15分近くたってしまっている。
25分間ぐらいで到着するはずがGPSでまたああでもないこうでもないと遠回り行ったり来たりを繰り返し到着したのは結局1時間10分もかかった。

で運賃の支払いの時相場よりも25ユーロ高い運賃を請求された。*(激怒)*

大幅に遅れた上に余計に支払えとは納得行かないので”相場の額だけ支払う”と言うと”だめだ全額支払え”と頑迷に粘る。
結局行き先の受付嬢さんに間にはいってもらって相場の額だけ支払った。*(グー)**(お金)*

結論を言うと”このタクシーの運転手プロの自覚と能力がまったく欠如している。GPSを使おうが無線だろうが地図を見ながらだろうがとにかくお客を目的地まで効率よく安全になるたけ早く運んでくれればそれでよし。
それが出来ずに大幅に時間をかけしかも法外な運賃を請求するなんて言語同断だ。”*(バツ)*

不完全なGPSに頼りすぎるからプロのタクシーの運転手としての能力(その土地の地図を頭と体に叩き込む)が身につかないのだと思う。*(最低)**(初心者)*

おまけにもうひとつ, しかも運転技術も危ないくらい低かったぞ この運ちゃんは。

あとで行き先のフランス人とこのことを話したら最近似たようなトラブルがよく起きているそうだ。
機械とコンピューターシステムに依存しすぎの弊害だ。
人間の能力・技術・工夫そして物の見方考え方まで退化していくようで困ったことだ。*(困る)*




ウクライナ方面への旅-10

2006年11月03日 | 日記
いつまでも落ち込んでいられない。

けっこう役に立ちそうな道路地図も手に入ったことだしとにかく先へすすもう。
相変わらず天気も素晴らしく良い。
いや昨日よりもはるかに暑い!*(涙)**(いっぷく)*

ここヤルタが今回の旅の折り返し地点になる。*(ウインク)*

昨晩エアコンがよく効いたホテルの部屋でクールな頭で考えて考え抜いた結果決めたルートを辿って帰路につくことにする。*(グー)*

いやほんとはそんなに深く考えていなかったかもしれないな。
単に幾つかの選択肢から残ったより現実的なルートにしようとしただけだったかもしれない。
ただ一点確かなことは, ”過度のリスクは避ける”ようにしたことです。

出発前にホテルのレストランで他の泊り客達とセルフサービスの朝食を摂った。
朝からしっかりとデザートもいただいた。
よくあるビュフェッ・スタイルだったけどまずまずの品揃えで食べ物の質も良好でした。

嬉しい驚きだったのは何気なく皿につまんで載せてきた小さな房のぶどうの味のこと。
やや大粒ながら濃い青紫色の実で口に含むと以前日本で食べたデラウエアの懐かしい甘みと味わいが拡がった。
それは息子の大好物, 小さいころから日本の実家へ夏休みに里帰りした時などに良く食べたあの”冷蔵庫で程よく冷え房全体にうっすらと水蒸気の膜に覆われたデラウエア”です。

息子にすすめてみると”ああそうだあのぶどうと同じだ!”と笑顔がひろがった。
そのおいしいぶどうをお替りしてヤルタでの朝ごはんの閉めとしました。
甘くさわやかなぶどうの香り包まれてなんかとっても満たされた気分になりました。*(音符)**(ウインク)*

些細なことだけどもうひとつ気づいたことがありました。

このホテルのロビー(あると言えば在るないといえば無いぐらいの大きさのロビー)の一角でエレベータ乗り場の左横に造られていたものです。
よく日本のホームセンターなぞで売っているような“箱庭用噴水セット”のことです。

角の壁と壁それからわずか1メートル超四方の大きさの床におさまる広さの場所に造られていました。

築山風に盛り上げられた山の頂上には両手で抱えられるぐらいの大きさの石臼が1セット置かれていた。
その石臼は時計回りにぐるぐる廻りながらきれいな水を下側の注ぎ口から溢れださせている。
流れ出た水流は小山の頂上辺りに落ちてからはくねくねと弧を描きながら緑の斜面をつたって流れ落ち最後にはその山の麓の湖?に流れ込むという仕掛けになっていました。

なんか素朴でほのぼのとしていておとぎ話の世界を彷彿させるような雰囲気を漂わせていて好かったな。*(ニヤ)*

私の幼いころの記憶ですが, 天気の好い昼下がり祖父があぐらをかいて両足に挟んだ石臼をゴリゴリ廻して籾摺りをしているのを観たことがありました。

のどかな東アジアの農村風景ですね。

息子も何か感ずるところがあったようで手元のデジカメをビデオの設定にしてしっかり録画しました。

たしか海の底に沈んでいって今でも塩を噴出し続けている石臼の昔話がありましたね。
その石臼を眺めていると自分が生まれ育った風土で昔から言い伝えられ慈しんできたものをここで偶然発見したような気がしました。
郷愁ですね。*(山)*
原作はノルウェー民話ともいわれていますけど。

ささやかなことでしたがとても嬉しかったです。*(ニヤ)*

旅の身の回り品を入れたバッグやらを両手に持ってホテルの外に出ようと玄関口へ行くと, そこには真新しいレインジローバーとランドクルーザーの2台が我が物顔をしてその出入り口のまん前に駐車していました。

いずれも漆黒の見上げる様な図体で小山のようなボディをしている。
そのボディのそこここにはクロームメッキパーツが厳しさを更に強調するような具合に配飾されている。
その磨かれたクロームメッキパーツの反射光が辺りを睥睨するようにぎらぎらと煌めいていた。

悪趣味のとどめはこれ全周4面のガラス窓ですべてこれまた真っ黒くろすけのガラス窓で外からはまったく車内の様子が見えない。
フロントグラスまで真っ黒けではないか!

傲慢さとおどろおどろしさの極だなこれは,まるでXXXマフィア調ではないか。*(最低)*

( 驚いたことにここウクライナ旅行中に出会ったポリスカーもすべて前周4面のガラス窓はやっぱり“まっくろけ”でした。)

そのオーナーの一組は成金風のお大兄さん二人, もう一組はお金持ち風のご家族4人の一家でした。

彼らが走り去って程なく我々(とても裕福には見えない東洋人風の二人組)もこれまた冴えない平凡な4ドアサルーン車を蹴り低性能の排気音を響かせてヤルタのホテル・ブリストルを後にしました。

次の目的地はバフチ・サライ, 地図でみるとヤルタからなんと言うことはない距離にあった筈だったが...

どこをどう道を間違えてしまったのか海岸付近の道路を上がったり下がったりするばかりでふと気がつくとつい今しがた通ったばかりの所を再び走っているではないか。

もう背中は汗でびっしょり。
間違えずに適度にスピードに乗って走れればこれほど暑くはならないのに。

しかしですね-さすがですねと云おうか昔は皇族貴族の保養地だっただけのことはあると思った。

ロマノフ王朝皇族一族郎党と貴族たちの保養地ですね。

偶然走り回った一帯には海岸の波打ち際から急角度で切り立った断崖のあちこちに小さなお城のような構えの邸宅が建てられている。
まったくお城そのものといっても不自然でない豪邸もいくつかある。

この海岸線の続きをさらに南西方向へ, つまりセベストポーリ方向にしばらく行くと途中には旧ソ連邦の最初で最後の大統領となったゴルバチョフが‘91年のクーデターが発生した時軟禁されていた別荘もあるらしい。*(進入禁止)*

いつまでも上がったり下がったりしている訳には行かないのでいったんヤルタの街近くまで戻って再度目的地方面の標識を探してみる。
本道を1~2Km進むと今度は簡単に目的地の名前の標識を発見できたので本道から分かれさっと山側の道へ入り込む。

しばらくはそんな豪邸が建ちならぶところを縫うように走る急勾配の坂道を昇って行く。

車2台がすれ違うのがやっとの道幅で首を目一杯左右に振り向けて運転するぐらいの九十九折の急勾配を昇り続ける。
ただひたすら淡々と岩崖の坂道を昇り続ける。

ウクライナへやって来て生まれて初めてこのような1stギァ-三昧に遭遇しました。
1stギァでしか走れないような悪路。
1stギァでしか走れないような急勾配の昇り坂。
1stギァでしか走れないような九十九折の連続コーナー。*(すっぱい)*

もうひとつおまけがあって1st~3rdギァ=最速60km/hでしか走れない車になってしまうことが起きてしまって... それはもう少し先の話です。*(はてな)*

背の低い赤松と雑木が入り混じった断崖の斜面をへばりついて昇って行くようだ。
フロントウインドウごしボンネットの先に次々にあらわれる極端にきついコーナーの連続。
そんなコーナーをいくつもいくつもこなしていくと急に頭の上が明るくなって視界が開けた。

恐らく海岸縁から一気に1000メートルぐらい高いところへ昇ってきた感じがする。

やはり旅行者らしき先着組の車が2台路肩に停まっていた。
その車から降りて休憩しているらしい。
その黒海と海岸一体を見下ろす眺望を楽しんでいるのだろう。

右肩眼下に広がる景色(=本来は絶景であろう)は薄い夏霞に包まれた淡いトーンのパノラマである。
そのときは薄いベールがかかった様で残念ながら景観に鮮烈さがない。
黒海から立ち昇る水蒸気が多すぎるのだろう。

かつて私が10代後半の頃よく慣れ親しんだ真鶴海岸辺りから胸突き八丁を一気に昇るような伊豆の地形にすこし似ていると思った。
やはり海抜1000m近くまで昇りきったところから眺める眼下の相模湾はその名のとおり湾の形に見えた。
そのときもやはり水蒸気の多い景観だったのを想い出した。

途中ですれ違うかあるいは我々の車を昇り坂で強引に追い越していくのはたいていマルシュと呼ばれている乗り合いタクシー(路線ミニバス)でした。
西欧の路上でもよく見かける1.5~3トンクラスのメルセデスのスプリンターモデルが圧倒的多数である。
あれはめっぽう速い車(ミニバン)ですね確かに。
アウトバーンで普通のサルーンをいとも簡単に追い越していく俊足貨物バンです。

さすがにこの辺まで来るともう峠なのか今度は今までとはちょうど逆でやはり極端な下り坂の九十九折である。

わずかな木洩れ日が漏れる薄暗い坂道を走り続ける。
そんなところが永遠に続くかのような錯覚がおきる。

それでも幾らか勾配が穏やかになってきて徐々に視界も開けてきた。

突然向かいの小高い山の山頂一帯に巨大で真っ白なきのこのお化けがいくつも生えているが見えた。*(驚き)*
なんだろう?? 
あまりに異様に見える。
その辺の風景から乖離した風体のものである。

さらに近づいていくとやっとその正体がわかった。

天体観測のドーム群らしい。
それも旧ソ連邦時代では天体物理学の中心的存在であったクリミア天文台だったのです。
そこには高性能の反射望遠鏡や電波望遠鏡が設置されているとか。
確かにこのへんなら天体観測をするには立地条件や自然条件がとても恵まれていると思う。

この付近で一番高い山はアイ.ペトリ山で海抜1234mある。

山岳地帯を下り切った辺りからは小さな集落が幾つかあってそこを通りぬけていく。
その小さな集落の人たちが道端に粗末な木製の棚の上にビンに詰めた蜂蜜や蜜酒(密酒かな)それから採れたてのきのこなどを並べて売っている。
彼らもあの帰還クリミア・タタール人の人たちなのだろうか。

それらの村々は両側に切り立った岸壁に抱かれているような具合に見える。

切れるように鋭利な陽光を反射して淡い灰色かやや白っぽく見える岩肌の岸壁。 
濃い緑色の潅木の茂みが帯のように縁取る基底部から殆ど垂直に聳え立っている。
少なくみても300~350mぐらいの高さはあるに違いない。
なんか硬くて逞しくも見える岩肌のせいか一種独特の威圧感と存在感がある。

むしろ畏れ多い威容を漂わせてそれらの集落を守って抱いているようにも見える。

その断崖がだんだん低くなりやがてその先端部が辺りの土地の起伏に落ち込み見えなくなるところからほんの10キロメートルほど行ったところにバフチ・サライのまちがある。

350年前まではクリミア・ハーン国の首都だった。
このまち外れのちっぽけな村の一角にクリミア・ハーン国の支配者だったハーンの宮殿があった。
そこにはトルコ風イスラム風の雰囲気が漂っていました。*(ウインク)*

次回はこの宮殿のこととそれからたいへんなことが起きてしまったことを書きます。*(バツ)**(ダッシュ)*