navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

無知のままでいない為に

2015年06月30日 | たわごと

 

表題とほとんど同じ意味になりますが ” 自由であるために ” の随想的記事です。


望む変化に自らがなる

http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-12041757988.html

世界の裏側ニュース

 

本文から:

マクシミリアン・ロベスピエールは、次のように記しています。

自由の秘密は、教育を受けた人間に宿るが、

独裁者の秘密は、彼らを無知にしておくところにある

では、ご自身に聞いてください。自分は自由のエージェントで。人々を自由にし、力づけることを意図するのか、あるいは独裁者のエージェントで、人々が抑圧され、無知なままでい続けることを目的とするのか。

もし後者を選んだのであれば、どのような手段を取っても、服従という鎖を傷つけずに、人々が抑圧されたままにしておかなければなりません。

しかし、もし前者を選んだのであれば、どのような手段を取っても、服従という鎖を打ち壊し、人々を教育している私たちに参加するということになります。

戦争マシーンは、あなたが無分別に服従という卑劣な鎖に従うのか、あるいは、服従の鎖の行為は非道徳的だと感じる時に、それに不服従する勇気を持つのかによって、始動、あるいは終了します。

簡単なことではないでしょう。そう、あなたがこれからも行うことの中では最も難しいことで、そのために「悪口や不名誉」に直面することになるかもしれません。

しかし、これがこの不道徳的な世界で、道徳的なエージェントになるために支払わなければならない代償である場合もあります。

自由のために支払う代償です。

そして最後に、もしこれでもあなたがまだ、こんなことは無駄なことでおそらく、何も変化を起こすことなどできないと思う場合には、トーマス・エジソンの次の言葉について考えてみてください。

「あらゆる可能性を使い果たした時に、このことを思い出してください。

可能性はまだ、使い果たしてなどいないということを」 

 

タイスの瞑想曲 :マスネ / Meditation de Thais :Jules Massenet

https://youtu.be/_Mk0WghLyD8

 

バッハ G線上のアリア J.S Bach BWV1068 Air on the G String

https://youtu.be/PmOaS79DD9s

 

Shaylee - Auld lang syne (English lyrics) - 蛍の光

https://youtu.be/qHCXDuzNwFQ

 

蛍の光 =  hotaru no hikari

https://youtu.be/zzcWPu7dxSw

 

松竹映画 「 二十四の瞳 」 仰げば尊し= Japanese Graduation song.

https://youtu.be/fzYUBIdDb4I

 

仰げば尊し(from The Queen's Classroom) = Japanese Graduation song.

https://youtu.be/AcziZt_Q0pI

 

アニーローリー = annie laurie

https://youtu.be/ReEFnmmd12I

 

The Water Is Wide(Traditional)with lyrics-Karla Bonoff

https://youtu.be/7EfHZtCKJGY

 

MV Hotaru no Haka Grave of the Fireflies 火垂るの墓

https://youtu.be/BI4Mrb0Q0KY

 

Home Sweet Home ~ performed by Erutan ( katethegreat19 )

https://youtu.be/qxwDs0foZqw

 

「おぼろ月夜」「埴生の宿 Home Sweet Home」映画ビルマの竪琴より

https://youtu.be/zEUkxR0QtIA

 

Bobby Vinton - Mr. Lonely

https://youtu.be/91kTmWi9Rt0

 

FLY ME TO THE MOON訳詞付) ナット・キング・コール

https://youtu.be/dYj1W4fdAuc

 

"Too Young" Nat King Cole

https://youtu.be/KaFtsqU2V6U

 

Stand By Me • Ben E. King [HD]

https://youtu.be/pHa4pvspCqc

 

クラシック名曲 グリーグ 『朝』 Grieg- Morning .wmv

https://youtu.be/hUDf2EJH__8

 

スメタナ わが祖国 (モルダウ)Smetana ~ Moldau

https://youtu.be/no3NerGL_NI

 

チリの首都サンティアゴ・デ・チレで黙示録的な空 

チリはCERNとつながっています。
この異様な空はCERNと関係していると予想します。

http://1tamachan.blog31.fc2.com/blog-entry-12821.html

amazing Norway Cloud Spiral, Mysterious Lights In The Sky!!!!!!!!!!!!

https://youtu.be/q3sC95Xv5Is

 

人間がある日突然まったく居なくなった地球のその後を描いた興味深い映画です。

やはり原子力発電所のその後が…

AFTERMATH Population Zero Full

https://youtu.be/sUqHECc5rPo

 


美しき日本の残像ーライデン編

2015年06月23日 | 旅行

とある5月の週末のある日”JAPAN MARKT”が開催されているそんなオランダはライデン市のシーボルトハウスがある通りへ出かけてみた。
ライデン大学法学部校舎から歩いて5分足らず、シーボルトハウスがある運河沿いのラーペンブルフ通りを埋め尽くす露店と来客でごった返す中を歩いた。

その翌週末、こんどはデュッセルドルフへ立ち寄ったらそこでは”JAPAN-TAG”の町を上げての日本文化のお祭りが祝われていた。

ライデンとデユッセルドルフ両方の町で特に目を引いたのはいたるところまったく当たり前のように連れ歩いている若い人たちの好き勝手な ”コスプレイ”衣装の姿だった。
たしかあれは、え~とアニメの中の○×△□キャラだったかな?
これって日本文化だったかな?
それとも後天的異常日本文化=あだ花なんだろうか?
どうしても誇れる日本の文化文物ではない。
複雑な思いである。

百聞は一見にしかず! まあ投稿した写真をご覧ください。フォトチャンネルの ” 美しき日本の残像ーライデン編 ” です。


「逝きし世の面影」/もう滅びた文明

2015年06月13日 | たわごと

 

誰が日本を見捨てたのか。逝きし世の面影

https://1000ya.isis.ne.jp/1203.html

本文から:

何が日本を見殺しにしたのか。
ここに描かれているのは、一つの文明である。
その文明は、もう滅びたものなのだ。
では、われわれはその文明をどのように見ればいいのか。
そうなのだ、新たに遭遇する異色の光景と社会として、
ここに接するべきなのだ。 

では、以下はちょっとした感想だ。
 いったい「見捨てる」とか「見殺す」とはどういうことなのだろうか。そのことを問うてみたい。価値がわかっていて見捨て、必要を感じていながら見殺すことが、見捨てることで、見殺すことであるとするのなら、欧米列強は、アジアを見捨て、日本を見殺したのである。
 カール・ポランニー(151夜)が、欧米社会から自立した市場システムは、欧米社会に矛盾を激化させるよりなお速く、むしろアジアの後進国を見殺しにするだろうと予測し、イヴァン・イリイチ(436夜)が「資本の本性」と「利潤の自由」という観念の実行こそ、どんなヴァナキュラー(辺境的)な地域をも変質させ、見捨てることになるだろうと分析したことは、「逝きし面影」の放棄をとっくの昔にみずから選択して体験せざるをえなかった日本の近代史からすると、その主張さえ遅きに失したというべきなのである。
 しかし、実は、日本を見捨て、日本を見殺しにしたのは日本人であったのだ。イリイチは「資本市場主義のプラグをさっさと抜きなさい」と言ったけれど、かつて日本はそのプラグを入れることすらしていなかったのだ。が、いまさらプラグを入れたことを、そまプラグを抜きがたくなったことを憂いてもしょうがない。そのうえで、日本人は何もかもを見て見ないふりをして、いまなお日本を見捨て、日本を見殺しにしつづける。問題は、ただひたすら、そのことにある。
 こういうときは、もはや欧米を詰(なじ)ってもムダである。たとえば文化人類学が「異文化を自国の文化コードで読み解いてはならない」と言っているじゃないかなどと、その程度のことを知識人が言い出したところで、なんの力もない。

 では、どうすればいいのか。渡辺京二が本書を上梓したのち、ジャーナリストや書評家たちから、「あれはただ、昔の日本はよかったと書いただけじゃないか」と批評されたとき、静かに反論した文章がある。いまは『荒野に立つ虹』(葦書房)に収録されている。
…。 

 そのためには、いったん、日本の歴史が「近代」のところで極端に分断されたことを、もう少し知ったほうがいい。いやいや、海外の滞在者による記録だけを読めばいいというわけではない。渡辺も、本書ではその案内作業にみごとに徹したが、ほかのところでは、西郷を北一輝を、吉本隆明や谷川雁を、ポストモダン思想の全般を相手に、つねに格闘してきた。

 

27・江戸時代とあいさつ  / 渡辺京二 『逝きし世の面影』を読む。

http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/omokage26.html

本文から:「無償の善意」

 何度も思うことだが、こんな日本の国は、一体、どこに行ってしまったのだろうか? 滅

び行く文明の宿命として、滅んでしまったとしか言いようがないものだ。

 現代では、これだけを取り出してしまうと、「やっぱり、あいさつは人間関係の基本だ」

という人たちが、政治にも、学校にも、たくさん出てくるに違いない。それでは、そこら辺の

「朝起き会」の人たちの考え方と同じになってしまう。

 一度だけ、アパートの大家さんが地区の「朝起き会」の会長みたいな人で、入りませんかと

部屋まで上がりこまれて、勧誘されたことがある。僕は、丁重にお断りした。

 現代では、「あいさつをする、しない」は、「無償の善意」の問題ではなく、「倫理」の強

制の問題に転化されてしまう。「善意」の言い方の裏に、「こんなにいいことなのに、どう

してあなたはしないのだ」という暗黙の圧力が潜んでいて、とても窮屈だ。

 つぶやき:

上述の(無償の善意)と比較するとなんとも善意の強制的にしか見えないことだが、愚輩がまだ小学生の頃、地元出身のさるお偉い方が提唱した「小さな親切運動」という社会的な運動が日本中にそしてわが小学校にも鳴り物入りでやって来た。偉い校長先生や教頭先生が声を大にして身振り手振りをまじえてその「小さな親切運動」を盛り上げ推進しようとしていたことを覚えている。

見方によっては、そういうやり方でしかかつてわれわれのご先祖が自然に生活の中で体現できていた『逝きし世の面影』にも触れられない社会になってしまっていたということだ。失われてしまったいや「見捨てる」とか「見殺す」されてもう滅んでしまった文明ということなのだろう。哀しいものだ。

 

 渡辺京二 『逝きし世の面影』を読む。日本近代素描 渡辺京二・著  葦書房  1998年刊

http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/omokagehyousi.html

 

   

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yukishiyo.html

  この本の内容をひとくちに言えば、「幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿」と言うことができます。しかし、それは単に近代化される前の遅れた社会に見られる素朴さということではなく、世界的にも著しく文化の発達した国家、国民が作り上げた希有な文明と呼ぶべきものなのです。俗に「江戸文明」または「徳川文明」と呼ばれている当時の日本の社会が、いかに世界の目から見て異質のものであり、また汚れのない美しいものであったかが忍ばれる内容となっています。
  その文明は、明治維新後の西欧化の荒波によって、いまや完全に崩壊させられ、まさに過去の幻影となってしまいましたが、私たちはこの国がかつて有していた素晴らしい社会の姿を胸に焼き付けておく必要があります。それは、この本にまとめられている多くの外国人の掛け値のない感想から十分にうかがい知ることができるはずです。
                                       (なわ・ふみひと)

 


 ある文明の幻影  [TOP]

  私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。
  日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振るった清算の上に建設されたことは、あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な含意もあわせて十分に自覚されているとはいえない。われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。
  実は、1回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。

  それはいつ死滅したのか。その余映は昭和前期においてさえまだかすかに認められたにせよ、明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは確実である。そして、それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。
  日本近代が前代の文明の滅亡の上にうち立てられたのだという事実を鋭く自覚していたのは、むしろ同時代の異邦人たちである。チェンバレンは1873年(明治6年)に来日し、1911年(明治44年)に最終的に日本を去った人だが、1905年に書いた『日本事物誌』第五版のための「序論」の中で、次のように述べている。

  著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった、そしてその代わりに若い日本の世の中になったと。

  これは単に、時代は移ったとか、日本は変わったとかいう意味ではない。彼は、ひとつの文明が死んだと言っているのだ。だからこそ彼は自著『日本事物誌』のことを、古き日本の「墓碑銘」と呼んだのである。

  日本における近代登山の開拓者ウェストン(1861~1940)も、1925年(大正14年)に出版した『知られざる日本を旅して』の中で次のように書いている。

  明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい。

  ウェストンの嘆きは景観の喪失にとどまるものではない。風景の中には人間がおり、その生活があった。「素朴で絵のように美しかった」のは、何よりもまず風景のうちに織りなされる生活の意匠であった。その意匠は永遠に滅んだのである。

  英国の商人クロウは1881年(明治14年)に木曽御嶽に登って「かつて人の手によって乱されたことのない天外の美に感銘を受けるとともに、将来いつか、鉄道が観光客を運び巨大なホテルが建つような変貌がこの地を襲うだろうことを思って嘆息した。
  クロウは木曽の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに夕暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子ども連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走っていく。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。
  子どもたちは自分と同じくらいの大きさの子を背負った女の子も含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づきあいのよさと幸せな様子」を見てクロウは感動した。これは明治14年のことである。
  チェンバレンやウェストンはむろん、古い日本の死滅をほぼ見届けた時点で上のように書いたのである。だが滅亡の予感は、実はそれより遙かに以前、幕末開国期にこの国を訪れた異邦人によっていち早く抱かれていた。
  たとえばハリス(1804~1878)が、1856年(安政3年)に下田玉泉寺のアメリカ領事館に「この帝国におけるこれまでで最初の領事旗」を掲げたその日の日記に、「厳粛な反省――変化の予兆――疑いもなく新しい時代が始まる。あえて問う。日本の真の幸福となるだろうか」としるしたのは、まさに予見的な例といってよかろう。
  彼は「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質の信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」せずにはおれなかったのである。

  ヒュースケンは有能な通訳として、ハリスに形影のごとくつき従った人であるが、1857年に次のように記した。

  いまや私がいとしさを覚え始めている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人びとの質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人びとが彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。

  ヒュースケンはこのとき、すでに1年2カ月の観察期間を持っていたのであるから、けっして単なる旅行者の安っぽい感傷を語ったわけではない。
  同様に長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケ(1816~1866)が1859年、帰国に当たって次のような感想を抱いたとき、彼はすでに2年余を長崎で過ごしていて、この国の生活については十分な知見を蓄えていたのである。

  私は心の中で、どうか一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希った。しかし同時に私はまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった。

  異邦人たちが予感し、やがて目撃し証言することになった古き日本の死は、個々の制度や文物や景観の消滅にとどまらぬ、ひとつの全体的関連としての有機的生命、すなわちひとつの個性をもった文明の滅亡であった。
  死んだのは文明であり、それが培った心性である。民族の特性は新たな文明の装いをつけて性懲りもなく再現するが、いったん死に絶えた心性はふたたび戻ってはこない。たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性とともに、永久に消え去ったのである。
  フランス人画家レガメ(1844~1907)の陳述を聞こう。レガメによれば、日本のほほえみは「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。そしてそれは金であがなわれるものではなく、無償で与えられるのである。

  英国の詩人エドウィン・アーノルド(1822~1904)が1899年(明治22年)に来日したとき、歓迎晩餐会でスピーチを行なった。アーノルドは日本を「地上で天国paradiseあるいは極楽lotuslandにもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べた。 

  1858年(安政5年)、日英修好条約を締結するために来日したエルギン卿使節団の一員で、フリゲート艦の艦長だったオズボーンと、エルギンの個人秘書だったオリファントは、日本をバラ色に描いている。。
  オズボーンは最初の寄港地長崎の印象をこう述べている。

  この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)、男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった。

  オリファントもいう。

  個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である。

  オリファントの場合、熱狂は既に長崎で始まっていた。今つぎつぎと展開しつつあるこんなすばらしいプログラムを、上海を出発するときには予想だにしていなかったと言いつつ、彼は次のように話す。

  われわれの最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。シナとの対照が極めて著しく、文明が高度にある証拠が実に予想外だったし、われわれの訪問の情況がまったく新奇と興味に満ちていたので、彼らのひきおこした興奮と感激との前にわれわれはただ呆然としていた。この愉快きわまる国の思い出を曇らせるいやな連想はまったくない。来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた。

  それまでセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国など異国についてのゆたかな見聞をもち、そのいくつかについては旅行記もものしてきたこの29歳の英国人が、快いくるめきに似た感動をたっぷりと味わっていることだけはよく伝わってくる。
  彼は日本において、前もって与えられていた予想をただ再強化したのではない。日本の事物は彼にとって「予想外」だったのである。彼は日本訪問を終えたのちに書いた母親への手紙で、「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」と述べるほどの日本びいきになっていた。

  あの『ヤング・ジャパン』の著者であるブラック(1826~1880)は「思うに、他の国々を訪問したあとで、日本に到着する旅行者達が、一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは、乞食がいないことだ」と断言している。

 陽気な人びと  [TOP]

  19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、「この国民はたしかに満足しており幸福である」という印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコックでさえ、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福できさくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第2回遠征のさい下田に立ち寄り、「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの4年後に下田を訪れたオズボーンには、町を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうでありうるよりも、幸せで禍から解放されている」ように見えた。
  ティリーは1858年からロシア艦隊に勤務し、1859年、その一員として訪日した英国人であるが、函館での印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」という。
  1860年、通商条約締結のため来日したプロシアのオイレンブルク使節団は、その遠征報告書の中でこう述べている。
  「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいのかもしれない」。
  1871年(明治4年)に来朝したオーストリアの長老外交官ヒューブナー(1811~1892)はいう。
  「封建的制度一般、つまり日本を現在まで支配してきた機構について何といわれようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち、ヨーロッパ人が到着した時からごく最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである」。

  オズボーンは江戸上陸当日、「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして出会わなかった」というが、これはほとんどの欧米人観察者の眼にとまった当時の人びとの特徴だった。ボーヴォワルはいう。「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」。
  「日本人ほど愉快になり易い人種はほとんどあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである」というのはリンダウ(1830~1910)だ。
  オイレンブルク使節団報告書の著者ベルクの見るところも変わらない。「彼らは、話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」。
  1876年(明治9年)来日し、工部大学校の教師をつとめた英国人ディクソン(1854~1928)は、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べる。
  「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきやっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」。むろん日本人の生活に悲しみや惨めさが存在しないはずはない。「それでも、人びとの愛想のいい物腰ほど、外国人の心を打ち魅了するものはないという事実は残るのである」。
  ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム、中国と歴訪していたのだが、「日本はこの旅行全体を通じ、歩き回った国の中で一番素晴らしい」と感じた。その素晴らしい日本の中でも、「本当の見物」は美術でも演劇でも自然でもなく、「時々刻々の光景、驚くべき奇妙な風習をもつ一民族と接触することとなった最初の数日間の、街や田園の光景」だと彼は思った。「この鳥籠の町のさえずりの中でふざけている道化者の民衆の調子のよさ、活気、軽妙さ、これは一体何であろう」と、彼は嘆声をあげている。彼にとって真の見物は、この調子のいい民衆だったのである。
  水田の中で魚を追っている村の小娘たちは、自分と背丈とあまり変わらぬ弟を背負って、異国人に「オハイオ」と陽気に声をかけてくる。彼を感動させたのは、「例のオハイオやほほえみ」「家族とお茶を飲むように戸口ごとに引きとめる招待や花の贈り物」だった。
  「住民すべての丁重さと愛想のよさ」は筆舌に尽くしがたく、たしかに日本人は「地球上最も礼儀正しい民族」だと思わないわけにはいかない。日本人は「いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼にみちた民族」なのだ。

  リンダウも長崎近郊の農村での経験をこう述べている。
  「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。‥‥もっとも大胆な者は私の服の生地を手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出していくこともあった。いくつかの金属製のボタンを与えると、『大変ありがとう』と、皆揃って何度も繰り返しお礼を言う。そしてひざまずいて、可愛い頭を下げて優しく頬笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。私が遠ざかって行くと、道のはずれまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、『さよなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった」。

 
 


日本人と縄文体質
渡辺京二『逝きし日の面影』 第十二章 生類とコスモスより引用
***
(p488
さて馬はといえば、日本の馬は欧米人たちの間では、癖が悪いので有名だった。パンペリーはこれは北海道の馬についてだが、「去勢されていない牡であるため、彼らの劣悪な性質は普通はっきりとあらわれる」と言う。
何が劣悪かというと、乗り手を放り出すのである。彼はこの馬たちのことを「始末に負えない獣」と呼んでいる。

オイレンブルク一行も日本の馬には悩まされた。ベルクは言う。
「馬は小さく体格が悪く、かけ足やギャロップは多くやるが、速歩はいやいやながらかろうじてする。
しかし、けわしい斜面の道や多くの階段は至る所にあるので、駆け上ることには非常に長じている。騎乗するのは牡馬のみであるが、常に注意深くしていなければならない。なぜなら、ほとんどすべての馬は咬みつく癖があり、またたがいに歯や蹄で喧嘩し合うからである」。

***
(p496
‥バードの見るところは全く違っていた。

「馬の性質が悪くなるのは、調教のときに苛めたり、乱暴に取り扱うからだと以前は考えていたが、これは日本の馬の性悪さの説明にはならない。

というのは、人びとは馬を大変こわがっていて、うやうやしく扱う。馬は打たれたり蹴られたりしないし、なだめるような声で話しかけられる。概して馬のほうが主人よりよい暮らしをしている。おそらくこれが馬の悪癖の秘密なのだ」。要するに彼女は、日本の馬はあまやかされて増長していると言いたいのだ。

「馬に荷物をのせすぎたり、虐待するのを見たことがない。……荒々しい声でおどされることもない。馬が死ぬとりっぱに葬られ、その墓の上に墓石が置かれる」。馬は家族の一員であったのだ。彼女は馬子たちがけわしい道にかかると、自分の馬に励ましの言葉をずっとかけどおしなのに気づいていた。

***
(p497
日本人は牡馬を去勢する技術を知らなかった。知らぬというより、そうしようとしなかったというべきか。

古き日本にも駅逓の制があり牧の制があって、馬を集団的に統御する必要がなかったわけではない。それなのに、去勢をはじめとする統御の技法がほとんど開発されなかったのには、なにか理由がなくてはならぬ。

それはやはり彼らが、馬を自分たちの友あるいは仲間と認め、人間の仲間に対してもそうであったように、彼らが欲しないことを己れの利便のために強制するのをきらったからであろう。

バードは馬に馬勒をつけさせようとして、人びとの強い抵抗に出会った。彼らは「どんな馬だって、食べるときと噛みつくとき以外は口を決して開けませんよ」と言って、馬勒をつけるのは不可能だと主張した。バードが「ハミを馬の歯にぴったり押しつけると、馬は自分から口を開けるものだ」と説明し、実際にそうやって見せて、彼らはやっと納得したのである。

つまり当時馬を飼っていた農村の日本人は、ハミをかませるなどというのは馬の本性に反することで、本性に反することは強制できないと考えていたことになる。

去勢などは、馬の本性すなわち自然にもっとも反することであったろう。彼らは馬に人間のため役立ってほしいと思っていたに違いないが、さりとて、そのために馬に何をしてもいいとは考えていなかった。彼らは馬にも幸せであってほしかったのだ。人間の利益と馬の幸福の調和点が、外国人から見ればいちじるしく不完全な、日本的な馬の扱いとなって表われたのである。
***
(引用以上)

 


日本人と縄文体質
渡辺京二『逝きし日の面影』 第十二章 生類とコスモスより引用
***
(p500)
「どの村にも鶏はたくさんいるが、食用のためにはいくらお金を出しても売ろうとはしない。だが、卵を生ませるために飼うというのであれば、喜んで手放す」。彼女がこう書いたのは久保田でのことだったが、北海道の旧室蘭でも彼女はおなじ経験を重ねた。「伊藤は私の夕食用に鶏一羽を買って来た。

ところが一時間後に彼がそれを締め殺そうとしたとき、持主の女がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来て、自分がその鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、と言うのだった。」その鶏は、卵を生むことで一家に貢献し続けてくれた彼女の家族だったのだ。

***
(p503
~505)
徳川期の日本人にとっても、動物はたしかに分別のない畜生だった。
しかし同時に、彼らは自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は獣よりたしかに上の存在だろうけれど、キリスト教的秩序観の場合のように、それと質的に断絶してはいなかった。草木国土悉皆成仏という言葉があらわすように、人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間だったのである。

宣教師ブラウンは1863(文久三)年、彼を訪ねてきた日本人とともに漢訳の『創世記』を読んだが、その日本人は、人間は神の最高の目的たる被造物であるというくだりに来ると、「なんとしとことだ、人間が地上の木や動物、その他あるゆるものよりすぐれたものであるとは」と叫んだとのことである。

彼らは、人間を特別に崇高視したり尊重したりすることを知らなかった。つまり彼らにとって、"ヒューマニズム"はまだ発見されていなかった。
(中略)

なるほど日本人は普遍的ヒューマニズムを知らなかった。人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ一人一人にかけがえのない価値があり、したがってひとりの悲惨も見過されてはならぬという、キリスト教的博愛を知らなかった。

だがそれは同時に、この世の万物のうち人間がひとり神から嘉されているという、まことに特殊な人間至上観を知らぬということを意味した。彼らの世界観では、なるほど人間はそれに様がつくほど尊いものではあるが、この世界における在りかたという点では、鳥や獣とかけ隔たった特権的地位をもつものではなかった。

鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間もおなじことだった。世界内にあるということはよろこびとともに受苦を意味した。人間はその受苦を免れる特権を神から授けられてはいなかった。ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩り立てることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった。
***
(引用以上)

 

28・女性・蒸気船・出産

一八七五(明治八)年、フランス海軍士官デュバールは大阪から伏見まで船に乗った。小型のスティームボートで機関の具合が悪いらしく、そのうち船体が真っぷたつに折れそうなすさまじい音が続いた。最後に大音響がとどろき、船体はぞっとするほど揺れたが、その拍子に故障が直ったらしく、あとは順調に船は進んだ。「この騒ぎのあいだ、私は同行者たちの様子をずっと観察していた。とくにご婦人や 娘さんの表情には注意を怠らなかったが、彼女らは眉ひとつ動かさなかった。フランスの女性ならこんなとき、現実、非現実を問わ、どんなに些細な危険にも、かならず不快で有害な金切り声を上げるものだが、同乗した日本女性の小さな口からは、ついに一言もそのの声は洩れなかった」。

デュバールはさらにこんな話も追加している。彼は政府高官の屋敷に招かれて、その夜そこに泊った。隣室は夫人の部屋だったが、夜中その部屋で何人かの足音や話し声がした。翌朝デュバールは、主人から「昨夜はお耳触りでしたでしょう。家内が男の子を産んだのです」と聞かされた。「足音や小声はたしかに聞えましたが、つらそうなお声のようなものには、まったく気づきませんでした」と答えながら、彼は信じられぬ気分だった。夫人に会ってその勇気を賞讃すると、彼女は言下に答えた。「このようなときに声を立てる女はバカです」。われわれはむろん、そのようなときに声を立てる女がバカでも何でもないことを認めるべきだろう。しかしこの自制と沈着には、やはり人の胸を打つものがあったのである。  

なぜ日本は「変」に? それを知るには150年前の日本を見てみるか、あるいは、シュタイナーの「唯物論に破壊される世界」という100年前の言葉を思い出してみるか

 http://oka-jp.seesaa.net/article/420442433.html

どんなに愛される資格があるのかを私たちは知らない


忠車626の軌跡 3/3

2015年06月04日 | 旅行

忠車626の軌跡 3/3 最終回 をフォトチャンネルへ投稿しました。

相変わらずアッチこっちへ面脈なく訪ね見て聞いて体験して、そして静かに佇んでもの思いにふけったりと。

主に仕事の合間まとまった休みの取れる7~8月ごろの夏休みを利用した2007~2014年にした旅の風景写真です。

やはりドイツとポーランドの写真が多くなっています。

忠車626はごく稀に体調を崩すことはあってもいつもはタフで快調そのもの満22歳と高齢ではありますがとっても頼りがいのある良いやつです。

老いてなおかくしゃくとしてこれからもその積算計の数字がさらに積み重なっていくことでしょう。