元・甲斐バンドのマネージャーだった方として、奥さんからお噂はかねがね…(笑)
最近では由紀さおりさんの『1969』を手掛けてらっしゃったと知りました。
佐藤さんは音楽ライターをなさっていたそうで、
昔の甲斐バンド写真集の中にも『五業昌晶』名義で記事が掲載されています。
取材で初めて甲斐バンドに会った時の第一印象は、
『予想していたより大人で、骨っぽくて、とってもハングリーだ』
ソング・ライターとしての甲斐さんのことは、
『彼はいつでも、心の内の混濁に恐れることなく自らの手を突っ込み、
つかみとった何ものかを歌にしている』
まさにおっしゃる通り!と奥さんが大絶賛した一文だ。
取材後に『英雄と悪漢』を聞いて以来、
『甲斐バンドを日本のミュージック・シーンにおける、
最も注目すべき存在のひとつとして見てきた』
という佐藤さんが、1977年、正式に甲斐バンドのマネージャーに就任。
奥さんいわく…
どんないきさつでかは判らないけど
佐藤さんがマネージャーになったことで、甲斐バンドは変わった。
甲斐さんが、現状に満足することなく、
次のステップに進もうとした時に必要としたのは、
甲斐さんの思いや考えを、冷静に判断してくれる第三者だったのではないか?と言う。
武石マネージャーに不満だった訳じゃなく、
シンコー・ミュージックの社員でもある彼女には見えない何かが
甲斐さんと佐藤さんには見えていたのかも知れないとも言っていた。
前出の記事で佐藤さんは、こう書かれている。
『甲斐バンドの音楽を聴いて、なぁ~んだと言うことはやさしい。
なぜなら聴き手にとってむずかしくない音楽をやっているからだ。
だが、むずかしくないことは、能なしだということではない。
(中略)精一杯の本音を、できるだけたくさんの人達にわかってもらおうとするなら、
むずかしくない音楽を選ぶのは当然だろう』
当時、ライブの観客動員数は増えていたけど
まるでアイドルのコンサートのような受け取られ方をしていた…
佐藤さんの記事には、女性ファン以外の客を獲得できる筈だという思いが伺える。
アマチュア時代の曲を収めた『らいむらいと』から、『英雄と悪漢』に変化したように
甲斐さんの思い入れのある曲をカバーした『翼あるもの』から
ロック色を強めた『誘惑』への流れが、
新しい甲斐バンドへのステップだったと思うのは、奥さんだけではないだろう。
最近では由紀さおりさんの『1969』を手掛けてらっしゃったと知りました。
佐藤さんは音楽ライターをなさっていたそうで、
昔の甲斐バンド写真集の中にも『五業昌晶』名義で記事が掲載されています。
取材で初めて甲斐バンドに会った時の第一印象は、
『予想していたより大人で、骨っぽくて、とってもハングリーだ』
ソング・ライターとしての甲斐さんのことは、
『彼はいつでも、心の内の混濁に恐れることなく自らの手を突っ込み、
つかみとった何ものかを歌にしている』
まさにおっしゃる通り!と奥さんが大絶賛した一文だ。
取材後に『英雄と悪漢』を聞いて以来、
『甲斐バンドを日本のミュージック・シーンにおける、
最も注目すべき存在のひとつとして見てきた』
という佐藤さんが、1977年、正式に甲斐バンドのマネージャーに就任。
奥さんいわく…
どんないきさつでかは判らないけど
佐藤さんがマネージャーになったことで、甲斐バンドは変わった。
甲斐さんが、現状に満足することなく、
次のステップに進もうとした時に必要としたのは、
甲斐さんの思いや考えを、冷静に判断してくれる第三者だったのではないか?と言う。
武石マネージャーに不満だった訳じゃなく、
シンコー・ミュージックの社員でもある彼女には見えない何かが
甲斐さんと佐藤さんには見えていたのかも知れないとも言っていた。
前出の記事で佐藤さんは、こう書かれている。
『甲斐バンドの音楽を聴いて、なぁ~んだと言うことはやさしい。
なぜなら聴き手にとってむずかしくない音楽をやっているからだ。
だが、むずかしくないことは、能なしだということではない。
(中略)精一杯の本音を、できるだけたくさんの人達にわかってもらおうとするなら、
むずかしくない音楽を選ぶのは当然だろう』
当時、ライブの観客動員数は増えていたけど
まるでアイドルのコンサートのような受け取られ方をしていた…
佐藤さんの記事には、女性ファン以外の客を獲得できる筈だという思いが伺える。
アマチュア時代の曲を収めた『らいむらいと』から、『英雄と悪漢』に変化したように
甲斐さんの思い入れのある曲をカバーした『翼あるもの』から
ロック色を強めた『誘惑』への流れが、
新しい甲斐バンドへのステップだったと思うのは、奥さんだけではないだろう。