セイヤングの音源に1日遅れて届きました♪
3時間の長丁場ということなので、甲斐さんのご出演部分だけサクッと…(笑)
「甲斐さんとチャンとまともに話すのは初めて…緊張してる」とおっしゃる
湯川さんのラブリーパートナーは萩原健太さん
甲斐さん、甲斐バンドファンの方にはお馴染みの方ですよね(笑)
「(甲斐さんとは)親しくさせて頂いてます
一緒に番組に関わらせて頂いたことがあって…」と話されてたけど
萩原さんが、初めてサンストに登場なさった時
それ以前に甲斐さんを取材された記事で
印象的な(笑)その「お名前」には覚えがあったものの
「えっ、ゲスト?なに?」と萩原さんの番組でのお立場が
よく掴めなかった奧さん(苦笑)
回を重ねるごとに、音楽はもちろん
甲斐さんが「訊けば何でも答えてくれる」とおっしゃるほど
さまざまな物事に通暁され
独自の見解をお持ちの萩原さんのお話が楽しみになったという
ただ「酒場にて…」だったか?チラッとご紹介したように
甲斐さんいわく…俺は、仲間がしようがないです(笑)
いると盛り上がる田中一郎、萩原健太と行ってごらん
もう、うるさい、うるさい
たまたま女が加わってたとしたらもう(笑)
ともあれ、この番組中は素面でいらしたでしょうし(笑)
ナイスアシスト連発でしたよね(笑)
話のとっかかりは、皆さんよくご存知のご幼少期の甲斐さんの音楽体験
「物心ついた時に家で音楽がかかってたんで…」から…
「小1の時にハリー・ベラフォンテ・ライブのマティルダを聴いて
コール&レスポンス、あれが物凄く印象的で
歌わせる人もスゴイし、歌う客もスゴイ
そういうのをチャンとライブで…っていうのが一番ショックだった
今もたぶん引きずってると思う」と甲斐さん
今や、放っておいても勝手に歌う観客に囲まれておられます(笑)
お父様が「夜な夜な9時頃に、そっと店を出て行って
キャバレーで演奏してた」とか
「(朝の5時くらいから流される)FENが
ガンガンかかってる環境だった」とか
「小学校の高学年から生ギターを弾き始めましたけど
ホントは、たまたまミュージシャンになったんです」と話されると
「一回ちゃんと就職したんですよ、これでも(笑)」
…って、甲斐さんじゃなくて萩原さんがおっしゃってました(笑)
甲斐さんは「4ヶ月ね(笑)」と笑いを含んだ声で
「2ヶ月勤めて向いてないなあ(笑)
向いてないのがそのままやってると周りに迷惑(笑)
夏のボーナス貰う前に辞めないとなあ」と…(笑)
萩原さんが「前に歌ってた照和にまた出るように…」と振られ
「高2になろうとする春休みから1年くらい出てた」照和に
甲斐さんが復帰なさった頃には
チューリップや海援隊が出演されてたとお聴きになって
湯川さんが「ロックからちょっと離れてますよね?」と訊ねられ
甲斐さんいわく…(当時の)海援隊はロックバンドなんですよ(笑)
ジャックスのコピーとかやってて…
そのドラムをチューリップの財津さんが引き抜いたんで
チューリップはロックバンドになり
海援隊はフォークバンドになった(笑)
まあ~小さな街の紆余曲折がありますよねぇ(笑)
「別にミュージシャンにならなくても良かったんですけど
早く自立して食いたいなと思ってたんで
その手段がそこだったんで結果的に…」と甲斐さん
湯川さんから「じゃあ、ひょっとしたら
萩原健太さん(みたいな音楽評論家)になってたかも?」と訊かれて(笑)
「東京の人には敵わないですよね」と(多分?萩原さんに向かって)
「上手く入って来れますもんね(笑)業界に…
博多は誰かの弟子にならないとムリ(笑)」
高校時代に照和に出演されてた頃は、CCRやCSN&Yのコピー…
「そういうマニアックな曲ばかり(笑)」歌われてたので
「ファンは全部、予備校のムサイ男達ばっかり(笑)
キャーッ!という声は、とんとありませんでした(笑)」
「キャーッ!になったのは、旅行会社を辞めて
オリジナル書くようになってから…
だから、オリジナルでないとダメなんですよ」と話されてましたが
これは、チューリップ・海援隊デビュー後の照和を盛り上げるために
「ここでしか聴けない」という武器を
手に入れようとなさったのはもちろん
だけど
「オリジナルを書くと女の子にモテるよ♪」と
囁かれた方がいらしたことも大きかったんじゃないかと…(笑)
ともあれ、甲斐さんが「当時の思い出の1曲」に挙げられたのは
CSN&Yの「オハイオ」
この曲について、萩原さんが
「1970年5月にケント州立大学で反戦集会があった時に
州兵が発砲してしまって、4人の学生が亡くなった
Four dead in Ohioって記事をニールヤングが読んで、速攻作った」
…と説明なさってましたが
甲斐さんはその話を相槌を打ちながら聴かれた後
「声もそうですけど、ギターも含めて怒りが…」と
この曲にこめられたニールヤングの思いが
演奏に全て表れているという意味でおっしゃったんだと聴いていたら
急に「小5くらいにジョン・F・ケネディが亡くなった」と
下校中、風に吹かれたビラが足に巻きついて、それが号外だったこと
「家に帰ったら、お袋が号外を置いて目で教えてくれた」ことを
早口で興奮気味に話され
「ああ、もうこれから絶対、時代が変わると思った
ホントにそこからロックが劇的に変わって行くんで…」と…
ボクもその当時のことは勿論覚えてますが
「わあ、大変だ!」と思っただけで
とても甲斐さんのようには考えられなかったなあと…(苦笑)
でも、萩原さんも「ロックはそういうものに
ビビッドに反応する音楽だってことを教えてくれた」と話されてました
「その代表」という「オハイオ」が流れた後
湯川さんが、オフマイク中の話が面白いと
甲斐さんがボブ・ディランの話をなさってたとおっしゃって
「そこまで聴き込んでいらしたのね(笑)
でも、人の曲ばっかり聴いてると自分で書きたくなるでしょ?」と訊ねられ
甲斐さんは「自分で歌い出して、人前で歌ったっていうところから
発奮して行って…というか刺激を受けて
そうじゃないと多分書かなかったかも知れない」と答えておられたけど
それはプロになられてからもずっと
「ライブで、生きた観客の前でその反応を見ないと
レコーディングしただけでは曲は完成しない」と話されてますよね
「歌うからには自分の言葉で、自分のメロディじゃないとダメなんだなって
1年間コピー歌ってて判って…
結局、自分の言葉を持つかどうかじゃないですか
湯川さんみたいに原稿書いてらっしゃる方も全部そうだと思うんですけど
最初の2行でコイツ誰って判る(笑)」
この甲斐さんの言葉に湯川さんが
「最初の2行で聴かせる歌、ホントすごい!
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように…とか
今はもう秋 誰もいない海…とか、雪は降る あなたは来ない…って
全部それで世界が完結しちゃってる」と反応なさってました(笑)
「そこがまだ私できない」という湯川さんに
甲斐さんは「何を言ってるんですか?!(笑)」とおっしゃったり
報知新聞の湯川さんのコラム…
(ご本人によると、あんなちっちゃい(笑)
…を読まれていることを話されたり
博多の洋楽少年でいらした頃から
様々な記事やラジオで湯川さんに接して来られたんだろうなってことが
にじみ出て伝わって来る感じでした♪
3時間の長丁場ということなので、甲斐さんのご出演部分だけサクッと…(笑)
「甲斐さんとチャンとまともに話すのは初めて…緊張してる」とおっしゃる
湯川さんのラブリーパートナーは萩原健太さん
甲斐さん、甲斐バンドファンの方にはお馴染みの方ですよね(笑)
「(甲斐さんとは)親しくさせて頂いてます
一緒に番組に関わらせて頂いたことがあって…」と話されてたけど
萩原さんが、初めてサンストに登場なさった時
それ以前に甲斐さんを取材された記事で
印象的な(笑)その「お名前」には覚えがあったものの
「えっ、ゲスト?なに?」と萩原さんの番組でのお立場が
よく掴めなかった奧さん(苦笑)
回を重ねるごとに、音楽はもちろん
甲斐さんが「訊けば何でも答えてくれる」とおっしゃるほど
さまざまな物事に通暁され
独自の見解をお持ちの萩原さんのお話が楽しみになったという
ただ「酒場にて…」だったか?チラッとご紹介したように
甲斐さんいわく…俺は、仲間がしようがないです(笑)
いると盛り上がる田中一郎、萩原健太と行ってごらん
もう、うるさい、うるさい
たまたま女が加わってたとしたらもう(笑)
ともあれ、この番組中は素面でいらしたでしょうし(笑)
ナイスアシスト連発でしたよね(笑)
話のとっかかりは、皆さんよくご存知のご幼少期の甲斐さんの音楽体験
「物心ついた時に家で音楽がかかってたんで…」から…
「小1の時にハリー・ベラフォンテ・ライブのマティルダを聴いて
コール&レスポンス、あれが物凄く印象的で
歌わせる人もスゴイし、歌う客もスゴイ
そういうのをチャンとライブで…っていうのが一番ショックだった
今もたぶん引きずってると思う」と甲斐さん
今や、放っておいても勝手に歌う観客に囲まれておられます(笑)
お父様が「夜な夜な9時頃に、そっと店を出て行って
キャバレーで演奏してた」とか
「(朝の5時くらいから流される)FENが
ガンガンかかってる環境だった」とか
「小学校の高学年から生ギターを弾き始めましたけど
ホントは、たまたまミュージシャンになったんです」と話されると
「一回ちゃんと就職したんですよ、これでも(笑)」
…って、甲斐さんじゃなくて萩原さんがおっしゃってました(笑)
甲斐さんは「4ヶ月ね(笑)」と笑いを含んだ声で
「2ヶ月勤めて向いてないなあ(笑)
向いてないのがそのままやってると周りに迷惑(笑)
夏のボーナス貰う前に辞めないとなあ」と…(笑)
萩原さんが「前に歌ってた照和にまた出るように…」と振られ
「高2になろうとする春休みから1年くらい出てた」照和に
甲斐さんが復帰なさった頃には
チューリップや海援隊が出演されてたとお聴きになって
湯川さんが「ロックからちょっと離れてますよね?」と訊ねられ
甲斐さんいわく…(当時の)海援隊はロックバンドなんですよ(笑)
ジャックスのコピーとかやってて…
そのドラムをチューリップの財津さんが引き抜いたんで
チューリップはロックバンドになり
海援隊はフォークバンドになった(笑)
まあ~小さな街の紆余曲折がありますよねぇ(笑)
「別にミュージシャンにならなくても良かったんですけど
早く自立して食いたいなと思ってたんで
その手段がそこだったんで結果的に…」と甲斐さん
湯川さんから「じゃあ、ひょっとしたら
萩原健太さん(みたいな音楽評論家)になってたかも?」と訊かれて(笑)
「東京の人には敵わないですよね」と(多分?萩原さんに向かって)
「上手く入って来れますもんね(笑)業界に…
博多は誰かの弟子にならないとムリ(笑)」
高校時代に照和に出演されてた頃は、CCRやCSN&Yのコピー…
「そういうマニアックな曲ばかり(笑)」歌われてたので
「ファンは全部、予備校のムサイ男達ばっかり(笑)
キャーッ!という声は、とんとありませんでした(笑)」
「キャーッ!になったのは、旅行会社を辞めて
オリジナル書くようになってから…
だから、オリジナルでないとダメなんですよ」と話されてましたが
これは、チューリップ・海援隊デビュー後の照和を盛り上げるために
「ここでしか聴けない」という武器を
手に入れようとなさったのはもちろん
だけど
「オリジナルを書くと女の子にモテるよ♪」と
囁かれた方がいらしたことも大きかったんじゃないかと…(笑)
ともあれ、甲斐さんが「当時の思い出の1曲」に挙げられたのは
CSN&Yの「オハイオ」
この曲について、萩原さんが
「1970年5月にケント州立大学で反戦集会があった時に
州兵が発砲してしまって、4人の学生が亡くなった
Four dead in Ohioって記事をニールヤングが読んで、速攻作った」
…と説明なさってましたが
甲斐さんはその話を相槌を打ちながら聴かれた後
「声もそうですけど、ギターも含めて怒りが…」と
この曲にこめられたニールヤングの思いが
演奏に全て表れているという意味でおっしゃったんだと聴いていたら
急に「小5くらいにジョン・F・ケネディが亡くなった」と
下校中、風に吹かれたビラが足に巻きついて、それが号外だったこと
「家に帰ったら、お袋が号外を置いて目で教えてくれた」ことを
早口で興奮気味に話され
「ああ、もうこれから絶対、時代が変わると思った
ホントにそこからロックが劇的に変わって行くんで…」と…
ボクもその当時のことは勿論覚えてますが
「わあ、大変だ!」と思っただけで
とても甲斐さんのようには考えられなかったなあと…(苦笑)
でも、萩原さんも「ロックはそういうものに
ビビッドに反応する音楽だってことを教えてくれた」と話されてました
「その代表」という「オハイオ」が流れた後
湯川さんが、オフマイク中の話が面白いと
甲斐さんがボブ・ディランの話をなさってたとおっしゃって
「そこまで聴き込んでいらしたのね(笑)
でも、人の曲ばっかり聴いてると自分で書きたくなるでしょ?」と訊ねられ
甲斐さんは「自分で歌い出して、人前で歌ったっていうところから
発奮して行って…というか刺激を受けて
そうじゃないと多分書かなかったかも知れない」と答えておられたけど
それはプロになられてからもずっと
「ライブで、生きた観客の前でその反応を見ないと
レコーディングしただけでは曲は完成しない」と話されてますよね
「歌うからには自分の言葉で、自分のメロディじゃないとダメなんだなって
1年間コピー歌ってて判って…
結局、自分の言葉を持つかどうかじゃないですか
湯川さんみたいに原稿書いてらっしゃる方も全部そうだと思うんですけど
最初の2行でコイツ誰って判る(笑)」
この甲斐さんの言葉に湯川さんが
「最初の2行で聴かせる歌、ホントすごい!
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように…とか
今はもう秋 誰もいない海…とか、雪は降る あなたは来ない…って
全部それで世界が完結しちゃってる」と反応なさってました(笑)
「そこがまだ私できない」という湯川さんに
甲斐さんは「何を言ってるんですか?!(笑)」とおっしゃったり
報知新聞の湯川さんのコラム…
(ご本人によると、あんなちっちゃい(笑)
…を読まれていることを話されたり
博多の洋楽少年でいらした頃から
様々な記事やラジオで湯川さんに接して来られたんだろうなってことが
にじみ出て伝わって来る感じでした♪