navikuma のブログ 陽炎のようにゆらめく景色のなかを走行中です。

ユーラシア大陸の端っこからのたわごとです。

遥かなるバルカンの空の下へ-11

2008年04月22日 | 日記
マケドニアへ向かうアウトバーン沿いには紅茶けた瓦屋根の家が20~40軒ほどの集落が点在している。
平地ばかりでなくなだらかなに連なる丘陵の斜面にもそういう集落が散らばっている。

背の高い枯れた夏草のあいだから白壁とその上に紅茶けたと言うよりむしろ茹で上がったロブスター色とでもいえるようなあかるい紅色の屋根がいくつも見える。
強烈な陽光の下ではアングルによっては金目鯛ぐらいの鮮やかな紅色に見える家もある。
紅茶けた瓦屋根の家並みはこのバルカン半島ではあちこちで見ることができる。

アウトバーンM1=E75からニシュでE80へ乗り換えるルートはピニン山脈の深い山峡をぬってお隣ブルガリアは首都ソフィアへ抜けていくルートでもある。
そのニシュのサインがでてまもなく真新しい濃いブルーの大きな標識板が青空をバックに設置されているのが見えた。

サービスエリアのサインである。

そう云えば天気がよくなってきたら途端にお腹が空いてきた。*(いっぷく)*
標識板の表示にナイフとフォークがクロスしたアイコンがあるのを確かめてそのサービスエリアへ立ち寄ることにした。
ガソリンスタンドの脇を通り過ぎてそしてその敷地内にあるレストランへまっすぐに乗りつけた。

目指す建物の屋根に掲げられた看板には○○レストランと表示されている。
まるで平屋根の温室のように見える3面総ガラス張りの建物である。

開け放たれた出入り口からイスラム音楽っぽい音曲が洩れている。
外から見ると客の入りは6割ぐらいである。
あまり混んでいないほうが好ましい。*(ウインク)*

走っているときは開けた窓から風が入ってくるからそれほど暑くはないが一旦停まるともう大変である。
車から外に出てもアスファルト地面からの照りかえしと並んで駐車している車から発散される熱気,そして頭上から降り注ぐ強い陽光で一瞬めまいがするほどの暑苦しさをおぼえる。*(晴れ)**(汗)**(怒り)*

出発してからずっと上着を羽織らなければ鳥肌が立つくらいの天候が続いていたのにさっきやっと晴れ間がのぞいたと思ったらもう汗ばむほどの暑さになっている。
急に切り替わった天候に服装もまた体のほうも調整ができていないのだ。
ポロシャツは問題ないとしても長ズボン姿では暑苦しい実際まことに暑いことこの上ない。
早く典型的な夏のホリデー客姿である半ズボンにサンダル履きになりたいのだが。*(椰子)**(ニヤ)*

もしやと期待半分あきらめ半分でレストランの中へ入った。
ラッキーであった。屋内はエアコンが効いていて快適である。*(結晶)**(グッド)*
スピーカーからなるべく遠い場所に座りたかったので出入り口の近くのテーブルに着いた。

席に着くのを待って妙年のウエイトレス嬢がにこやかにメニューを持ってきてくれた。
キリル文字表記だけのお品書きである。
まったく判らない。

さっと廻りのテーブルを観まわして他のテーブルで食べている人のお皿の中からいけそうなものを指差し“あれと同じものを”注文した。
今日の昼飯はチキンソテーとフレンチフライ添えにトマトサラダである。
残念ながらコーラ・ライトが無かったので普通のコーラをもらうことにした。

このレストランでの昼食,お相伴は向かいの椅子の上で眠りこけている白毛の小ねこちゃんであった。
入って来たときには”ここはおいらの予約席だぜ。”と云うような感じでそこに陣取っていた。
すこしやせているがまだ若そうな小ねこはイスラム音楽もまじったレストランの喧騒も子守唄のように聞こえるのかとても気持ちよさそうに眠っていた。*(ジロ)*

その安眠は料理が運ばれてきた時に終わった。
ウエイトレス嬢はその子ねこを外へ追い払らってしまったのだ。

しかしこの小ねこなかなかのしたたか者であった。
しばらく外でほとぼりを冷まし頃合を見計らっていつの間にか戻ってきていた。
今度は見つけられにくい午睡の場所を選んだ。
私が食事をしている同じテーブルの左横奥のいすである。
そしてもともとずっと前からそこにいたような安らぎそのものと思えるような寝顔で眠りなおしをはじめた。

そのすやすやと寝入る小ねこは今この国の平和と安寧を象徴しているかのように見えた。
かの左甚五郎作の眠り猫にも優るとも劣らずの態であった。

エアコンの効いたガラス張りで温室のような造りのレストランで小ねこに癒やされて昼食を終えた。
お会計は625ディナール=9ユーロであった。

そのサービスエリアを後にし再びアウトバーンを走り出した。
暑さを和らげるために窓を開けて走るのでけっこう風きり音がうるさい。
風きり音があまりひどくならない程度の110~120km/hぐらいのスピードで走る。*(地球)**(車)*

そんな昼下がりのまっすぐなアウトバーンを走行中約200mぐらい前方を貨物トレーラートラック2台が連なって走行しているのが見えた。

ついさっき食べたばかりで血液の本流はお腹のほうへ向かっている頃だ。
平坦で変化に乏しい地形を走る単調なアウトバーン走行は当然眠気を催してくる。

やや緊張が緩んで来ていたときである。
突然まわりの空気全体が炸裂したようなすざましい爆発音と衝撃波が襲ってきた。*(爆弾)**(ダッシュ)*

車体がビリビリと鼓動を繰り返し頭のてっぺんから腹部を貫通しお尻と太もも辺りからシートのクッションへ突き抜けていくような暴力的で強烈な破壊力をもった衝撃波に見舞われた。
走行しているまわりの景色さえもその衝撃波のエネルギーによる波紋でゆがんで見えた。

それから数秒間ののちもその衝撃波の余波にくり返し洗われた。
いったい何が起きたのか?
前方から迫ってくる光景がそれを映し出していた。*(驚き)**(はてな)*

やっとよい天気になりました

2008年04月21日 | 日記
今日は朝からよく晴れて風も弱くとても穏やかでよい天気に恵まれました。*(晴れ)**(ニヤ)*
日中の気温は19度ぐらいまで上りました。
と言うことは今年に入ってベストの天気かな。
隣近所では庭の手入れをする人たちが多かったですね。
と言うことでいつになく子供たちの歓声も一日中聞こえていました。*(ウインク)*
*(音符)*このままよい天気が続けば,まだ寂しい木々の枝枝に若葉がいっきに萌えあがってくるのでしょうか。
やっとあかるい暖かな春がやって来たようです。
*(足)**(庭)**(うるうる)*

遥かなるバルカンの空の下へ-10

2008年04月15日 | 日記
ヴォイヴォディナ地方の穀倉地帯が延々と拡がる風景の中を走り続けていると少しずつ小降りになってきた。*(ウインク)*

最初の料金所をすぎてからまもなく“AERODROM BEOGRAD”の標識がでてきた。
その上に表記されているキリル文字のほうは読めないがこれなら何のことかわかる。
ベオグラード空港のことだ。
この空港をすぎればもうベオグラードの街並みへ入っていく。

今走っているアウトバーン(ここではアウトプットと呼ばれる)はM1=E70でベオグラード市街区域のほとんど真ん中を貫通している。
高架高速道路ではなくて市街道路としてである。
市街区域を通っているのでこの道路に交差や合流する道路もたくさんあるのでそのための信号機が設置された交差点もたくさんある。
この街を迂回するアウトバーンのルートは建設中でまだ開通してない。

ベオグラード,典型的なスラブ語系の呼称で呼ばれるセルビアの首都だ。
やはり同じスラブ系の国ロシアにもスターリングラード(今はヴォルゴグラード)がある。
人口は190万だからちょうど札幌市ぐらいだ。
今回は旅のルート上にあるがその先へ急ぐのでただ通過するだけ。*(ダッシュ)**(車)*

その市街道路アウトバーンは2~3車線道路でそこを走っていると黄色いボディの大型2輌連結定期運行バスによく出会う。
3年前にここを走ったときも遭遇したバスである。
そのボディ側面中央にはセルビア国旗と日の丸をクロスしたマークと英語でDonation from the people of Japanと書かれている。
それらは旧ユーゴ紛争後に日本政府が復興を援助するために寄付したというものだ。*(日本)*

信号待ちでそのバスの横に並んだときには日本人である自分にとっては誇らしいような照れくさいような気持ちになる。
バスの中から自分を見下ろす人たちの視線がやけに気になった。

いずれもつい最近の出来事だが,どういう理由や事情があるにせよその土地の人たちにとっては爆弾をたくさん落とされるより日常生活に必要で役に立つバスをたくさんもらった方がどんなにか嬉しいだろうと思う。*(グッド)**(うるうる)*

国際政治の世界ではどうであれ庶民にとってはこういう日々の生活に直接関わることの方が切実なことなのだ。
このような善意による無償援助はとても価値あるものだろう。
そういう善意をこういう形で受けたとくに次世代を担う子供や若者世代にとって彼らの人生のなかで決して忘れえぬ好ましい感情を醸し出すものだと信じる。*(ハート)*


サヴァ川の西岸は新市街区域で大きなビルが建ちならび某欧州ともちろん日本メーカーの新商品や某有名企業の真新しい超大型宣伝ポスターや看板があちこちに目立つ。
3年前に通ったときには1999年のユーゴ空爆で壊れたビルがこの道路沿いに幾つか残っていたけれど今はもう修復してしまったのか見られなくなった。
*(!?)*

ドナウ川へ合流するサヴァ川をまたぐ橋を渡ると新市街区域から旧市街区域に入る。
旧市街地を抜けやがて郊外にさしかかる頃からは雨が止んでいた。
欧州の風景は日本と違って都市部と郊外の境目が実にはっきりしている。
市街地から郊外に出ればそこはすぐに広い耕作地や丘陵地あるいは雑木林や森林になっていて一目瞭然である。
ここもその例に漏れない。*(学校)**(山)*

丘陵地帯をうねるようになぞって走る片側2車線のアウトバーンがすっかり乾いた白い路面になる頃,再び料金所をくぐった。
交通量はドイツのアウトバーンの1/10以下である。
そのかわり紫外線量はその10倍以上もあるように感じる。*(曇)*

水彩画のように軽やかで薄い絵の具で描かれたような雲空ではあるが,そのような柔な雲の層ではとても隠しきれないくらい真夏の太陽のぎらぎらした光線が漏れ落ちてきているような明るさである。
前を走っている車が米粒ぐらいになり白い路面がはるかかなたで地平線の向こうに吸い込まれていくところで薄曇色の空が拡がっている。
視界の3/4はその大きな空が占めている。

こんな状態でも日本人の黒い瞳はサングラスを必要としない。
以前持っていた幾つかのサングラスはほとんど人にあげてしまった。
それとサングラスをかけず間抜けな面をさらしていたほうが警戒されず怪しまれずに済むというものである。
なぜといえば東洋人顔に真っ黒なサングラスでは世界的に有名なYAKUZAあるいは中国マフィアそのものになってしまうからである。*(ジロ)*

それから戯言のようであるがこんなこともある。
欧州世界の人たちのその潜在意識の奥深くには東洋人=モンゴルの襲来悪夢の記憶(13世紀)が刷り込まれているようだ。
そういう傷を負った潜在意識(トラウマだな)が無意識のうちにコンプレックスの反動として東洋人に対して理不尽な優越意識を形成しているとも言える。
そういうことをこちらに人に言うとほとんどの人は否定するけどね。*(困る)*

そしてついに待ち焦がれた真夏の太陽が顔を見せた。
両側にトウモロコシ畑ばかりが続く平坦地、そして薄い色の青空に積乱雲と刷毛でさっと掃いた様な雲が入り乱れるようなぐあいに変わっていく。
圧倒的な太陽光線の洪水である。
風景全体が強烈な光でこれ以上は無いと思われるような超高解像度で目の前に拡がっている。
バルカンの旅はこういう太陽の光が満ち溢れていなければいけない。
これが来る前に思い描いていたイメージである。*(晴れ)**(晴れ)**(晴れ)*
これからがいよいよこの旅のメインステージに移っていくのだ。

遥かなるバルカンの空の下へ-9

2008年04月13日 | 日記
この旅3日目の朝は雨降りだった。*(雨)*

駐車場に残っている車の並びから抜け出し灰色の雨脚に包まれたその小さなホテルを後にした。
ダッシュボードに埋め込まれているデジタル時計は午前9時10分を表示していた。

ホテル以外には他にこれといった施設はない休憩エリアであった。
閑散としたただただだだっ広いアスファルト舗装のされた地面には夜通し降り続いている雨のせいであちこちに大きな水溜りが拡がっている。
幾つかの大きな水溜りをタイヤで押し分けながらゆっくり走り抜けた。

再び4号=E70アウトバーン本線への短い助走路を加速しながらから疾走車たちが巻き上げる雨けむりを追うように合流した。*(ダッシュ)**(車)*

暗く灰色っぽい雨雲に押しつぶされそうな低い空の端っこの方にひたすら突き進んでいくような感じだ。
単調にアウトバーンを120~130km/hのスピードを保ちながらそれほど多くはない車達の流れにのって走る。
ときおり水溜りにハンドルをとられながらもほとんどまっすぐで起伏の少ない所を走り続ける。*(雷)*

走り出してから1時間半ほどたった頃,道路標識でこの先2kmに国境があると表示が見えた。

速度標識に従って徐々にスピードを落としながら出国審査ゲートへ入っていく。
7つ並んでいるゲートのうち乗用車マークで緑色のサインのあるゲートが4つで残りは大型トラックとバス用である。
車列がいちばん短い右端から2列目をえらんでその最後尾へついた。
他のゲートもあまり大差はないのだがそれぞれ7~10台ぐらいの車列である。

あまり混んではいないようだ。
すぐに自分の番になった。
待ち時間も含めてわずか10分足らずで無事クロアチア出国審査を通過できた。

400mほど先にあるこんどはセルビアの入国審査ゲートへ向かう。
ここでも5~6台の車の後ろにつく。

ウインドウグラスの外に見えるゲートや国境管理施設の建物を眺めているとどうも何かが違うという感じがした。

ゲートの高み掲げられた標識に書かれている字形がまず違うのである。
大きなキリル文字表示になっているのだ。
これまではどこもラテン文字表示だった。
当然キリル文字はほとんど読めないのであるが,幸いにも道路標識はキリル文字表示のすぐ下にラテン文字表示がされているので行き先の判読に困ることはない。

いよいよバルカン半島でもセルビア正教徒が多く住む地域へ入っていくのだ。

前のセルビアナンバー(=SRBマーク)の中型車に乗った人の審査が終わり自分の順番になった。

窓口がちょうど横になるようにゆっくり移動しエンジンを止める。
係官のいる窓口は運転席の反対側つまり右側に車のちょうど屋根の高さぐらいのところにある。

助手席側の窓を全開にしてせいいっぱい右腕を伸ばし右側のゲート窓口にいるセルビアの入国係官にパスポート,車の登録証と保険証(グリーンカードと呼ばれる)それから運転免許証をまとめて手渡した。

グレーの制服を着た誠実そうな中年の係官だった。
その係官は座っているところの窓から車の中に他に誰かがいるか確かめるような感じの視線を投げてから,では...。といった感じに手渡した書類を見開いて手なれた動作であれこれチェックしている。

すこし待たされた。

どうなるのだろうか少し心配になった。
そんな心配をよそに“行っていいよ”という仕草をまじえつつその書類を一まとめに重ねて返してくれた。

ここもまたなんら問題なく無事通過できた。
きのう起きたオーストリア出国審査でのヴィニエッテ・トラブルのような問題は
ここではなかった。

ふうっ,何事もなくてよかったよかった。*(いっぷく)**(グッド)*

今までにいろんな国への出入りでもう何百回となく繰り返して体験していることだが,たとえ後ろめたいことがなくても(少なくとも自分ではそう思っている)毎回緊張するものだ。

どう言ったらよいのか,例えばむかしスパイ映画の一場面で偽造パスポートをもつ主人公が不法出入国をしようとしているようなそんなふうな緊張感が漂う。

むかしこんな事があった。

たしか仕事で行った先のハンブルグ空港で出国時のパスポートチェックで係官からお前のパスポートは期限切れではないのかと指摘を受けた。*(青ざめ)*

だがそのパスポート所有者本人がそのことにまったく気づいていなかったのだった。*(怒り)*

その場ではそういわれるのはまったく心外であるという振る舞いをした。
再発給の日付がほれこれこれだからまだ5年間の有効期限内であると言い張ってそこを通過した。

実際そう信じ込んでいていたから強かった。*(グー)**(汗)*


当たり前であるが帰り着いたスキポール空港では入国審査が待っていた。

ハンブルグでは事なきを得たが,改めて言われたことを考えれば考えるほど自信がなくなっていた。
心拍数が高まり極度の緊張をなんとか取り繕って臨んだ入国審査では幸いにもなんにも言われず入国スタンプをポンッと押してもらったけど。
ふうっ~~~~~~。*(いっぷく)*

後日あらためてその件をよく調べてみると確かに先月2月6日に期限が切れていることが判明した。
ハンブルグから帰ってきた日は3月5日だった。*(驚き)**(進入禁止)*

じつはその時もっていたパスポートはその時から遡って約2年半前に盗難に合って在オランダの日本大使館で再発給してもらったものだった。

再発給日からはまだ5年は経っていなかったがハンブルグ空港の係官さんがご指摘されたとおり元々の発給日からはとっくに失効していたのだった。
いやっ~~~~参った!

緊張しますね,いつも出入国時のパスポート審査は。
ですからよけいに!*(ニヤ)*

その事件の続きです。
真実は奇なりの続編です。
じつはそれからも厚かましくも空路と陸路それぞれ1回ずつこんどは蘭国とフランスを行き来していた。

だからそのパスポートには今でも合計6個のスタンプが期限切れ後の日付になって押されていますね。おぉっ~~~!
気合ですね!
若かったですからその頃は。
*(うるうる)*

さてと,両替をしなくては。

そういう類の緊張から解放されて気分も変わりまた見える景色も変わってくるものだ。
今日は罰金の出費はない(まだ)のでよけい気分がかるい。
一晩寝ただけでずい分気分が軽くなった。

クレジットカードではなくそのために持ってきた手持ちのユーロ現金をセルビア・ディナール=DINに両替したいのだ。

入国審査ゲートを抜けた右手に輸出入書類を代筆してくれる色気のない風体のボックス型の簡易事務所が12~13軒ぐらい軒を連ねて並んでいる。
その並びのいちばん端っこに小さな両替屋らしき看板が見えた。
その両替屋のすぐ先に駐車できる所を見つけ停めた。

それほどではないだろうと高をくくって傘をささずに車をおりてその両替屋まで歩いて着たらそれだけでずぶ濡れになってしまった。

不運にも2軒並んでいる両替屋は両方閉店中らしく入ろうとしたがドアに鍵がかかっていた。

昼にはまだ早いしいったいどうしたのだろう。
中は暗く誰もいない様子であった。

その辺をたまたま歩っていた人をつかまえてEXCHANGEはどこかと尋ねると“この簡易型事務所の裏の並びにもあったはずだが”というのでそっちの方へ行ってみた。
しばらく歩き回ったがそれらしきもの見つからなかった。
しずくが落ちるぐらいにさらにずぶ濡れになってしまった。

実はしばらく前から小用を足したくなって仕方がなかったがその近くにはそれらしき所はないようだった。

ついてないようだ。

両替ができないと困るのでそれからしばらくその辺りを行ったり来たりしていた。
するとどこからともなく小柄なおやじ風の人が現われてその閉店中であった一軒の両替屋を開けて両替してくれた。

セルビアは通過するだけであるから50ユーロ分だけあれば充分なはずである。

ここのセルビアの通貨ディナ-ルはこの国の外では両替してくれないそうだ。
だからこんな所で両替する人はあまりいなのだろうか。

アウトバーンの料金所やガソリンスタンドの支払いはすべてクレジットカードで済ますことができる。
多少無理強いすればユーロの現金だって使えるけれどやっぱり現地の通貨が手元にないと何かと不都合である。

そこから出てくるとき両替屋のおやじにトイレはどこかと聞いたら,言下に“そこにあるではないか !”言われた。

どこに?
きょろきょろ辺りを見回してみるとたしかにそれらしきところが真向かいにあるようだったがはっきりとは判らなかった。
看板はまったくないがこの並びと同じような風体のボックス型建物が2棟くっついているところである。

ちょうど四角い箱が2つくっついている真ん中が薄暗くなっていて,その薄暗い中で人が動いているようだった。

そこへ入っていくとおばちゃんが2人いて立ち話に夢中であった。
欧州域ではどこへ行ってもよくお目にかかるおトイレおばちゃんたちである。

“トイレットは?”
とただ一言訪ねると“そっちの方だよ”と後を振り返りながら教えてくれた。

セルビアのおばちゃんが取りしきるボックストイレで用足しをしてすっきりした。

出てきたらいきなりもう一人のおばちゃんから紙片を突きつけられた。

使用料35ディナール=44ユーロセントなり、ご立派な領収書であった。
その領収書には原価は29.66ディナールで付加価値税が18%で5.34ディナール計35ディナールであるとトイレ使用料金の内訳明細が記されていた。
まあ相場料金である。

緊張が解け出すものを出してすっきりしてでは先を急ぎ一路ベオグラードへ向かって再び走り出した。

オランダからはるか1700kmも走って南国へ来ているのにちっとも明るくならないしいまだ雨降りばかり続いている。
バルカンの太陽にまだ出会えないのだ。
どこまで行けば明るい太陽が拝めるのだろうか?*(晴れ)**(はてな)*

シェーンブルン宮殿の小鳥たちのこと

2008年04月06日 | 日記
きのう雨上がりの夕暮れ時,家の周りの木立から今春初めてナイチンゲールのさえずりが聞こえてきた。
姿は見えなかったけどあいかわらずけっこう優雅で澄んだ美声でした。*(うるうる)**(ハート)*

それで想いだしたのだけれど9年前にまだ小さな息子といっしょにポーランドへ行く途中,オ-ストリアの都ウイーンにあるシェーンブルン宮殿に立ち寄ったことがあった。
7月末の盛夏の頃で昼下がりのことでした。*(晴れ)*

ハプスプルグ帝国の夏の離宮としてマリア・テレジアが建てた優美なたたずまいの広大な庭園をもつ宮殿である。

まだ6歳のモーツアルトが転んだ時やはりまだ幼かったマリー・アントワネットに助け起こされた事があったところでもあり,傾国の美貌を誇った薄幸の后妃エリザベートがその美貌を保つために馬術や室内で器械体操に励んだ所でもある。
后妃の体型は晩年も170cm50kgウエストは50cmだったそうである。
*(驚き)*

さて話したいことはその宮殿の庭園にいる小鳥たちのことです。

宮殿の前に広がる緑濃いフランス式庭園のその先真向かいに小高い丘があってそこにグロリエッテと呼ばれるバロック調の見晴台が建てられている。
有料だがその屋上には天蓋がないカフエがあってそこから眺めるウイーンの街並みは抜けるような夏の青空が拡がる天気だったせいもあってパノラマ写真を眺めるような景観でした。

そこを降りてから丘の稜線づたいに左の方へだらだら降りていくと隣接する動物園(世界最古だそうで入り口にTIGERGARTENと表示されている)につながる小道がある。
その小道は良く手入れされた庭園の植え込みとはすこし違った趣のある背の低い雑木が密生している一帯をぬうようにして通っている。
ちょうど小鳥達が棲むには格別居心地が良さそうなところであった。*(クローバー)*

息子とその小道をぶらぶら歩いていくと名は知らぬ幾羽かの小鳥が追いかけっこをしているようにその雑木の間を飛び回っていた。

無邪気で可愛いやつらだなと思いながら立ち止まって右の手のひらを上に差し上げ”チッチッ”と鳴声をまねてやるとなんとその手のひらに餌でもあるのかと一羽が飛んできてとまった。
続いてべつのもう一羽もやってきた。

でも何もなかったのがわかってすぐに飛び去ってしまった。

何か食べ物はないかとズボンのポケットのなかをさがしてみた。
残念ながらなんにもなかった。

でもなんにも乗っていない手のひらをもう一度上に差し上げて何度か”チッチッチッ”とやるとまた小鳥がやってきた。
こんどは手のひらに止まるやつのほかに肩の上に止まるやつもあらわれた。

息子も真似をして一生けんめい”チッチッチッ”とやっていたが小鳥たちはいっこうにやってきてくれなかった。
”僕の所には来てくれない...”とほとんどべそをかきそうになっていた。*(眠い)*

そんな息子を励ましつつ”手にひらをもっと上に挙げてやればきっと来るよ。”としばらく待っていたら何とかやっと一羽が息子の手のひらに飛んできて止まった。

とたんに小鳥の小さな足につかまれる感触がこそば痒い所為か驚いてその手を引っ込めてしまった。
小鳥は驚いて飛び去ってしまった。

せっかく来てくれた小鳥が飛んでいってしまったのでがっかりしていた。

そのあとしばらくしてもう一度だけ一羽が飛んできて息子の小さな手のひらに止まってくれた。
こんどは顔をくしゃくしゃにしつつもこそば痒さを必死にがまんしつつまた嬉しそうだった。*(音符)**(ニヤ)*

息子にもまた自分にも予期せぬとっても新鮮な体験だった。
その日はそれから動物園へ行ったのだがとっても幸せな気分でいっぱいだった。
餌もないのに手のひらに止まってくれた小鳥たちに感動しまた感謝した。
*(ハート3つ)*
またそんな小鳥達が棲むシェーンブルン宮殿であるが,まるでおとぎ話の世界に迷い込んでしまったのではないかと思ったりもした。

とても他愛のない話ですが,あれからもときどきあの場面が新鮮に思い出されます。

*(ウインク)*