ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIKその8

2016-01-26 09:31:20 | 日記
1977年4月25日の上野市産業会館は
佐藤剛さんが甲斐バンドのマネージャーになられて
「初めてついたコンサート」そうですが

26日の福井、27日の金沢にも同行され
エレベーターのないホールの5階まで
スタッフの方が器材を階段で運ばれるのをご覧になって
「ヘビーな仕事だなあと思いましたね」とおっしゃってます(汗)

佐藤さんが、音楽業界誌「ミュージック・ラボ」の編集記者を辞め
フリーになられる際に、レコード会社やプロダクション
何人かのアーティストからオファーがあった中で
「一番条件が悪かった」甲斐バンドを選ばれたのは

「そういうことで測ることの出来ないバンドなんじゃないかという
気持ちが強かった」からで
「契約マネージャー」との肩書きは
「僕の希望でもあったんです
甲斐バンドと一緒にやりたいとは思ったけど
シンコー・ミュージックに入りたい訳じゃなかった」と話されてますが

「バンド側が勝手に人を増やしてしまった(笑)」ので
「契約料の半額をシンコーが払い、残りはバンドが経費として出す」という
「異例の」契約形態には
「慣習破りのレッテルがついていた」んだとか…(笑)

78年1月8日新宿ルイードの取材メモによると…
年明け1回目。この翌日、甲斐よしひろは
「ライブ・サーカス&サーカス」のカッティングに立ち会い
その翌日、ソロLPのためナッシュビルに出発

ディレクターはおらず、現地で作ってから
レコード会社を探すやり方だったと書かれてるんだけど
この時も「ソロアルバムを別のレコード会社から出すことなど有り得ない」とか
「甲斐バンド解散か?」などと騒がれたみたいだし

「誰もやったことがないこと」は「ライブ」だけでなく
業界の「ならわし」でも色々あったんでしょうね?(笑)

ともあれ、前回ご紹介したような
当時の甲斐バンドのコンサートをご覧になって
佐藤さんは「違う、どこか違う」と言い続けておられ

「女子供のバンドっていう蔑視を取り払いたかった
女の子のファンが多いことと
女子供向けのバンドということは違うんだと判らせたかった」そうですが

ナッシュビルに同行され、マネージャーとしての関わり方が明確になり
「甲斐の歌、音楽、バンドの像に僕を重ね合わせていって
より多くの人に正当な評価をして貰いたい
バンドの性格がキチンと反映された曲がヒットさえすれば
状況はガラリと変わると思ってました」と…

甲斐さんが「翼あるもの」を作られた経験をバンドに還元され
ロック色の強い「誘惑」が誕生して
その後のライブの質が変わって行ったみたいだし
この機関紙にも(HEROの前と後というより)
「誘惑以前と以後って分け方も出来そうだ」と書かれてます

ちなみに、この年9月頃のスタッフノートには
連日、客席の男女比が書き込まれていたそうで
「16日水戸・男25女75、22日山梨・男25女75
28日銚子・男40女60、29日大宮・満員・男5%女95%!(笑)」
…別に銚子の人口割合では男性が多くて
大宮は少ないってことではないですよね?(笑)

それはさておき…78年は、4月と5月に2回の九州ツアーがあったようで
4月23日福岡市民会館は「交通ストとハチ合わせ
次の日の予定が決まらないままスト突入

24日の長崎から熊本へは列車を使わず、フェリー、レンタカーで移動
26日の熊本から鹿児島への移動は
人吉の大森信和の(ご実家の)旅館に寄り
一服してからという忙中閑ありの予定変更」と書かれてるし

その鹿児島終了後、中2日で名古屋
そのまま5月に入り
「26日間で19本という強行ステージ(汗)6連チャンという日程もあった
毎日2時間以上のステージ(汗)」って
奧さんに聞いてた以上にハードだったんだ…と改めて実感

当時の「追っかけ」の方々には
経済力以上に体力が必要だったでしょうね(汗)

さらに「24日の大分ライブの日、佐藤剛の父親が死亡
ロックバンドのスタッフは、親の死に目にも会えない」と…(汗)

甲斐さんが神戸でライブ中に
「親父が危篤だという連絡があった」とおっしゃった時も
「今夜も目一杯やるから」との言葉通り
最後まで熱いステージを見せて下さったそうだけど
ホントにキツイお仕事ですねぇ…

年末の福岡電気ホールでのライブは
「事故でPAが8時間遅れの夕方5時に到着したため
リハーサルなしのぶっつけ本番でスタートした」らしく(汗)

そのせいかどうか?翌日のクリスマス・イブに
ライブ・スケジュール一覧にはない「八幡市民会館」の文字が…?!
急遽「やるぞ!」ってことになったという可能性もなきにしもあらず?(笑)

他にもこの年には、日比谷野音があったり
それを中島みゆきさんが初めて見に来られたり
10月5日大垣市民会館のライブ後に
旅館で「HERO」を作られたりと
様々な出来事があったみたいですが
あとひとつ印象的だったのは…

78年3月9日高松市民会館に
「現在の照明チーフの前島さんが初めて甲斐バンドを見に来た
前島さんはこの時、キャンディーズの照明を担当
後楽園のさよならコンサートに向けてフィーバー中だった(笑)」

…と記されてるんだけど、3月16日郵便貯金ホールでは
「キャンディーズから解放されたばかりの前島チームがこの時から担当」
…って、早くね⁉(笑)

武石さんから「甲斐バンドを見て欲しい」と頼まれ、高松に行かれた際には
「イモなバンドだと思ったんです、悪いけど(笑)
で、逆に、俺ならこうするっていうのが沢山あった
それがやりがいになりそうだって感じだったんです」と前島さん

「余程のことがないと楽譜を見ない」
「自分の身体とカンで(プランを)作っていく」方らしいので
高松のステージをご覧になりながら
1曲1曲考えていらしたのかも知れませんが

「ポップコーン…」のストロボのカットアウトのタイミングを掴むために
甲斐さんが何度もギターを弾かれ「ハイここ」と繰り返されても

「俺は音楽はシロートだからさ
ともかく演奏終わったら消すよって(笑)
大将もガックリ来てたみたいだったけどね(笑)」とおっしゃってるし
見切り発車のぶっつけ本番に近かったんじゃないかと…(笑)

高松と東京の両方をご覧になった方がいらしたら
どんな照明で、どこがどう変わっていたのか
それに気づかれたかどうか、お訊きしてみたいです(笑)

ちなみに…「PAは2月13日のルイードから日比野チームが担当しており
現在のステージスタッフの形はこの時に出来上がった」らしい

そうそう!5月3日の渋公で
「ステージに初めてミラーボールが衝撃的に登場した」と書かれてるんですが
その直前4月末あたりのセトリを見ると
アンコールの「この夜にさよなら」で使われたのかなあと…?
「100万$ナイト」が初めてじゃなかったんですね






コメント
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