独立王国『諏訪の国』
大和朝廷より古い歴史があり、尚且つ、朝廷が日本を統一した後も、同化しながらも独自性を保ち続けてきた諏訪。
その生きている古代史『諏訪』を代表する存在、建御名方と守矢氏。
今回は、その守矢氏(洩矢氏)と物部氏の関係について探ってみます。
(諏訪はホント凄い😳)
諏訪大社の神長を代々努めてきた洩矢氏は守矢氏と名乗りを変え、近代まで続いてきた。
明治時代になると宗教政策による神官の世襲禁止があり、祈祷殿も取壊されたりして神長二千年の秘伝は絶えたが、今は78代目を守矢早苗さんが継いでいる。
(長野県小野神社 サナギ)
守矢氏が、祭祀に使っていた鉄鐸(サナギ)という神具の起源は、天照大神の岩戸隠れの時に天探女が使ったという古代神具だ。
鉾の先に『鉄鐸』という鳴り物を付けて、上下に振って使う。
武田信玄から諏訪守矢氏にあてた祈祷の書状などから、神話の時代ではなく諏訪では歴史時代にも実際に使われていた神具であることが確認されているが、現代では鉄鐸は存在せず、神具の鳴り物といえば全国的に『鈴』🔔だ。
諏訪の考古学者藤森栄一さんは、
この鉄鐸の起源を『銅鐸』に求めた。
今回の投降では
鉄鐸の繋がりを『物部氏』に探ってみる。
前置き長くなりましたが、😅🙏興味のある方はご覧下さい。
1700年を綴る古代ミステリー✨
物部氏と守屋氏
(前置きだったんか🙄長い)
【諏訪大社ご神体『守屋山』と物部守屋】
守屋山は、前回は狩猟民族と比較して旧約聖書のモリヤ山との関係で綴ってみたが、
今回は、守屋山に残る「物部守屋」との関係について。守屋山という名も物部守屋が由縁との説もある。
実際、頂上の奥宮には守屋神社が祭られているので、そうなのかもしれない、、
それにしても何故、物部神社ではなく守屋がピンポイントなのか?
(守屋神社)
山麓にある守屋神社は扁額には『物部守屋神社』と書かれていいる。
物部守屋は物部氏の末に繋がる比較的新しい存在で、物部守屋率いる物部氏は飛鳥時代=6世紀末に崇仏派の蘇我氏と争い、丁未の乱という戦いにより聖徳太子・蘇我・大伴氏連合軍の前に敗れた。
これは、出雲の国譲りの時代(=弥生時代〜古墳時代) に諏訪入りしてきた建御名方や、諏訪先住部族の洩矢氏の時代と思われる1~3世紀よりも200~300年後の出来事だ。
丁未の乱の後、物部氏の残党が朝威がさほど届かぬ諏訪に落延びてきて、モリヤ山に守屋神社を祭ったのだろうか?しかし諏訪大社に祭られる建御名方との直接的な縁はみあたらない
そして、物部氏は守屋は祭らない。
※物部神社(ウマシマジ)
石上神社(布都御霊)
三輪神社(大物主)
したがって物部氏というより、物部氏の入婿だった渡来人・物部守屋の近親縁者が祭ったと思われる。
だとしても、モリヤ山という呼び名は以前からあり由縁が物部守屋によるとは考えにくい。
(守屋山頂 守屋神社奥宮)
諏訪大社の神長を代々努めてきた洩矢氏の伝承をまとめた『神長守矢氏系譜』によると、物部守屋が逃げてきてその子孫が諏訪大社の神長官を務めることになったという。
そして、物部守屋の子「武麿」は「森山(守屋山)」に隠れ住んでいて、守矢氏の養子になった。現在、守矢資料館の奥にある古墳が物部守屋の子・武麿のものであるとのこと。但し、「時代の合わぬ出土品は後から混入されたもの」とされている様で考証はなんだか、
時代ありきの印象を受ける・・(*_*;
そして、諏訪大社ご神体と云われる守屋山だが、元は『森山』と言い、物部守屋が祭られて「守屋山」と言う名称になったらしい。🤔
一方地域の伝承説では、
洩矢→守矢→守屋と展開し、山に矢を納め守ったので守矢といい、納めた場所を守屋と呼んだので、守屋山というらしい。
確かに奥宮には『矢』が備えられ、地域の氏子さん達には伝承が守られている様だ。
、、どちらが守屋山の語源かは別として、矢を納めたり、物部守屋の残党が逃れてきたりはあった出来事なのだろう🤔
(※ちなみに『森山』とは「御田の森」のことを言い、稲魂を授かる森であり稲作の始めと終わりに儀礼が行なわれる森の事だ。)
丁未の乱は、587年に起きた最大の決戦。表向きは「崇仏派の蘇我氏に対抗し仏教を国に取り込むのに反対した為に物部氏は誅殺された。」とされていて、今でもそれが枕詞の様に「神仏をめぐる宗教対立」として語り継がれている。
しかし、実際は物部氏にも「渋川寺」という仏教の私寺があり排仏は口実であり、新興勢力の蘇我氏が仏教を利用した権力構造を樹立しつつあった為、それに抵抗した「政治的対立」だった。
建造物といえば藁葺き屋根と巨大古墳しか無かった様なこの時代に、仏教寺院を持てた物部氏も相当力のある先進的な有力部族だったはずだが、仏教の主権争いは蘇我氏の後塵を拝していた。
丁未の乱の後、和国の新政権は物部氏との対立は「宗教対立」だったということにして、覇権を正当なものとして残したのが、今だに続いていると思われる。
(不思議なもので、日本の宗教政策史では宗教政策者がいなくなった後でも「宗教政策」はずっと残り続ける。天武天皇の宗教政策、明治の宗教政策しかり、古代において徴税・軍事・宗教政策の三点が国の根幹とされていたのも然るべきだろう)
【忌部氏から分かれた物部氏】
忌部氏は神具の金工職人を率いていて、中臣氏と共に王家の祭祀を司る古部族であり天照大神と共に天降ったとされる。
だが、やがて朝廷からの祭祀権は全て中臣氏に独占され忌部(斉部)成広を最後に忌部氏は衰退していった。
この忌部氏から枝分かれした支流が
物部一族だ。ざっくりと言えば、
天孫族は、
イザナミイザナギの子孫であり
天照大神(天氏)系の王子・ニギハヤヒ✨、
忌部氏は、
タカミムスヒの子孫であり
太玉命(忌部氏)系の姫・道主日姫❣️、
この二人が♥️割りと強引に結ばれた。
忌部氏はタカミムスヒの子孫「太玉の命」が始祖だ。
(フトゥダマ=布刀玉、布津御魂)
(布刀玉命 千葉県安房神社)
そしてこの二つの神統が合併した後、
ニギハヤヒは別の姫を娶り(長脛彦の妹・炊屋姫)その間に生まれた王子
ウマシマジが=石上・物部氏となった。
生まれる前にニギハヤヒがいなくなったので「生ましまじ」とも言うらしい。
その辺りの事情もあってか、物部氏の子孫はニギハヤヒでなくウマシマジを祭っていることも多い。
何れにしろ、明治時代の宗教政策により、アラハバキなど東日本に残っていた古い神々は全て「天御中主」や「国常立神」に置き換えられたり統合されたので、ニギハヤヒも埋もれてしまった感はある。
(寧ろ最も封印すべき存在だったのかもしれない🤔)
【金工という鍛冶職人】
前述のとおり、物部氏は直接忌部氏の血統から枝分かれした訳でなく「ニギハヤヒ」を接点にして生まれた部族だ。枝分かれしたのは血統ではなく、金工・鍛冶職人を率いる首長としての地位だ。
金工(かなたくみ=金・鉄の細工をする匠のこと。金作者)
【物】とは刃物のことであり、刃物を扱う部族である為「物部」という。
物(刃物)が並んでいる様を「ものものしい」
物(刃物)を使う夫を「もののふ」
物(刃物)の呪いで化けた「もののけ」と言うが、
物(刃物)の部族という意味どおり、
物部氏は兵器や戦いをもっばらとする軍事部族である。
神具や武具を作る鍛冶職人の集団は、祭政一致の時代は重要な存在であり、必ず王族には専属の製鉄部族がいた。皇祖である天孫族には、忌部氏がそれであり
忌部氏は祭祀で朝廷に仕えていた部族だが、神具の金工は忌部氏の天目一筒という神が鍛冶集団を率いた。
(三重県多度神社/一目連神社・天目一筒神その父『天津彦根命』が祭られる)
天孫族の『天照大神』の天の岩戸隠れの時に、天鈿女命が使った鉄鐸(サナギ)を作り、
出雲族の国譲り後に『大己貴命』を祭る際も、天目一筒神がタカミムスヒに命じられ神具の金工を担った。
伊勢・筑紫の忌部氏の祖と云われた鍛冶職人の『天目一箇神』は製鉄の国・播磨国で道主姫と結ばれたが、
道主姫は忌部氏の姫で、播磨国風土記では、天照国照彦火明命(ニギハヤヒ)が道主姫の夫とされているので即ち
『天目一箇神』=ニギハヤヒ である。
そしてニギハヤヒの子・ウマシマジの頃から
神具の金工職人らが忌部氏の所属から独立した
武器の鍛冶職人部族=物部氏(石上氏)となっていき
ニギハヤヒは物部氏の始祖となった。
天目一箇神は、鍛冶職人は火を見る為に片目をつぶり、又は失明する職業病があることから天の一つ目とも云われる。なので「天目一箇神」とは個人名ではなく鍛冶集団の首長をさした職名かと思われる。
そして、「筒」とは蛇のことでもあるらしく、蛇は出雲のトーテムで建御名方を象徴してるのでなるほど
『建御名方命=ニギハヤヒ説』までもある。
民族学者の谷川健一は(鍛冶職人氏族と思われる)「小野氏」を九州福岡から追ってきて、建御名方命勢が最初駐屯したという諏訪との境にある小野神社までたどり着いらしいが、小野神社では建御名方命を祭り、同じ境内にある弥彦神社ではニギハヤヒの子・天香久山命を祭っている。
天目一筒を役職名として、個人名をニギハヤヒとしても、ニギハヤヒは正式には
「天照国照彦 火明櫛玉 饒速日命」
とも言い、この長い名前は幾つかの人物が重ねあわされていると思われ、余計に分からなくなる😵💫。ご妻神も道主日命、炊屋姫だけでなく、
サヨリ姫(市杵島姫命)、瀬織津姫が坐される。
(ニギハヤヒさん難しいです😅ペンネームに使わせて頂いてますが🙏)
【藤の起源】
出雲の王子だった建御名方は、天孫族の武甕槌命に敗れ諏訪まで逃げて来たが、先住民の狩猟部族である洩矢氏に阻まれ両陣営は天竜川を挟み対峙した。両陣営は一騎討ちで決着をつけることになり、
建御名方は得物に『藤の蔓』を使い、
洩矢氏は『鉄の輪』を使い戦い、
藤の蔓を使った建御名方が勝利し諏訪入りして諏訪大祝に即位した。
両陣営は祭政合併して、建御名方命の嫡孫が諏訪大社の大祝(=大王)になり、
「洩矢(守矢)氏」は祭祀を司る神長となり代々祭祀を取り仕切り、洩矢氏側は建御名方と共に国土開発に協力した。
(天竜川を挟み、洩矢神を祭る洩矢神社と建御名方側の藤島神社が対岸に祭られている)
そして『藤』は建御名方を象徴するレガリアとなり、藤の蔓は蛇を表しているともいい諏訪では物忌みとなって人々に恐れられた。また富士山は「藤」が語源とも云われる。
何故?諏訪に既に鉄器があり、
そして鉄の武器が藤の蔓に負けたのか?
昔から、疑問視されている案件だ🤔
蔓は沖縄の祝女が頭に巻く神具であるが武器ではない、、普通に考えれば植物の藤の蔓が、鉄の武器に勝てるはずがない、、🤔
これは三国志に登場する『藤甲軍』のことではないか思う。籐の蔓で編んだ鎧を半年間油に漬け乾かし、これを繰り返すと刃物をはじく強靭な鎧になるという。南蛮へ遠征し籐甲軍に遭遇した諸葛孔明の軍兵の武器は一切刃がたたなかった。この籐甲軍とは中国の南、南越(ベトナム)や百越(ビルマ方面)の奥地にいた部族らしく、建御名方の籐の蔓がこの鎧を指しているとすれば、建御名方の一族は南方系の渡来なのかもしれない。
『武南方』と言われるだけある。
【洩矢神】
話しを洩矢氏にもどす、、
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🌾稲作が話題になるずっと昔、仙人が日本列島にやってきて黒曜石の産地の中心の武居の里(諏訪盆地)に「武居城」を構えた。
仙人は「洩矢神」といい信州を開き信濃と名付けた国津神である。
駒ケ根から戸隠山までを国境として、モリヤ山より北辰の戸隠山を臨み、狩猟・漁業の守護である北斗星を祭り、戸隠を斉庭(ゆにわ=祭祀場)として越の国の塩や海産物を統制し、武居の里はモリヤ山を斉庭として代々洩矢氏が住み続けてきた。
モリヤ仙人は、モリヤ山から戸隠山の北斗星を見て運気みた。仙人から代々伝えられ、災害を予測し気を病む者に薬草を煎じ、悪霊を祓い被災者を救ったという。(※ツキヌキ草などウズ救命丸の起源など諸説あり)
守矢氏78代目の守矢早苗さんのお話によるが、この伝承の最後の部分は妙見信仰や修験道の時代の中世の説話である気がするが、当時の伝承であることを差し引いても、守矢氏の古代起源としては腑に落ちるものがある。
しかし、前述した『神長守矢氏系譜』の「物部守屋が逃げてきてその子孫が諏訪大社の神長官を務めることになった」ということと、「物部守屋の子・武麿は守矢氏の養子になった」というエピソードは、建御名方の諏訪入りで先住部族の洩矢氏(守矢氏)と祭政合併したエピソードと重ね合わせているような感じもする。
時代をまたいでエピソードを重ねた神話作りは古事記・日本書紀などによく使われているテクニックだが、この場合はどちらかと言えば建御名方のエピソードの方に「物部守屋」を重ね合わせ、後世への重みとしたのではないだろうか?
だとすれば古墳の出土品の云々もなるほどと理解できる。
古墳は物部守屋の時代6世紀頃のものとされる。弥生時代(紀元前後?)の弥生土器の出土もあったが後から混入された物、、らしい。
突然ですが、
平安から室町時代までの600年ほどをざっくりと綴ってみる。
教科書ではゼッタイ教えない😅ブラック歴史ミステリー
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(突然やな🙄)
平安時代になり桓武天皇の子・有員が朝廷より諏訪大社の大祝として送りこまれてきた。
平安朝廷は、天皇の子を次々と臣籍降下させて九州や東国へ送りこんだり、天皇の子たちによる平氏や源氏という武族を新たに創設させていった。
地方豪族には遠い存在であった皇族が全国一斉に散らばった時代だ。
半ば独立王国の様であった諏訪も別世界ではいられず、代々建御名方の子孫が大祝を継いでいたが、改めて桓武天皇の子・有員が大祝の祖となった。
これに逆らうかの様に、坂東武者達は元々の大祝の祖である建御名方を武神、勝利の神として崇拝し、鎌倉幕府が開かれると諏訪は武を競う演習場となった。(もののふ甲子園🙄)
諏訪武士は強く勇名は全国に轟いた。そして室町時代になる。
室町は武士の世ではあるが、鎌倉時代とも戦国時代とも違う特殊な社会だった。
武士による政治を行おうとする鎌倉幕府を倒し、
天皇による政治を行おうとする南朝廷方を倒し、
双方を裏切り新政権を樹立したのが、
足利氏だ。
足利幕府(=軍事政権)とは名乗っていたが、軍事政権というよりは同じ武力でもどちらかというとヤクザ政権であり、鎌倉幕府の様な軍事統制のみではなく『徴税』という利権が複雑に絡んだ、
言うなれば任侠道政府である。
室町とは『足利一家』という徒がテッペンをとって、全国を縄張りとする組織の当代になった様なものだ。
現代でも稼業の縄張りの所謂「みかじめ料」のことをスラングで『縁祖』と言うのもその時代の価値観の名残りかもしれない。🤔
※祖とは=年貢の事であり各地の頭(地頭)が徴収していた。
かくして全国各地に
筋目、貫目、仁義や義理事を重んじ、
一家の面目を第一とする守護や地頭が誕生した。
一家の面子やケジメを重んじ、面目や名分、跡目争いや利権に絡む抗争があちこちで勃発し、その手打ちや仲裁を担うのが足利一家当代の役割だった。こうした筋目に対する価値観は、近世のヤクザ社会にも反映されていた不文律の任侠道ルールの価値観でもあるが、筋の通らぬ事をすれば将軍でさえ殺され、名分を立てながらも力が無ければ足もとを救われる。
「室町の合戦は戦国と違いヤクザの出入り程度のものだった」等とよく言われるが、本当にその様なものだったのだろう。
全国に飛び火した『応仁の乱』という抗争では、面目と義理、人と人の狭間でプライドを通す一家を構えた者の生き様が抗争原理にあり、後の戦国時代とは全く違う戦う漢たちなりのルールがあった。
こうした抗争は、下部構成員の諍いから一家(氏族)の面目を守る戦いにまで飛び火することもあった。
地頭と呼ばれる下部構成員の細かい縄張り争いまで、いわば揉め事を治め義理事で縛る様な『裁判所』の役割が幕府で、
室町は政治は無い裁判所だけの政府と云われた。そして、
畠山親房の神皇正統記の様に、武家はそれぞれに由緒を語るを誇りとし、諏訪でもその様に由緒や史書が記される様になった。
この様な室町時代に書かれたた書物は、由緒美々しく書かかれていて中世の陰陽道や修験道の妙見信仰・明神信仰の影響も強く、間違いという訳ではないが、それをもって諏訪の古代の出来事までをはかるにはやや違和感を感じる。
特に大祝に対する扱いなどは1700年前と700年前、武士の時代を境にして大いに違いがあるはずである。
室町の気風は諏訪も例外でなく、一家を割る程の激しい抗争によって、かつて『神原』と呼ばれた神域は穢され打ち捨てられた。諏訪千年の御室神事は絶え
今は前宮の巨木の後ろにひっそりと小さな祠が残されているだけだ。
今まで綴ったことを振り返り思うのは、
建御名方とは、ニギハヤヒのことだ
という説はあると思う。
「大国主」が初代・二代目大国主がいる様に、建御名方も個人名ではなく同様に官名と思われ、一人の人物を指しているのかは分からないし、ニギハヤヒも名が長く複数の人物エピソードを重ねた存在かもしれないが、ともかく
建御名方として諏訪入りしてきて大祝となり、洩矢氏の姫と武南方の第二王子を婚姻させ祭政合併し、狩猟民族の時代から神事を司っていた洩矢氏に「神長」の位を授けた。その時に、
鍛冶職人を率いたニギハヤヒは、自らが担っていた神具サナギの「鉄鐸」を洩矢氏に授けたのではないだろうか。
建御名方命が諏訪入り後、大祝になり
洩矢氏は神長となった新旧の祭政合併を繋いだのは婚姻だけでなく『鉄鐸』の存在も大きかったのかもしれない。
天照大神の岩戸隠れで使われた鉄鐸の金工を担い、出雲の国譲りでも神具の金工を担ったという製鉄部族の首長から直接、その由緒ある『鉄鐸』を授けられたのだ。
ニギハヤヒの時代は、『皇神の鋳を顕した瑞宝』などと呼ばれたほどに、鉄器が王統の証とされていた時代であり、
太古からの祭祀を受け継ぎ伝統を守ってきた洩矢氏だが、合併する相手部族の最も大切な神宝としてその『鉄鐸』を受け取った。
だからこそ、神具の鳴り物に鈴が使われる様な時代になっても『鉄鐸』を大切に守り続けたのだろう。
そして、洩矢氏は代々神長と鉄鐸を司り、やがて14世の後に、大和での争いに敗れた物部守屋の残党らが、大和の朝威の及ばぬモリヤ山(森山)に逃げ込んできた。物部氏の始祖ニギハヤヒとの縁を頼り、諏訪入りしてきた外来の物部守屋の子が、洩矢氏の姫と婚姻して諏訪の諸侯として加えられた。
守屋山中には鬼の隠れ家岩の伝承が残る。
※巷説では、物部守屋も渡来系の養子でもとは大陸の突厥族の出身であり、突厥族も忌部氏・物部氏の様に元々はモンゴルの柔然王に使えた製鉄部族だった。
大陸の新しい製鉄技術や馬術剣術を持ち込んだ物部守屋は野心家で、物部氏に婿入りした後、蘇我氏系の勢力を討ち払い物部系の「穴穂部王子」を大王に擁立しようとした為、和国では脅威の危険人物とされた。、
同じ物部氏からも恐れられたほどであり、
大和朝廷の古来からの全部族が結集して討伐にあたった。
もしもその後、物部守屋一族の残党が諏訪に逃げ込んだとしたら、大陸渡来の新しい製鉄技術や馬術剣術は諏訪に伝えられていたはずであり、武士の世を通じて「諏訪武士は強い」と一目置かれていたのも当然である。
物部守屋は敗れはしたが強かった。
三倍の兵力がある連合軍を追い詰め、参軍していた王子も負傷し、物部勢の味方の裏切りが無ければ、連合軍は物部守屋に勝て無かったかもしれない。
諏訪に落延びたその強き物部の末裔達は『諏訪武士』となり、やがて坂東武者と共に武士の世を切り開いていった。
洩矢氏も物部守屋の一族を取り込み「守矢氏」と名乗りを変え、その後の諏訪での存在感は高まった事だろうし、伝承にも建御名方のエピーソードが重ねられ、重みが加えられたであろうことも想像できる。
(守屋神社)
ニギハヤヒのもう一人の妻神・市杵島姫命はサヨリ姫ともいい、ニギハヤヒが建御名方であるとすれば、大国主に市杵島姫命の姉を二人嫁がせているほど宗像氏は出雲族との縁結びが強いので、
末妹の市杵島姫命を更に出雲の王子・建御名方(ニギハヤヒ)に嫁していたとしても不思議はない。
そしてもう一人、ニギハヤヒのご妻神と云われる方に『瀬織津姫』がいる。
古事記・日本書紀には一切書かれてなく、祝詞の大祓えにのみその名が登場する神で、
『佐久なだりに落ち滾つ早川の瀬に坐す瀬織津姫という神』
と宣られているので、
佐久盆地から諏訪盆地にかけて、八ヶ岳周辺の何れかの姫だったと思われ、
建御名方=ニギハヤヒが諏訪入りした後、佐久盆地に進出する際に縁を結ばれた可能性はある🤔
話しがまばらになったが、ニギハヤヒのご妻神と云われ祭られる四人の姫の存在がこの投稿の話しの中で登場した。
縁結びの話しは、即ち=部族と部族、国と国の合併の歴史でもある。
点と点が線になったという訳ではなく、ただ点だけを並べただけだが、この並びは案外腑に落ちる。やがて線になれば、古事記・日本書紀に封印されてしまった古代の不明な、神代の年代も浮かび上がってくるかもしれない。。。
最後の謎、、🤔
建御名方=ニギハヤヒならば、
諏訪で祭られる建御名方命の御妻神『八坂刀売』とは誰か?
相神で仲睦まじく共に宮に坐したが、宮を出て下諏訪へ行ったきり戻らなくなった神だ。
『八坂』の語源は、京都の八坂神社とは関係が無いと云われていた。
弥栄(栄えること)=いやさか
であるとか、
諏訪まで、幾つもつづら折りの坂を
越えてきたとか、
諸説あるが、
呪術的な意味だとかドーナツだとかは
時代が新しすぎて、建御名方の時代とは合わない。🙄😅
八坂神社のスサノオとの関係は考えにくいが、
考えられるのは、スサノオの娘で宗像三女神の末妹であり、ニギハヤヒと結ばれた
『市杵島姫』ではないかと思う。
女系軸で末子相続の古代ならば、市杵島比売とニギハヤヒの婚姻は意味の重たい結びであり、ニギハヤヒ=建御名方と諏訪まで行動を共にしてきたとしても不思議はない。
建御名方と同様、御神名はあかさず
八つの坂を越えてきた、刀売(女王)
八坂刀売と名乗ったのかもしれない。
長野県小野神社に残る八坂刀売の木造も
秦氏の本拠地の京都松尾大社に祭られている市杵島神の木造ともどことなく似ている、、
脇が建御名方であり『八坂刀売』を中心に置いた三尊形式は、八坂刀売が女王でスサノオの直系であることを物語っているのかもしれない。
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長い話しを読んで下さってありがとうございました。🙏✨
必ずしもあっているとは思われませんが、(特に赤枠の中は😅)
系図を追記します😌🙏
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