奈良時代3回シリーズの最終回
古代ミステリー・奈良時代の興亡の歴史です。
前回「何故、中央構造線に神社が祭られたのか」では、弥生時代まで遡ってしまいましたが、奈良時代に伊勢と大和の境界にあったという「水屋神社」に話しを戻して進めます。
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「あお丹よし」は奈良時代をさして言う枕言葉らしく、青と丹(赤)の対比色に見事に彩られた都を表現した言葉らしい。
丹とは赤い顔料のことで、辰砂という赤い鉱石や、ベンガラという赤鉄鉱のことを言う。
辰砂は、朱と呼ばれ水銀を含む鉱石で水銀が抽出され、寺社の朱塗りだけでなく「大仏」や仏像など奈良仏教を彩る金メッキの材料としても使われていた。(水銀は金メッキだけでなく金の精製にも使われ『朱』は人類史上最も古くから使われた鉱物でした🙃)
【大和と伊勢の境界を決めたのが何故、伊勢神宮と春日大社の神だったのか??】
「水屋神社付近で、天照大神と春日大明神二人の神が出合い境界を決めた」という伝承に違和感を感じた事から、今回のシリーズは始まった。
大和の平城京には天皇が坐し、伊勢は天皇家の祭祀を行う伊勢神宮の社領である。
天皇を頂点とした日本国の王都エリアと祭祀エリアの境界を、
何故?春日大社の神と対峙して決めなければならなかったのか?
これは大和の実権が、平城宮の天皇から春日大社にとって替わられてしまったという事だろうか🤔
春日大社は藤原氏(中臣氏)の祖神「天児屋根命」(アメノコヤネ命)を祭っている神社で、春日大明神と言えば天児屋根命のことだが、
日本神話では、
天児屋根は、天照大神に仕え、天照大神の命令でニニギの天孫降臨に同伴してきた神だ。
以後、その子孫の中臣氏が宮廷の祭祀を行ってきた。
天孫降臨の際、天照大神は御魂として祭る様に八咫鏡を曾孫のニニギ尊に託し、
アメノコヤネ、フトダマ命、アメノウズメ命、イシコリドメ命らが、天照大神に命じられニニギ尊の天孫降臨に同行した。
前回の投稿「何故、神社は中央構造線に祭られるのか」に登場する神々たちだ。
天児屋根命は、伴臣の1人でしかなく天照大神に祭祀をもって使える神が、天照大神に対して「国境を決める」などと唐突に対外的なふるまいをする事は有り得ない。
天孫族のヤマト朝廷に何か大きな変化が起きてしまった為に、この様なエピソードが残されているのだろう…🤔
【奈良の大仏と辰砂】
仏教建築は、仏教の専門的知識がなければできないので仏教勢力の独占だったが、一方で
大仏の金メッキには大量の水銀が必要だった為、水銀の多くは伊勢で産出される水銀に頼っていた。
知識の大和と、原料の伊勢、どちらが欠けても大仏建立は不可能であり、やはりこれが伊勢と大和が拮抗していた一因だったのだろうか?
大和と伊勢の国境というより水銀鉱山のある伊勢神宮内宮の社領地と、
大和の春日大社の行在所である水屋神社の境界という感じもする。
大和の仏教勢力は、伊勢の水銀鉱山を直接手に入れる事はできず、
水屋神社で辰砂(朱水銀)が運ばれてくるのを待つしかなかったのだろう。「赤桶」とは赤い辰砂を入れた桶のことだ。
水屋神社に残る地名が丹生でなく「赤桶」というのは、産地ではなく赤い辰砂を運ぶ拠点=ターミナルであったからで、伊勢で採れた赤い水銀が桶に入れられ運び込まれてたのかもしれない。
奈良の都は水銀だらけだったといわれ
「水屋神社」をターミナルとして夥しい量の水銀が
大仏建立のために奈良へ運びこまれていった。
(現在は水銀でなく水を運ぶ神事が残されている)
【仏教勢力はゼネコンだったか?】
ゼネコンとは、設計、施工、そして研究まで、総合的に行う請負業者のことだと言う。
奈良の仏教建築を担った仏教勢力は、ゼネコンだったのだろうか?
只の建築物と違い、仏教の聖典と修法に適う専門的知識がなければ、仏教建築はできない。その研究は必要であり、そのための新たな知識を齎したのは遣唐使や渡来人だった。
飛鳥時代に、朝鮮半島にあった高句麗と百済が中国の唐の進攻により滅亡し、高句麗人や百済人が大勢日本へ亡命してきた。
一時は日本政府の3人に1人が百済人という状態にまでなり、朝廷は冠位を大幅に増やした。
そして、
飛鳥時代~奈良時代にかけての国土開発は彼らの知識や技術によって推進した。
しかし、いくら朝廷に冠位でもって仕えようとも、日本の公地公民制の中では、彼らには依るべき領地がない。
率いてきた部族民も私有民とは認められず、日本国民になった。
奴婢だけは例外とされたが、私有民か国民かは厳しく判別された。
部族民を率いてきた亡命百済人にとってこれは面白くはなかった。
百済は和国に比べ「部族連合国」の部族主権が強い国だったので、彼らの特権意識では耐えがたかっただろう。
この意識は、百済滅亡の一因でもあった。
百済は国軍より部族連合軍が主力であり、部族長たちは国よりも部族の利益を考えて戦い
武士の時代の様な主従関係ではないので形勢により、領地と部族民を安堵して貰えれば敵方に寝返ることもあった。
新羅や和国の様に部族連合国からいち早く脱却した国だけが、国軍を持ち挙国一致した戦闘が可能だったのだ。
日本は大化の改新より、公地公民を推進し、天皇を頂点としたヤマト朝廷の中央集権と律令化を半世紀以上を費やし行ってきた。
各部族長たちは、冠位や国司の地位と引きかえに、率いていた私有民(部族民)と領地を差し出し、独立性のある「部族」ではなく朝廷に帰属する官僚になっていった。
中大兄皇子も自ら率先して、自分の領地と領民を国に差し出した。
孝徳天皇の頃に、それら国民の戸籍が整理され、国民はヤマト朝廷の為に役務につき税を払う様になり、かつての部族長が支配していた時代からようやく中央集権が育ち始めた。
この大化の改新の法の執行人に、小角という者が登場した。
国民を役務に就かせる為、役の小角と呼ばれ、山岳仏教(後に修験道となる)の開祖でもあり、修法をもって人々を従わせたので役の行者とも呼ばれた。
日本列島の各地の山を開山し、王都や仏教建築、国土開発のために人々を使役した。新たな宗教の布教と共に行われた事業は、小角に行き過ぎはあったにせよ、まだ国家事業の域をでることはなかった。
使役から開発まで全て請け負う側のゼネコンの立場だった。
寺社は建立すれば終わりという事ではなく、維持費を賄う為の田畑や耕作人が付与される。
寺領・社領と、神人・出家者、という寺社に属する民となる。
建立と共に「三千人を出家させた」とか、「千人を出家させた」とか、規模にもよるが、出家すると寺の私有民になる訳で、税も払わず役務に就くこともない、寺社の為に専属で働く人々になる。
この人々は国王の側から、仏教者に与えられた民だ。国(天皇側)は、仏教の研究から、設計・施工、民衆の使役までを任せ仏教建築物を建立し、維持のために出家者まで与え国威のために仏教を保護していた。
建築後は仏教者が運営し免税とした上に維持費まで賄っていたが、どれほど資金をかけたところで国が回収できるものは無い😔
肥え太るのは請け負った仏教者で、数を増やすほどに比例して国力は失われていった。
(日本に古くからある免税用語「坊主丸儲け」はこの時代から生まれた言葉だろうか、、🤔)
部族民が全て国民にかわった大化の改新以降、国民が役務につく様になってからも、
この出家者という名の「仏教の民」たちは、維持のために引き続き例外として免税地に残っていた。
白村江の戦いから壬申の乱を経て、造船、築城、軍用道路、兵役、遷都、輸送、開墾と、国民の労役は間断なく続いた時代だ。
亡命百済人らがこの例外に飛びつき、勢力を成したのは当然の成り行きだったのかもしれない。
役の行者や、亡命高句麗人らは関東に追いやられ、
奈良時代になると中央では、百済人らが野合し技術者、医者、政治家、職人、宗教者、建築者、学者らによる強力なコングロマリット(複合産業集団)が形成され、ヤマト朝廷を脅かすほどの一大勢力となった。
彼らは、仏教者を矢面に立て『免税地』と私有民の確保に乗り出した。
医療・薬学から、開墾・治水事業まで、かつてなかった新しい技術で、国が施すべきであろう様々な事を民衆にもたらす彼らは、何処に行っても喝采で迎えられ全国各地を周った。
おまけに仏教に入信すれば役務や兵役も税金も免除されると聞き、民衆は彼らを大歓迎した。
国土開発は、亡命百済人たちの技術や知識で進められてきたが、
国の請け負い事業のはずだったものが、やがて彼らの独走に変わっていた。
私的に資金を募り、民衆の為に開墾を行い、橋を架け、施術を行い、同時に布教をしながら、千を越すとも言われる寺院を各地に建立して、民衆を出家させて、国の役務と税から解放して寺院に帰属する私有民に変えていった。
百済系の僧侶(行基)や、百済系の王(長屋王)も登場し、遣唐使らも巻き込みながら、天武天皇系、藤原氏、天智天皇系、百済系、仏教勢力が蠢くカオスな状態へと奈良時代は突入した。
【神仏習合の始まり】
百済系の移民たちは新興の仏教勢力と野合し、天皇や朝廷を脅かすほどの大勢力となり、
藤原氏の中枢である藤原四家(北家、南家、東家、西家)の主だった権力者たちが天然痘で一斉に亡くなり、藤原氏は力を失った。
藤原北家の残党だけが新興の奈良仏教の勢力下でかろうじて生き伸びているという状態になった。
藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は乗っ取られ、関東を押さえていた「鹿島神宮」「香取神宮」の神々は奈良に遷され「春日大社」に祭られ、興福寺の配下となった。
これが、日本の神仏習合時代の始まりだ。
仏教勢力は、かつて天皇側だった藤原氏の勢力を切り崩すと、そのまま国境の水屋神社まで勢力を広げていた。
気がつけば、役の行者を関東に追放し、高句麗の移民や王族らも関東に移し、遣唐使・吉備真備は九州に左遷させられ、藤原氏も四家のうち三家が失われ仏教勢力の配下となってしまい、いつの間にか平城京で天皇だけが孤立している様な状態になっていた。とうとう、
天皇は「仏教勢力の下僕である」ことを宣言させられ、
もはや国王の地位は風前の灯になった。
奈良仏教の首魁である法王・僧道鏡が登場してくると、
仏教勢力の実質的な支配だけでなく、遂に天皇の位を譲れと迫ってきた。
調度この頃に、興福寺の配下で春日大社の行在宮(天皇の滞在する仮宮)として水屋神社が置かれたのだ。
これは明らかに平城宮の天皇の行在宮としてではなく、
法王の行在宮として置かれたのではないだろうか。
あえて天皇しか使わない「行在宮」としてしまうことからも、法王の王権が当時どれほど強かったのかが推察される。
歴史上では、法王は天皇の上の位とされていた。後世の上皇の様な存在だったのかもしれない。
院政や摂関政治、幕藩政治の様に、天皇に実権を持たせない体制が日本で初めて(束の間だったが)奈良で誕生しつつあった。しかし、
法王・道鏡の企ては失敗に終わり、道鏡の失脚後は墾田永年私財法も差し止められた。
これにより、仏教勢力が新たな免税地を手に入れる為には、既存の免税地=神社が持つ社田や神領を手に入れるしか方法が無くなってしまった。
仏教勢力は、この頃より「神道の神とは、仏教神の化身である」と言う方便を唱えて、神社を仏教の勢力下に置いていく神仏習合の時代が本格的に始まった。
「神仏の対立から仲良く神仏習合。お寺は国立大学の様な存在だった。」と、私達が知る様な歴史とは些か違う気がするが、奈良時代のリアルへ少しは近づいたと思う。🤔
道鏡と道連れの様に天武天皇系の皇統は滅びてしまい、皇統が一世紀ぶりに天智天皇系に移ると、天皇側は奈良仏教との袂を別ち奈良からの脱出を試みる様になった。
他に藤原氏や帰化人勢力など、奈良仏教に野合していた人々も天皇側につき、奈良の仏教勢力だけが取り残された様子が覗える。
桓武天皇は、京都の長岡京に遷都すると共に平城京の第二の都であった流通拠点「難波京」を閉鎖し、奈良仏教は半ば経済封鎖されつつあった様だ。その後、天皇側には藤原氏の暗殺に始まり、伊勢神宮の放火や桓武天皇の周囲での変事や、長岡京の度重なる災害が立て続けに起きた。桓武天皇は長岡京を放棄し、
平安京への遷都を行い、遂に新たな時代を切り開いた。
奈良の仏教勢力はその後も残り、平安仏教と対比して「南都・北嶺」と呼ばれる様になったが、貴族の時代となった平安京で再び権力の座を手に入れることはなかった。
「あおによし」という青と丹(赤)の対比色が、まるで法王と天皇を対比を伝えているかの様に、今も奈良をさして言う枕詞に綺羅として残されている。
長い話しを読んで下さりありがとう御座いました。🙏✨
✨✨✨✨✨✨✨✨
古代ミステリー・シリーズ「あとがき」
前回は、室町時代、今回は奈良時代で、このまま書き続けていくと日本の
「宗教政策通史」が出来上がるかもしれない…🤔
📿仏教伝来後の日本では、
武力を用いて恐れさせ、強引に従わせると言うことよりも、
宗教を用いて祟りや呪い、仏罰を恐れさせ従わせると言う方法が定着しつつあった。
律令と武力だけでなく、宗教という見えない鎧がなければ国は治められない事を為政者たちは知っていたのだ。
元々、日本人には呪いや罰といった恐れの信仰が無かった為に、これはかなり効果的なマインドコントロール方法だった様だ。
やがて、次の時代には中世独特の👹呪術的信仰の時代が開花する。
呪い調伏、祟り封じ、かつての日本人には無かった恐れの信仰が支配した時代だ。
国宝級の地獄絵図 などを見ても
時代が下るごとに猟奇的で、怪奇なものになっている。
次は、平安時代にもスポットを当てて
この特異な時代を深掘りしてみたい😌
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