強烈な真夏の太陽が描く陰影のなかにその宮殿(と歴史建築博物館)はあった。*(晴れ)*
イスラム風の造りでほどよく枯れて寂れてジンギス汗一族の血縁のハーンが治めたクリミア・ハーン国の栄華を偲ばせている。
クリミア・ハーン国はロシア帝国の歴史上「タタールのくびき」として知られているモンゴル帝国のひとつカスピ海北岸から東スラブ一帯に覇をとなえたキプチャク・ハン国の事実上の継承国でした。
西欧世界のごつくて厳しくまた絢爛豪華な歴史的建造物を多く見てきたこの目にはこの宮殿のような身の丈サイズの建物(二階建ての高さ)はとても新鮮に見える。
がんばれば飛び上がれるほどの高さの漆喰?塀で囲われすりへった石敷きの宮殿の中庭を歩いていると,肩から力が抜けとても身近で親しみを感じる。
入って左側にある白壁のモスクの周りにはあまり高くないミナレット(塔)が5つ紺碧の空に鉛筆を立てた様に建っている。
宮殿内の調度と内装はやわらかい木材と絹や木綿の材質感が基本で,暖かい赤と黄と金の色合いが微妙に調和しておちついた渋さを醸し出している。
色鮮やかな菱形の連続した模様のステンドグラスの帯を上下で挟んだガラス窓が壁一面に配されている。
人工的な照明は一切使わなくても部屋の中は爽やかな明るさに満たされている。
いまはもう色あせてしまったが往時はどん
なに鮮やかだっただろうかと思わせるような絹のじゅうたんが大理石の床に敷かれている。
中庭の噴水の周りには色とりどりの花々が咲き乱れ, あたりに漂う花の薫りが鼻腔をくすぐる。
手の届きそうな高さの軒下には背の低い庭木が濃い緑の葉を茂らせてところどころに生えている。
コントラストの強い陰影のその辺りの木陰から爽やかな涼風が微かに吹いてくる。*(波)*
昼下がりそんな涼風に火照る頬なぜられ格子模様の天井を仰ぎながら昼寝をしたらさぞ気分がいいだろうなと思った。*(いっぷく)*
遊牧民は昔から満天の星空をいただく広大な草原の一角に張幕(ゲルまたはオルダといわれる)を張ってその中で生活をしてきたと云われている。
遊牧生活の世界観生活観では”線引きをして領地を定め木造や石の大建造物を造って定住する”と言うスタイルは本来なじまないはずだが。
しかし15世紀半ばにここクリミア半島に居を定めたハジ・ギレイ汗頃からはすで黒海の対岸オスマン・トルコ帝国の影響を強く受けたようでだんだんにイスラムの風に馴染んでいったのだろうか。
古いトルコ風でありながらもかつての遊牧民の生活も忍ばせるような風情をもつ宮殿を造ったのだろう。
13世紀に史上空前の世界大帝国を打ち立てたモンゴル帝国にまつわる話はここウクライナやロシアではなかなか彼らの歴史のおもて舞台には出てこれないようだ。
地球的規模の遠い遠いところからやって来て征服者として君臨したモンゴルやタタールの歴史文化慣習はいまも忌むべきもの否定的なものとして位置づけられているようです。
いまあるこの国にとってモンゴルやタタールの歴史文化的な価値は低くしかも民族的由縁が薄い。有益で誇れるべきものは殆ど無かったと。
キリスト教対イスラム教との心情的感情的対立の事情もあるようなのだが...*(割ハート)*
こんなことがある。
誰でも知っている「東方見聞録=原題・マルコポーロとアジアの不思議な物語の書」はヴェネツイア商人マルコポーロの大旅行記である。
マルコ・ポーロ達がたどった行程はヴェネツイアから元の大都まで。
それはモンゴル帝国が築いた「ジャムチ」=駅伝制度を伝って行った筈で長い道中でも安全な旅行ができたと思われる。
それからこんなこともありますね。
そして西欧世界史のポルトガルを初めとするいわゆる大航海時代が始まるその動機についてです。*(波)*
この旅行記に記されている東方世界の豊かな黄金・銀・真珠・そして香辛料を求めて始まったのはいまは周知の事実ですね。*(お金)*
その中には「黄金の国ジパング」のことも記されていました。
この旅行記が出た当時は“ほら吹きマルコ”とか“大口マルコ”とか呼ばれだーれも信じようとはしなかったようです。
彼が亡くなってからなんと200年以上もたってからやっと信じられ興味を持たれて大評判になったんだそうです。*(びっくり1)*
どんな風に歴史が動いていったかと言うと,
当時通商国家ヴェネツイアが独占していた香辛料(丁字とナツメグ)を求めてバスコダ・ガマがインド航路を開拓してからは西欧世界は堰を切ったように争ってインド・アジア世界へ神の名の下に武力征服(植民地化)を開始して行きました。
同時期コロンブスが目指したところも逆周りでのやっぱりインド・アジアでした。
その同じ頃ポルトガル人も種子島へやって来て鉄砲をまたフランシスコ・ザビエルも鹿児島からキリスト教を日本へ伝えましたよね。
と,モンゴル帝国が残した歴史的意義は“ユーラシア大陸の東と西を結びつけた。”と言うことで「パクス・モンゴイカ」のもとどれだけの文化や物品が豊かな東から西へ伝えられたか調べていくととても興味深いと思います。*(初心者)**(ウインク)*
西から東へ伝えられたものは既によく記録されよく認知理解されているようなので。*(ジロ)*
宮殿の半分ほどは歴史博物館のようになっていて古の栄華を語るいろんなものが展示されている。
「スーホの白い馬」のお話に出てくる馬頭琴, 竹の縦笛,タンバリン,アラブ音楽でおなじみのカヌーン?(台形の琴),バグパイプや太鼓もある。
ゆったりした太鼓のリズムに哀愁を漂わせるメロディの琴を爪弾きかすれた竹笛の響きを奏でれば中央アジア世界の旋律そのものになる。
どこからともなくあの”シルクロード世界の旋律”が流れてきそうだ。*(音符)*
別の部屋には戦闘用具である弓矢や斧やこん棒それと皮製の鞍があった。
生活用品では石臼,手打ち出しの金属盆大小・水差し・花びんや日本の古い和ばさみに似たはさみや菜(肉かな)包丁らが額に入ったセピア色の写真とともに並べられていた。
チャードル姿の女性達が集まっている絵が幾幅か展示されている部屋にはコーラ-ンがのった書台と絹のショールやスカーフの隣にロザリオ(数珠)がいくつも並べてかけてあった。
この宮殿の目玉である有名な「涙の泉」には白と真紅のばらの花が二つ滴り落ちる涙にぬれそぼってならんで挿してあった。*(バラ)*
何気なくとおりすぎた二重籠目模様の透かし衝立が並ぶ向こうがわには華やかし頃のハーンの宮殿の生活のようすが垣間見えたような気がした。
宮殿の門の外側にはみやげ物屋が立ち並んでいた。
まばらな観光客に混じって露店に並ぶ商品をながめる。ここはあきらかにイスラム世界とはっきりわかる品揃えだった。
紫・緑・濃紺・青・黒・赤・白地に金糸の刺繍を施したイスラム帽やさらに色鮮やかな絹や木綿のスカーフやショールがそよ風になびいている。
磁器製やガラス細工のアクセサリーや置物もまぶしくかがやいていた。
素朴な木工品も並んでいた。
ながいこげ茶の毛並みの子犬が足元をすりぬけて陳列台の下へ駆け込んでいった。
ワンちゃんだってこの炎天下ではさぞ暑いだろうな。
流れ落ちる汗が目に入って視界が霞んで来る。
ハーンの宮殿のまえをとおりすぎ,しばらく行った道端に駐車してある自分達の車のところへ帰ってきた。
すぐにすべてのドアを開け放ち陽よけシートをかたずけてこれから向かう方面の地図を見開く。
ひなびた村のハーンの宮殿を後にして再びカンカン照りで砂ほこりの舞うガタガタ舗装路?を走り始めた。*(ダッシュ)**(車)*
クリミアへやってきた道をそっくり戻るルートである。
街道脇には西瓜や野菜(ピーマン,トマト,たまねぎ)やぶどう売りの露店がいくつも並んでいる。
強烈な印象と忘れがたい思い出をいくつもつくってくれたクリミア半島に別れを惜しみながらこの半島が大陸とつながっている首根っこであるペレコプ地峡を目指し国道?M24をひたすら走り続ける。
路面状態と交通状態により80~110KM/H程度のペースで時々はおそい貨物トラックや車を追い越す。
精一杯注意して運転しているのだけれど,追い越しの時対向車線にある予想もできない深い穴ぼこや大きなこぶに車輪を取られ”ガツンッ”といういやな底つきの異音とショックに見舞われる。*(すっぱい)*
そんなことが幾度かあってシェルソン南郊20KM付近で車のリアトランク辺りから何か大きなものが踊っているようなガタツキ音が時折聞こえて来るようになった。
”なんだろう?トランクの中で何かが転がっているみたいだけど?”*(はてな)*
”調べてみた方がいいんじゃない?”
”そうだな,あそこに停まろうか...”
心配になって街道脇のガソリンスタンドの駐車場へ車を乗り入れた。
リアトランクの中にはがたつくような物は見当たらなかった。
床下を覗き込んでみた。
左側のリアサスからどうもオイル漏れがあってびっしょり濡れてていた。
左側のリアタイアを手で引っ張ってみると”相当なガタ”があった。
右側リアタイヤと前輪も同じようにしてみたが他はなんともない。
てっきりリアタイアのホイールボルトが緩んでいるのだろうと思ってホイールキャップをはずしてみた。
緩んだ形跡はまったくみられなかった...
カージャッキを取り出してジャッキアップしてみた。
ななんと?!左リアサスユニットがごっそり上側から外れてぶらぶらしているではないか!!*(青ざめ)*
上部取り付け部がのシャフト部が繰り返しみまわれた強烈な底づきのショックで折れてしまったようなのだ。
これはたいへんなことが起きてしまったぞ!
このまま走り続けるのはとても不可能だ。
火曜日で時刻は午後5時半ごろである。
反対側のサスは特に異常無しのようにみえる。
さてどうしたものだろうか?こんなところでこんなたいへんな故障が起きてしまうとは...困ったぞ...いろんなことが頭の中を駆け巡る。
トホーにくれてしまった。*(驚き)**(最低)*
そんな我々のようすを見かねてガソリンスタンドの大兄さんが心配そうにやってきた。
何か言っているのだが,勿論言葉はまったく通じないのである。*(バツ)*
このたいへんなことがそれからどうなったかの顛末を次回書きます。
イスラム風の造りでほどよく枯れて寂れてジンギス汗一族の血縁のハーンが治めたクリミア・ハーン国の栄華を偲ばせている。
クリミア・ハーン国はロシア帝国の歴史上「タタールのくびき」として知られているモンゴル帝国のひとつカスピ海北岸から東スラブ一帯に覇をとなえたキプチャク・ハン国の事実上の継承国でした。
西欧世界のごつくて厳しくまた絢爛豪華な歴史的建造物を多く見てきたこの目にはこの宮殿のような身の丈サイズの建物(二階建ての高さ)はとても新鮮に見える。
がんばれば飛び上がれるほどの高さの漆喰?塀で囲われすりへった石敷きの宮殿の中庭を歩いていると,肩から力が抜けとても身近で親しみを感じる。
入って左側にある白壁のモスクの周りにはあまり高くないミナレット(塔)が5つ紺碧の空に鉛筆を立てた様に建っている。
宮殿内の調度と内装はやわらかい木材と絹や木綿の材質感が基本で,暖かい赤と黄と金の色合いが微妙に調和しておちついた渋さを醸し出している。
色鮮やかな菱形の連続した模様のステンドグラスの帯を上下で挟んだガラス窓が壁一面に配されている。
人工的な照明は一切使わなくても部屋の中は爽やかな明るさに満たされている。
いまはもう色あせてしまったが往時はどん
なに鮮やかだっただろうかと思わせるような絹のじゅうたんが大理石の床に敷かれている。
中庭の噴水の周りには色とりどりの花々が咲き乱れ, あたりに漂う花の薫りが鼻腔をくすぐる。
手の届きそうな高さの軒下には背の低い庭木が濃い緑の葉を茂らせてところどころに生えている。
コントラストの強い陰影のその辺りの木陰から爽やかな涼風が微かに吹いてくる。*(波)*
昼下がりそんな涼風に火照る頬なぜられ格子模様の天井を仰ぎながら昼寝をしたらさぞ気分がいいだろうなと思った。*(いっぷく)*
遊牧民は昔から満天の星空をいただく広大な草原の一角に張幕(ゲルまたはオルダといわれる)を張ってその中で生活をしてきたと云われている。
遊牧生活の世界観生活観では”線引きをして領地を定め木造や石の大建造物を造って定住する”と言うスタイルは本来なじまないはずだが。
しかし15世紀半ばにここクリミア半島に居を定めたハジ・ギレイ汗頃からはすで黒海の対岸オスマン・トルコ帝国の影響を強く受けたようでだんだんにイスラムの風に馴染んでいったのだろうか。
古いトルコ風でありながらもかつての遊牧民の生活も忍ばせるような風情をもつ宮殿を造ったのだろう。
13世紀に史上空前の世界大帝国を打ち立てたモンゴル帝国にまつわる話はここウクライナやロシアではなかなか彼らの歴史のおもて舞台には出てこれないようだ。
地球的規模の遠い遠いところからやって来て征服者として君臨したモンゴルやタタールの歴史文化慣習はいまも忌むべきもの否定的なものとして位置づけられているようです。
いまあるこの国にとってモンゴルやタタールの歴史文化的な価値は低くしかも民族的由縁が薄い。有益で誇れるべきものは殆ど無かったと。
キリスト教対イスラム教との心情的感情的対立の事情もあるようなのだが...*(割ハート)*
こんなことがある。
誰でも知っている「東方見聞録=原題・マルコポーロとアジアの不思議な物語の書」はヴェネツイア商人マルコポーロの大旅行記である。
マルコ・ポーロ達がたどった行程はヴェネツイアから元の大都まで。
それはモンゴル帝国が築いた「ジャムチ」=駅伝制度を伝って行った筈で長い道中でも安全な旅行ができたと思われる。
それからこんなこともありますね。
そして西欧世界史のポルトガルを初めとするいわゆる大航海時代が始まるその動機についてです。*(波)*
この旅行記に記されている東方世界の豊かな黄金・銀・真珠・そして香辛料を求めて始まったのはいまは周知の事実ですね。*(お金)*
その中には「黄金の国ジパング」のことも記されていました。
この旅行記が出た当時は“ほら吹きマルコ”とか“大口マルコ”とか呼ばれだーれも信じようとはしなかったようです。
彼が亡くなってからなんと200年以上もたってからやっと信じられ興味を持たれて大評判になったんだそうです。*(びっくり1)*
どんな風に歴史が動いていったかと言うと,
当時通商国家ヴェネツイアが独占していた香辛料(丁字とナツメグ)を求めてバスコダ・ガマがインド航路を開拓してからは西欧世界は堰を切ったように争ってインド・アジア世界へ神の名の下に武力征服(植民地化)を開始して行きました。
同時期コロンブスが目指したところも逆周りでのやっぱりインド・アジアでした。
その同じ頃ポルトガル人も種子島へやって来て鉄砲をまたフランシスコ・ザビエルも鹿児島からキリスト教を日本へ伝えましたよね。
と,モンゴル帝国が残した歴史的意義は“ユーラシア大陸の東と西を結びつけた。”と言うことで「パクス・モンゴイカ」のもとどれだけの文化や物品が豊かな東から西へ伝えられたか調べていくととても興味深いと思います。*(初心者)**(ウインク)*
西から東へ伝えられたものは既によく記録されよく認知理解されているようなので。*(ジロ)*
宮殿の半分ほどは歴史博物館のようになっていて古の栄華を語るいろんなものが展示されている。
「スーホの白い馬」のお話に出てくる馬頭琴, 竹の縦笛,タンバリン,アラブ音楽でおなじみのカヌーン?(台形の琴),バグパイプや太鼓もある。
ゆったりした太鼓のリズムに哀愁を漂わせるメロディの琴を爪弾きかすれた竹笛の響きを奏でれば中央アジア世界の旋律そのものになる。
どこからともなくあの”シルクロード世界の旋律”が流れてきそうだ。*(音符)*
別の部屋には戦闘用具である弓矢や斧やこん棒それと皮製の鞍があった。
生活用品では石臼,手打ち出しの金属盆大小・水差し・花びんや日本の古い和ばさみに似たはさみや菜(肉かな)包丁らが額に入ったセピア色の写真とともに並べられていた。
チャードル姿の女性達が集まっている絵が幾幅か展示されている部屋にはコーラ-ンがのった書台と絹のショールやスカーフの隣にロザリオ(数珠)がいくつも並べてかけてあった。
この宮殿の目玉である有名な「涙の泉」には白と真紅のばらの花が二つ滴り落ちる涙にぬれそぼってならんで挿してあった。*(バラ)*
何気なくとおりすぎた二重籠目模様の透かし衝立が並ぶ向こうがわには華やかし頃のハーンの宮殿の生活のようすが垣間見えたような気がした。
宮殿の門の外側にはみやげ物屋が立ち並んでいた。
まばらな観光客に混じって露店に並ぶ商品をながめる。ここはあきらかにイスラム世界とはっきりわかる品揃えだった。
紫・緑・濃紺・青・黒・赤・白地に金糸の刺繍を施したイスラム帽やさらに色鮮やかな絹や木綿のスカーフやショールがそよ風になびいている。
磁器製やガラス細工のアクセサリーや置物もまぶしくかがやいていた。
素朴な木工品も並んでいた。
ながいこげ茶の毛並みの子犬が足元をすりぬけて陳列台の下へ駆け込んでいった。
ワンちゃんだってこの炎天下ではさぞ暑いだろうな。
流れ落ちる汗が目に入って視界が霞んで来る。
ハーンの宮殿のまえをとおりすぎ,しばらく行った道端に駐車してある自分達の車のところへ帰ってきた。
すぐにすべてのドアを開け放ち陽よけシートをかたずけてこれから向かう方面の地図を見開く。
ひなびた村のハーンの宮殿を後にして再びカンカン照りで砂ほこりの舞うガタガタ舗装路?を走り始めた。*(ダッシュ)**(車)*
クリミアへやってきた道をそっくり戻るルートである。
街道脇には西瓜や野菜(ピーマン,トマト,たまねぎ)やぶどう売りの露店がいくつも並んでいる。
強烈な印象と忘れがたい思い出をいくつもつくってくれたクリミア半島に別れを惜しみながらこの半島が大陸とつながっている首根っこであるペレコプ地峡を目指し国道?M24をひたすら走り続ける。
路面状態と交通状態により80~110KM/H程度のペースで時々はおそい貨物トラックや車を追い越す。
精一杯注意して運転しているのだけれど,追い越しの時対向車線にある予想もできない深い穴ぼこや大きなこぶに車輪を取られ”ガツンッ”といういやな底つきの異音とショックに見舞われる。*(すっぱい)*
そんなことが幾度かあってシェルソン南郊20KM付近で車のリアトランク辺りから何か大きなものが踊っているようなガタツキ音が時折聞こえて来るようになった。
”なんだろう?トランクの中で何かが転がっているみたいだけど?”*(はてな)*
”調べてみた方がいいんじゃない?”
”そうだな,あそこに停まろうか...”
心配になって街道脇のガソリンスタンドの駐車場へ車を乗り入れた。
リアトランクの中にはがたつくような物は見当たらなかった。
床下を覗き込んでみた。
左側のリアサスからどうもオイル漏れがあってびっしょり濡れてていた。
左側のリアタイアを手で引っ張ってみると”相当なガタ”があった。
右側リアタイヤと前輪も同じようにしてみたが他はなんともない。
てっきりリアタイアのホイールボルトが緩んでいるのだろうと思ってホイールキャップをはずしてみた。
緩んだ形跡はまったくみられなかった...
カージャッキを取り出してジャッキアップしてみた。
ななんと?!左リアサスユニットがごっそり上側から外れてぶらぶらしているではないか!!*(青ざめ)*
上部取り付け部がのシャフト部が繰り返しみまわれた強烈な底づきのショックで折れてしまったようなのだ。
これはたいへんなことが起きてしまったぞ!
このまま走り続けるのはとても不可能だ。
火曜日で時刻は午後5時半ごろである。
反対側のサスは特に異常無しのようにみえる。
さてどうしたものだろうか?こんなところでこんなたいへんな故障が起きてしまうとは...困ったぞ...いろんなことが頭の中を駆け巡る。
トホーにくれてしまった。*(驚き)**(最低)*
そんな我々のようすを見かねてガソリンスタンドの大兄さんが心配そうにやってきた。
何か言っているのだが,勿論言葉はまったく通じないのである。*(バツ)*
このたいへんなことがそれからどうなったかの顛末を次回書きます。