秋田県男鹿半島のナマハゲの郷

【真山神社】
秋田県男鹿市北浦間山水喰沢97
秋田県男鹿半島の山あいにあるナマハゲ館の近く。
夕陽のスポットや潟がある半島北部の真山に鎮座する。
御祭神
瓊瓊杵命(ニニギのミコト)
武甕槌命(タケミカズチのミコト)
天照大御神 豊受大神 豊玉姫神 少彦名神
大山咋神 大名持神 塞神三柱神



景行天皇の世(1700年前頃)、
男鹿半島まで下向した武内宿禰が、ニニギの命とタケミカヅチを祭ったのが始まりという。
景行天皇の頃というと、王子の日本武尊(ヤマトタケル)が東征していた時代。東北方面は天皇の忠臣・武内宿禰が下ったのだろうか、、🙆
その600年後の、神仏習合の時代に「光飯寺」というお寺になり、
明治時代の神仏分離で真山神社となった。
古~い由緒のある聖域だ。


神仏習合の時代に真山を開山した慈覚大師による手植え

樹齢1200年
薬師堂



真山頂上の奥宮までは一時間半の登山になるらしい、、
真山神社から、車で10分ほどのところにある【八望台】という夕陽スポットので有名な展望台に行ってみた。

八望台からの夕陽
男鹿半島からの雄大な景観✨
眼下にみえるのは世界的にも珍しい湖【一の目潟】、【二の目潟】、という火口湖(マール)
ナマハゲロードから近い。

ナマハゲの起源はロシア人説もあるが、蝙蝠が変じたとの説もある。
【赤神神社】
男鹿半島北側の真山神社から車で30分ちょっと

景勝ゴジラ岩のある男鹿半島の南端に鎮座する。
駐車場前、突き出た岬から望む日本海。


2200年前、秦の始皇帝が不老不死の仙薬を求めて東方に徐福を遣わせた。
日本各地に、徐福伝説は残るがここ秋田県男鹿半年にもあり、江戸時代まではこの近辺に徐福塚があったらしい。
駐車場より、結構きつめの999段の石段を登ると、忽然と五社が現れる。
五人の鬼が祭られているという。
お堂の中には観音像などが祀られている。

景行天皇の御世、漢の武帝が天からこの地に下ったとの伝承がある。
武帝は五色のコウモリを連れていたが、鬼になった。五人の鬼は山から出てきて里の娘を拐うので、
「一晩で1000段の階段を作ったら娘を差し出す、出来なかったら山からでてくるな」
と村人らに要求された。
一晩かけて鬼は階段を作ったが、後一段というところで村人が鶏の鳴き声の真似をして完成させずに終わらせた。
鬼は悔しがり山へ戻ったが、山から出て来なくなった鬼たちを、村人が年に一度だけ鬼(ナマハゲ)の真似をして懐かしんだという。
~ナマハゲ祭りの由緒 ~

娘と引き換えに鬼を使役して出し抜く、、
👀鬼は使役される逸話が多いです、、
宮崎県西都原古墳の「一晩で塚を築けたら娘を差し出す」と、大山津神は鬼に塚を作らせたが、一枚岩を抜き完成させなかったという逸話に似ている。

赤神は武帝で、津軽の神と十和田湖の姫を奪いあったとの伝承もあり、十和田湖の姫は赤神を哀れんだという。
赤神神社は、どこか物寂しい、、
鬼を偲ぶスポット。
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紀元前156〜87年、漢の武帝の時代
中国を初めて統一した秦を倒した劉邦が建国した『漢』は、その後の功臣への粛清などにより力を失っていった。
劉邦は北の遊牧民族の国、『匈奴』に敗れてしまい約半世紀近く匈奴の属国になってしまったが、第7代皇帝の武帝によって匈奴は打ち払われた。
この武帝の登場により漢は最盛期を迎える。
東は、朝鮮半島に侵攻し衛氏朝鮮を滅ぼした後、朝鮮半島南端までを支配下に置き
審藩郡を設置し狗邪国や対馬に迫り、中国が日本列島と接するまでに至った。
滅んだ衛氏朝鮮を除けば、この頃の東アジアはまだ高句麗、百済、新羅、和国などの大国はまだ建国されておらず、いくつかの部族が集まり小さな部族連合国を成している程度だった。
漢が最も日本列島に接近した時代だが、沿海州(ロシア)側から日本列島の東北地方へ中国人の渡来があったのだろう🤔
ちなみに、秋田県には「一の宮」とされる神社がない。(一の宮=そのエリアで一番の社格の神社のこと)
出羽国一の宮は山形県にある鳥海山大物忌神社で、山形県と秋田県が出羽国であった為、たまたま山形県側に一の宮があり秋田県には無いとのこと。
しかし、一説には
「秋田は異国の神の地として封じこまれている為、除外されている」との異聞もある🤔
「秋田美人」という言葉で知られる様に、秋田には日本人のモンゴロイドの特徴だけでなく、唯一白人のコーカソイドの特徴を残していると云われる所以だろうか、、
ここ男鹿半島に来ると、異国から来た人達、鬼と呼ばれた人達の残滓を微かに感じます。
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