ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

据膳くわない「三四郎」

2005年12月28日 | 
 漱石の「三四郎」を読み始めた。
 
 熊本から上京する汽車の中で乗り合わせた女性と名古屋で同宿するも背中合わせに寝ただけの三四郎、翌朝別れ際に「度胸がない人ね」なんていわれてしまう。三四郎は据膳をくわなかったのだ。

 大学時代、九州の友人をたずねた折の新幹線で、新宿のデパートに勤める巨乳のお姉さんと隣り合わせになって親しくなった。横浜あたりで、「食べない?」ってバナナをもらったのがきっかけで、博多につく頃には身体を密着するくらいに親密になっていた。鹿児島の女性だった。予定がありますのでと博多で別れたが、鹿児島にきたら連絡してねと電話番号をもらった。結局電話もせずそのままになった。学生の旅なんだから予定なんてどうにでもなったのに。まったく度胸のないやつだ。
 
 「三四郎」は、日露戦争が終わったあとの話で、戦争で息子を失い戦争なんてまっぴらだというじいさんが出てきたり、汽車の窓から弁当のごみだのをばんばん捨てる場面があったり、大学の授業がいいかげんだったり、と明治末の世情が見えておもしろい。日露戦争は日本中が戦勝にわいていたようなイメージがあるけれど、こうした厭戦を口にする老人が出てくるところが漱石のリアリズムなのだと思う。

 今年も仕事納め。まだ年賀状もつくっていないや。
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+40℃バンコク、-20℃モスクワ、さーどっちがいい?

2005年12月27日 | アフター・アワーズ
 40℃のバンコクの暑さとマイナス20℃のモスクワの寒さ、バンコクは超辛料理で、汗だくだったけど、熱気と同化することでしのいだ。モスクワは、脳みそが凍るようで眼鏡がミシミシッと音を立て、自分が刃物になったようだったけれど、ガンガンウオッカあおって乗り切った。我慢できるのは暑いほうです。
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ほしい!バロン吉元「柔侠伝」

2005年12月27日 | アフター・アワーズ
 A新聞の書評欄か何かにバロン吉元「柔侠伝」上下2巻が各500円でゴマブックスから出ているとあった。なんでも全国コンビニ系で展開しているらしいが、コンビニに行ってもない、本屋にもない。一体どこにあるんだ!
 すぐ挿入、じゃーなくて購入できない本を新聞で取り上げるな! 11月に出ていたらしいが、その時点で紹介しろ! まったく、いんちきなポン引きみたいだぜ、あの新聞は!
 
 読みたい! 「柔侠伝」、そして「昭和柔侠伝」。バロンの傑作だ。WEBで購入するしかないか。でも本屋でその姿が見たい。誰か読み終わって、もういらなかったら、ほしーーーい!
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300円の楽しみ方「坊ちゃん」

2005年12月26日 | 
 いわゆる近代文学の名作は文庫で安く買える。夏目漱石「坊ちゃん」は新潮文庫で税込300円だ。300円均一ショップで買える物って、やっぱり300円均一ショップで買える物だけれど、同じ300円でとても充実した買い物をした気になってしまう。
 
 約100年前の明治の時代を、坊ちゃんと一緒に戯れることができるのも、漱石のつくりだす世界が実に鮮やかだからだ。これは90分のスタンダードサイズの映画を観た心地よさと快感に似ている。
 
 坊ちゃんが赤シャツに誘われて船釣りから帰ってきたときの1シーン。
 「港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯の砂へざぐりと、舳をつき込んで動かなくなった。御早う御帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶する。おれは船端から、やっと掛声をして磯へ飛び下りた。」
 まるでジョン・フォードの映画の1シーンを観ているようではないか。あるいは江戸落語のような軽妙な語り口を味わおう。このテンポのよさと無駄がない文体が「坊ちゃん」のすばらしさだ。
 
 痛快な青春小説の代表のようにいわれるけれど、仕返しの仕方は決して痛快というものではない。田舎もんには付き合っちゃーいられねーやってけつまくって東京へ帰る、いわば若者の勇み足と挫折の物語だ。それにしても、坊ちゃんが遭遇する世の中の構造は1世紀たってもあまり変わらない。私もあなたもいまや赤シャツや野だいこかもしれないじゃない。中学・高校生だけに読ませておくのはもったいない小説だ。
 
 漱石39歳の作。その10年後に漱石は亡くなってしまう。小説家としての人生は短かった。来年は没後90年、ロシア革命の前年に亡くなっているんですね。来年はなんか漱石がはやるのではないかと思う。
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轟沈!有馬記念

2005年12月26日 | アフター・アワーズ
 JCの走りっぷりがよかったので気にはなったハーツクライ、その激走故、有馬は消し、リンカーンはもはやこのメンバーではないかなと思っていたら、入っちゃいました。
 
 追い切りの様子からディープの1着ははずして、3-6-15の3連単でしたが、みごとに沈没のクリスマスでした。

 それにしても、ゼンノ、デルタはひどかったなー。デルタはペリエの名前に惑わされてしまった。ハーツクライが勝ったというより、やはりディープだけが不調(とはいえ2着)で負けた今年の有馬記念というほかはないということでおしまい。
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ドミニク・サンダに誘われて「暗殺の森へ」

2005年12月21日 | 映画
 「暗殺の森」を観る。ベルトルッチがドミニク・サンダのみに関心を注いだ映画ではないか。黒い服を着て足を広げる娼婦にさせ、顔に傷をつけ、レオタードにさせ、白い胸を露わにさせ(ありがとう)、同性愛的なダンスを踊らせ、冷たい森に誘い出し、恐怖に顔をひきつらせ、顔面を赤い血で汚す。この官能的な瞳と唇と微笑みをもった女優を蹂躙するためにこの映画をつくったのか。そう、だから私たちはドミニクに誘われて冷たい暗殺の森に迷い込めばいいらしい。

 前作「暗殺のオペラ」では、裏切りの革命戦士であった父、本作では精神病院にいる父、次作「ラスト・タンゴ・イン・パリ」では、アルジェリア戦争で戦死した軍人の父、いずれも父親の呪縛から解き放たれることが主人公たちの行動原理になっている。そしていずれも解放への突破口を開くのが拳銃である。これがベルトルッチ70年初頭三部作の基本構図だ。

 ジャン・ルイ・トランティニャン演じるマルチェロは、少年時代に自分を犯しそうになった変態ホモ野郎を拳銃で殺した過去がある。精神を病んだ父と使用人と姦通する母親の尋常ならざる血をひく宿命から解放されるため体制順応者(ファシスト)となることを求めるが、少年時代のトラウマから拳銃を撃てない不能のファシストであり、新婚の妻とも、妻にはない娼婦性を見出して一目惚れの反ファシズム派教授の妻アンナ(ドミニク・サンダ)とも交わることができない。

 終盤、ファシズム政権が倒れた場面でマルチェロには子供が生まれており、冷たい森での教授夫妻暗殺の現場(一目惚れのアンナが目前で殺されることを見過ごす)を通過することで、マルチェロは完全なる体制順応者になり、不能者からも解放されていたことが分かる。

 だが、ファシズム政権が倒れ、ファシスト狩りが始まったた夜に、マルチェロは殺したはずの変態ホモ野郎に出会い、これまでの存在の根拠が一気に瓦解してしまうのだった。そしてホモ野郎に向かって「こいつはファシストだ」と臆面もなく言い放ち、新たな体制に迎合するところで物語は幕を閉じる。

 「すべてを国家のもとに、国家の外にいるもの、国家に反するものがいてはならない」とは元祖ファシスト・ムッソリーニのことばだ。国家をアメリカにおきかえれば、現在の世界が鮮明に見える気がする。そして、あちこちに「Il Conformista(体制順応者)」が跳梁跋扈している。「暗殺の森」は、70年代初頭という政治の季節の終わりにつくられたが、市民であることの欺瞞と退廃に銃口を向けた過激で美しい映画なのだった。
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ラブ&ピースの欺瞞をぶち壊したマイルス

2005年12月21日 | 音楽
 1970年8月イギリス南部のワイト島で60万人を集めて開かれたロック・フェスにマイルス・ディビスが出演したときの38分のライヴを収めた「miles electric:a different kind of blue」をBSで見た。演奏プラス当時マイルスにかかわったミュージシャンのインタビューで構成したもので、DVDも出ているらしいが、この伝説的なマイルスのライヴを完全収録した映像は貴重であり、感動的だ。

 ラブ&ピースをうたって前年のウッドストックの熱狂を再びと開かれたコンサートだが、マイルスはそんな白人たちの浮ついたお遊び気分のコンサートを一発のトランペットの音で粉砕すべく、戦闘的に前衛的に闘い、ロック野郎たちを屈服させた。まさに帝王マイルスの誕生だ。

 マイルスは69年に20世紀音楽の最高峰に輝くといってもよい最高傑作にして時代への戦闘宣言「ビッチェズ・ブリュー」を発表する。ワイト島ではそのアルバムに収録された曲目を中心にメドレーで休むことなく演奏し続ける。しかもたった7人で。まさに7人のサムライだ。
 
 ドラムス:ジャック・ディ・ジョネット、ベース:デイヴ・ホランド、エレピ:チック・コリア、オルガン:キース・ジャレット、パーカッション:アイアート・モレイラ、サックス:ゲイリー・バーツという布陣。マイルスは音のジャブ、フック、ストレート、アッパーを自在に繰り出し、トランペットの短いフレーズでアジテーターの役割を果たしながら過激な音と闘争の渦へと演奏者と観衆を扇動する。マイルスは何と闘っているのか。世界のすべてとだ。そして一気にJAZZからも突き抜ける。
 
 次第に陶酔していくキース、アイアートの表情、どうだ参ったかといわんばかり不敵な笑みを浮かべながら過激なリズムを紡ぎ出すディ・ジョネットとホランド。演奏の最後は、マイルスのライヴでおなじみの「Theme」で締めくくるウイットと余裕。35年前!のライヴだが、ここで演奏されている音楽は、「ビッチェズ・ブリュー」というアルバムも含め時代を超えてストレートに心に突き刺さる。いまもなおマイルスは真の前衛なのだ。

 だから私は言いたい。すべての人がまず、「ビッチェズ・ブリュー」を聴け!と。
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神保町「エリカ」で珈琲時光

2005年12月20日 | 映画
 ちょっと二日酔いの土曜日、湯船につかってさっぱりし録画してあったホウ・シャオシェン「珈琲時光」を観た。

 フリーライターの陽子とその恋人らしい神保町の古書店の二代目肇、群馬あたりにいる陽子の両親、を主な登場人物として物語は進む。お盆の帰省、娘の下宿を訪ねる両親、台湾人作曲家江文也の資料集めに東京をめぐる陽子と肇の日常的な風景が静かに映し出される。だが台湾にいる陽子の実母、陽子のお腹にいる子供の父親、台湾人作曲家江文也など画面には登場しない人物たちの物語が、陽子をとりまく複雑な背景を語り、やがて訪れるだろうドラマや苦難を予感させる。

 とりわけ、娘の妊娠を知ってもひたすら沈黙し続ける父親役の小林稔侍がいい。やや身体を傾けて猫背気味にすわって酒を飲む姿を逆光気味にとらえたシーン、いつ口を開くのかという緊張感が伝わってくる。背中のたたずまいがいいのだ。さすが高倉健のそばで仕事をしていた人だと思った。

 御茶ノ水だか、秋葉原だかの電車がゆっくり交差するシーンを俯瞰でとらえた映像は、電車が芋虫のようでゾクッとする。30年前のような懐かしさを湛えて見える東京、神保町のレトロな喫茶店「エリカ」、ひたすら映画のゆっくりとした時間の流れとリズムに身をまかせる。そういうことができる映画は少ない。
 週明けの月曜、神保町へ行ったが、残念ながら「エリカ」に行く時間はなかった。
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ゲッツで「晩秋」

2005年12月19日 | 
 長いお別れをしていたロバート・B・パーカーを久々に読んだ。「晩秋」。ウッディ・ハーマン楽団の「アーリー・オータム」を聴いていて、長いこと読み忘れていたのを思い出したのだ。本棚には池波正太郎「剣客商売」10巻と一緒にカバーをかけたまま置いてあった。どっちも読みかけ。長いシリーズのなかで登場人物たちが年をとり、成長していくという点でよく似ている。本棚における日米ハードボイルドの競演!

 「初秋」の続編といわれているけれど原題は「Pastime」。「初秋」は「Early Autumn」とそのままだったし、確かラジオから「アーリー・オータム」が流れてくるシーンがあったはずだ。スタン・ゲッツかゲッツのいるウッディ・ハーマン楽団だろう。「晩秋」は「初秋」から10年後、少年だったポールは成人し、今度は失踪した母親を探す話だ。

 「初秋」という小説と「アーリー・オータム」という曲はよく似合っていた。でも「晩秋」のほうが、スペンサーが父に男として認められたときのことを語ったり(初めてスコッチを飲む)、人生の秋が感じられて、この曲に合っているなと思った。ウッディ・ハーマンの「アーリー・オータム」に似合う小説は、とりあえず「晩秋」ということで一件落着し、これも最近あまり飲んでいなかったスコッチを飲んで寝た夜だった。
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アネハゲハのイッツ・マジック

2005年12月15日 | 音楽
 なんだ、やっぱり髪は偽装のままだったのか! 国会証人喚問では真実の姿を見ていただこうと偽造毛ははずしてくるのかと期待していたら、意外性も何もない。まったくつまらん奴だと怒りたくなった。質問する議員も、偽装側も登場人物が小粒すぎる。キックバックも200万円程度だなんてせこい。あのハゲ支店長、くたびれたスナックのママにでも貢いだんだろうな。そのうちやらしてくれないかと期待して。ひさびさに小市民なんてー言葉が思い浮かんだよ。まったく。

 もし魔法が使えるなら、ばれないかつらがほしいってアネハゲハがいったかどうかわからないけど、今日はエリック・ドルフィーの「イッツ・マジック」で魔法にでもかかってしまおう。
 
 アルバム「ファー・クライ」のトリの1曲(最近のCDではボーナス曲が最後)、バスクラリネットで歌い上げる「泣き節」がいい。あんたの魔法でお星様も、あれれれ、あんたの瞳の中で輝いている、そんな可愛らしいラブラブのスタンダードも、音の上昇と下降で揺さぶるアドリブと鋭いタンギングでテーマを吹くドルフィーのバスクラにかかると、あーら不思議、愛し合う二人の、あえぎもだえたあとの切なさ湛えた爽快感、あるいは会いたいけど会えないじりじりする切なさ(気分でぜんぜん違うのだ)のようなラブソングに変身するのだった。
 同じアルバムのアルトソロ「テンダリー」も泣けます。
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