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縄文の道・縄文【尖石遺跡】と弥生【登呂遺跡】

2022-09-04 | 縄文の道

日本の中の二つの故郷

◇五千年前の
縄文時代『尖石遺跡』(長野県)と

◆二千年前の
弥生時代『登呂遺跡』(静岡県)の投稿です。画像多め…😌

 

登呂遺跡(静岡市駿河区登呂5-10-5)

 

考古学の考え方では、文明とは「農耕と定住』が必須要件である様で、狩猟民族や遊牧民族の文化は文明ではなく劣るものとして格付けされてる様だ。

 

「はたして弥生時代に稲作はあったか?」🤔という議論が昔はあった。

 

【登呂遺跡】

 

しかし昭和初期、こちらの登呂遺跡が発見され、日本で初めて水田遺構が確認された。

これにより、弥生=稲作のイメージは定着し、


日本考古学協会発足の契機ともなった。

 

 

復刻水田と復刻住居により当時の村の様子が再現されている。

 

 

 

【登呂遺跡の復刻水田】

 

 

弥生集落は、


大規模な水田と住居、高床式の食糧貯蔵庫からなる。

 

 

 

登呂遺跡は安部川と藁科川に挟まれた扇状地で約2000年前の弥生時代後期から古墳時代(1500年前頃)まで存在していた。その間に2回の壊滅的な洪水があり、

復元されているのは1回目の洪水前の最盛期の集落とのこと。

 

駿河湾を望む静岡平野は、安部川と藁科川下流に作られた堆積平野で、

登呂遺跡もかつては海だった場所。入江の中にあった。

ちなみに、日本神話の「出雲の国ゆずり」では、大国主は天孫族へ国をゆずり船で居なくなったとされているが、静岡には大国主と美穂津姫が降臨したという伝承がありお二人は美穂神社に祭られている。

(静岡の伊豆も出雲が語源という🤔)登呂遺跡など、

静岡へ弥生式※の稲作文化をもたらした弥生人が流入したのと、大国主と美穂津姫が静岡へやってきたのもほぼ時期的にも重なる。

(※縄文時代にも稲作はありました😌)

 

 

【尖石遺跡】長野県茅野市豊平4737-132

縄文中期・約五千年~四千年前の遺跡✨

 

尖石遺跡の前にある尖石縄文考古館では、出土品である

国宝の【縄文のビーナス】と【仮面の女神】が展示されている。

 

『仮面の女神』

縄文のビーナスも、どちらも妊娠している女性のイメージらしい。

 

縄文時代の住居

(井戸尻遺跡)

縄文住居のタイプは見た目には、弥生時代とそう変わりはない。

五千年前の縄文住居は竪穴を掘り屋根を被せるが、ニ千年前の弥生時代のものは、外構や地面上げと土留など土工部がハイグレードとなっている。

 

尖石遺跡跡地

 

しかし、縄文集落は、都市デザイン化のごとく

住居エリア、大規模な公衆施設、
「石柱石壇」の祭祀棟
「土偶」を扱う祭祀棟
「石棒」を使う祭祀棟

異なる複数の祭祀配置を持つ複合型施設の集落だった様だ。😮

 

 

かつては石器時代(=縄文時代)と呼ばれ、

縄文土器の種類や貝塚などだけが研究対象でしかなかった縄文だが、

この尖石遺跡の発見後、昭和初期からの本格的な発掘により

日本で初めて、縄文人の集落や暮らしのスタイルの全貌が発見され

縄文考古学の契機となった。

石皿など食器や調理器具から、食生活が割だされ当時はまだ画期的だった

『縄文農耕論』が藤森栄一氏によって初めて語られた。

 

現在では粟稗だけでなく稲も発見され、縄文人が狩猟民族だとされることはなくなったが、流石に今さら農耕とも言えず『園耕』民族という聴き慣れない呼ばれ方をしている。

農耕だけに頼らず、現代人の様な「農・畜・魚」とバランスのとれた食生活をしていた為、農耕だけの民族ではないので園耕ということらしい🤔

 

尖石縄文考古館では、「となりのトトロ」が吹いていた土笛作り体験ができる。

オカリナの起源は土笛で、マヤ文明と縄文まで遡る。

信州は、縄文文化の中心地であり石器の刃物となる「黒曜石」がこちらで産出され東日本に広がっていった。

尖石という黒曜石を研磨したような跡がある岩が見つかったので、

尖石遺跡という。

 

【尖石】

 

しかし、この岩の祭り方は・・・😑

 

 

諏訪地方を中心にひろがる、洩矢氏の古代信仰である

『ミシャグチ』の祭り方では・・・?😳

 

ミシャグチについてもまた、詳しく別の機会に投稿したい。

(多分、長くなりそうですし)

 

今回は

弥生時代・縄文時代を知る契機となった二つの遺跡の紹介で終わります。

 

読んで下さってありがとうございました。

 

 



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