ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

照和その11

2013-05-14 20:50:58 | メディア
井上陽水さん、チューリップ、海援隊と
福岡から相次いでスターが誕生したことで

福岡は『日本のリバプール』と言われ
東京のレコード会社や音楽関係者の注目を集めた

猫も杓子も『福岡出身』というだけで
ひとくくりにされていることに反発して(笑)

西田四郎さんが甲斐バンドに
『九州最後のスーパースター』という

キャッチフレーズをつけたのは有名ですよね(笑)


それはさておき…

照和出身のミュージシャンは皆さん

KBC九州朝日放送の岸川均さんを始め
RKB毎日放送の野見山実さん
TNCテレビ西日本の藤井伊久蔵さんなど

博多の放送局の方々を恩人と呼んでおられます

福岡ドームの柿落としライブは
野見山さんの定年退職がきっかけだったようだし(笑)

甲斐さんが博多でのライブのたび
岸川さんに会いに行かれていたのも以前にご紹介しました


藤井さんは

小倉の井筒屋文化ホールや福岡の明治生命ホールで

定期的にフォークソング・フェスティバルを開催され

演奏の場がなかった
アマチュアグループの登竜門として人気を集めておられた


野見山さんは

『スマッシュ・イレブン』というラジオの深夜番組で

アマチュアのオリジナル曲を放送されていた方です

当時、働きながらプロを目指していた陽水さんは

学生中心のフォーク状況には縁がなく
音楽関係者との繋がりもなかったので

番組の担当者に会わせて欲しいと
直接RKBを訪ねて行き

野見山さんにデモテープを聴いて貰ったそうだ

野見山さんは即座に『これはいい!』とおっしゃって

その後すぐにスタジオで録り直し
ラジオで放送されたという

リスナーから再放送のリクエストが殺到し
再び曲を流すと更にリクエストが…!
遂にナンバーワンに輝いたそうだ

野見山さんが陽水さんを
CBSソニーのディレクターに紹介したことで

陽水さんのプロデビューが決まったらしい

野見山さんは

衣食が足りたら、次は音楽。音楽は生活必需品(笑)

とおっしゃるほど音楽好きな方だけあって

良いと思った音楽に対する反応が速かったようだ(笑)


岸川さんは

『ショコラ・ヤングナイト』や『歌え!若者』という
アマチュア参加番組を作っておられた

元は『みんなで一緒に』という30分番組だったものを

1時間に拡大した『歌え!若者』にはスポンサーが付かず(汗)

番組編成の時期には
孤軍奮闘で継続を主張されていたらしい(笑)

文化放送でも似た話を聞いたような気が…(爆)


福岡が注目の的になっていた頃

岸川さんには連日のように
東京のレコード会社や音楽関係者から電話がかかり

新しいミュージシャンや人気が出て来たバンドはいないかと
問い合わせられたそうだ

岸川さんは『青田刈りもいい加減にしろ』と
ウンザリされていたらしい(苦笑)

アマチュア時代の恩人と言われることについては…

良い曲があれば、世に出してやりたいと思うし

たまたま自分が役に立てる場にいただけで
彼等は自ら躍り出たんです


甲斐さんいわく…

今や慣習にさえなっている
『アーティストが売れると何らかの権利を主張する』

ということさえしない清廉潔白の人だった

という訳で
次回も岸川さんについてのお話を…
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照和その10

2013-05-14 10:35:33 | メディア
甲斐さん初のソロコンサートの後

小宮さんは2ヶ月に1度の割合で
コンサートを企画されたそうだ(笑)

門田さんも福岡大学のフォークソング愛好会として

学内・学外のコンサートを行なっておられ

以前にも触れた『フライドチキン』を設立して

小宮さんと一緒に企画・運営されていた

これらのアマチュアコンサートには
『リンドン』や『ピエロ』など

照和の出演バンドも参加していたようだ

映画の中でイチローさんが

照和でも勉強になるんだけど
ここだけじゃなくて

600席とか800席のホールでのコンサートと
両立できないとダメだと思っていたと話されていた

照和のステージが不断の努力をする場なら

コンサートはその努力の成果を見せる場所だったそうだ

成功すれば自信がついて
その自信が照和のステージに跳ね返り

上手く行かなければ
より努力に励むようになるからだという


藤松さんは
ご自身が音楽のことを何も判らないので

最初は顔見知りの学生の方に頼んで
出演バンドを探して貰い照和を開店された

その後は『テキサス決死隊』の定方さんをチーフにして
定方さんが大学を卒業されると

1階の喫茶店にいた広津さんが
地下に移動したいと申し出るといった具合に

ステージに関する部分はほとんど
学生やアルバイトの若者に任せておられたようだ

広津さんと甲斐さんが照和のステージ面を管理され

外部の小宮さんとコンサートを行なっていた頃が
一番安心して運営を任せられたという

甲斐さんも広津さんのことを

ラジオとか地元のメディアとも上手く関係を保ち

柔軟で冷静な姿勢を貫きながら対応していた
と話されてます

ちなみに…

小宮さんは
後にサブマネージャーからマネージャーになられ

その次のマネージャー張田さんの下で
サブに着かれたのが中野茂樹さん

高校生の時に甲斐さんと
『ノーマンホィット・フィールド』を組んでおられた方です

照和には『野多目ジャグバンド』として出演され

博多での舞台挨拶の時に
甲斐さんと【HERO】を演奏しておられたそうだ

張田さんの次は『あかんべぇ』の秋吉さんで

その後、門田さんが
最後のマネージャーを勤められることになる


それはさておき…

照和のステージとコンサートの他に

地元メディアのアマチュア参加番組にも
演奏の場を求めたことが

結果、音楽を演っている学生たちの間に
口コミで照和の名前を浸透させることになったようだ


映画でイチローさんがおっしゃっていた通り

ラジオに出演したバンドが
照和で演奏していることを告げると

そのバンドを目当てに見に来たり
自分たちも照和に出演したいとやって来たり

互いに連動して照和は全盛期を迎えることになった


それ以前も、土・日は人気バンドの出演日とあって
狭い店内は客で溢れるので


チケットとドリンクの交換は店内ではなく

地下に降りる階段の途中で行われていたそうだけど

その階段にまで立ち見の客が陣取り
甲斐さんがおっしゃったように

建物の周りを行列が囲んでいたらしい

長岡さんによると…

オーディションの申し出が引きも切らず

最盛期は100組以上のバンドが
オーディション待ちをしていたそうだ(汗)

レギュラーと言えども
常に努力、練習をしなければ

その座をいつ奪われるか判らない状態だったという(汗)

森山達也さんも映画の中で

オーディションに受かって、逆に大変でしたと
おっしゃってましたね

照和に出演しているかどうかで
そのバンドの信用度まで違っていたらしい(汗)


KBCの岸川さんいわく…

当時の照和は

若者たちが生演奏で腕を鍛え
お互い切磋琢磨できる場所だった

その地元メディアの話は、また次回で…(笑)
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