前回ご紹介した「出発コンサート」は
甲斐バンドとしての第一歩だったんですが
データに残されている本当の「初ステージ」は
約1ヶ月前の1974年7月30日倉敷市民会館らしく
その翌日の大阪から23日の宮崎まで、5本のステージをこなされています
これは、出来立てホヤホヤのバンドに
コンサートの雰囲気を味わわせておこうという事務所側の配慮で
チューリップのツアーに同行したものだったんだとか…
ただ、この配慮が「チューリップの弟バンド」というイメージに繋がり
後の神田共立講堂に結びついてしまうんですよねぇ…(汗)
出発コンサートのゲストにチューリップが登場された時も
甲斐さんの声が聞こえないくらいの大歓声だったし…(苦笑)
ともあれ、博多時代にも門田一郎さんが
スタジオで猛練習を繰り返す甲斐バンドを心配なさって
観客の前で演奏することに馴れさせようと
南九州ツアーに誘われたことがあったり
エレキに持ちかえたばかりのリードギタリストもさりながら
ついこの前までリードギタリストだったドラマーを
不安に思われた方も少なくなかったみたいで(失礼!)
サンデーフォークの桑原宏司さんは
当時、ご自身のバンドでドラムを担当なさっていたこともあり
東海ラジオの公録で初めて甲斐バンドをご覧になった時に
「松藤ばかり見ていた
余りうまくなかったのでドラムの叩き方を教える風な話をした」と…(笑)
でもその後、スタッフとして豊橋でのステージをご覧になり
「ハッキリこれはモノになると確信できた」そうだし
名古屋市民会館では「ここまで来たと涙が出た
感動してしまって、気づいた時には警備しきれないくらいになってて
胃が痛くなって倒れてしまった(汗)
壮絶に感動的だったんだよ」と話されてます
以前に甲斐さんが東海ラジオの「聞いてみや~ち」で
「松藤にドラムを教えたイベンターがいる」とおっしゃってましたよね(笑)
その桑原さんがご覧になった公録番組の加藤ディレクター?は
ハッピーフォークの全国大会で審査員を務めておられ
「甲斐のアマチュアとは思えないふてぶてしさと生意気さに(笑)
何だ?!と思いながら圧倒された」そうで
「名古屋出身のバンドに最高点をつけてたんだけど
九州代表で甲斐が出てブッ飛んじゃって
これを1位にしないと僕のプライドが許さない(笑)って1位にした」んだとか…
でも、上記のラジオ番組の際には
「ふてぶてしさよりも、可愛らしい感じがしていた(笑)
やはり、プロになったプレッシャーがあったんだろうね
どこかオドオドした感じで
今とは別人のようだけど…(笑)」とおっしゃってます(笑)
ちなみに…その時の演奏曲は、魔女の季節
No.1のバラード、スウィート・キャンディ、あの頃、バス通り…で
奧さんによれば、当時まだアルバムに収録されてなかった
スウィート・キャンディは秘かな人気曲だったそうだ(笑)
その半年後に再び、ハイ・ファイ・セットと共にゲストに招かれた際には
トリを甲斐バンドになさったらしく
「甲斐もビックリしてたし、ハイファイの方は憮然としてた
でも、演ってみて、僕の直感は間違ってなかったからね」と加藤さん
観客の前で生で演奏し歌う時の甲斐バンドの魅力を
いち早く見抜いておられたんでしょうね?
それはさておき、吉田昌佐美さん(BEATNIK編集部)によると…
初期の甲斐バンドのコンサートには、カセットテープだけでなく(笑)
「甲斐さんに当たると可哀想だから(笑)
芯を抜いた紙テープを抱えていく」のがフツーだったようですが(笑)
田家さんも亀和田さんも
チャンとホールでのライブをご覧になったのは、79年の3月で
「もうその頃にはテープなんか飛んでなかった」と…
もっとも、地方ではまだ乱れ飛んでたみたいだけど(笑)
でも、甲斐さんが何かおっしゃったんじゃなく
いつの間にか?その習慣はなくなって
奧さんも自然と紙テープに金紙銀紙を巻き込む作業をしなくなったという
当時は「会場が汚れて、床が下がるバンド」として
悪名をとどろかせておられたようで(苦笑)
奧さんは偶然、甲斐さんのギターのネックにかかったテープだけ
慎重に回収して大事に保管したみたいだけど(苦笑)
吉田さんは後片付けを手伝われたことがおありらしいです
「プロマイドなんかないバンドだったし(笑)
雑誌だってそんなに滅多に載らなかったから
自分で撮った写真が生命だった」っていうのも
奧さんの「三種の神器(笑)」話と同じなんですが
地方在住の小~中学生が、そうそうライブに行ける訳もなく
「2部構成で3時間くらいやってた」とか
「甲斐さんが生ギターを持ってて
ほのぼのとしたアコースティックな雰囲気だった」とか
「ほとんど話さない人だという印象があった」との証言に驚いたらしい
ただ、途中の大森さんのソロタイムには
甲斐さんがステージを下がられることや
アンコールで発売前の新曲を歌われたり
急に予定にない曲を歌うと宣言なさって、メンバーの皆さんを慌てさせたり(笑)
「週末とテレフォン・ノイローゼのどっちがいい?」ではなかったものの
「何でも好きな曲言ってみて(笑)
俺が歌いたいと思ったら歌うから」と
リクエストに応えてもらったり
「誘惑」をリリースされた後から
「コンサートがどんどん凄くなっていった」というのは経験済みなんだとか…(笑)
このVol.14と翌月のVol.15には「取材メモ」として
ライブの印象的な出来事やエピソードが紹介されてるんだけど
78年8月5日の札幌市民会館では…
甲斐よしひろが「サルビアの花」を歌った後
打ち合わせもなしに「二色の灯」をやろうと言い出し(笑)
戸惑う大森信和に「同じバンドの仲間だからといって
定められた日常の通りにステージが動くと思ったら大間違いだ」とゲキ(笑)
大森信和は何とか、これを弾きこなした…と書かれてるし
この手のサプライズは珍しくなかったんでしょうか?(笑)
ともあれ「あんまり昔の話ばかりだと
終わったみたいな気になっちゃうんじゃないかな?」と吉田さん
でも、田家さんも亀和田さんも
「前から聴いてるから偉いとか
最近だから恥ずかしいってことじゃなくて
ただ、前はこうでした…というのを
見た人が見てない人に伝える必要はあると思うんだよね」とおっしゃってます
…という訳で、次回は「取材メモ」を中心にご紹介しますね…たぶん…(笑)
甲斐バンドとしての第一歩だったんですが
データに残されている本当の「初ステージ」は
約1ヶ月前の1974年7月30日倉敷市民会館らしく
その翌日の大阪から23日の宮崎まで、5本のステージをこなされています
これは、出来立てホヤホヤのバンドに
コンサートの雰囲気を味わわせておこうという事務所側の配慮で
チューリップのツアーに同行したものだったんだとか…
ただ、この配慮が「チューリップの弟バンド」というイメージに繋がり
後の神田共立講堂に結びついてしまうんですよねぇ…(汗)
出発コンサートのゲストにチューリップが登場された時も
甲斐さんの声が聞こえないくらいの大歓声だったし…(苦笑)
ともあれ、博多時代にも門田一郎さんが
スタジオで猛練習を繰り返す甲斐バンドを心配なさって
観客の前で演奏することに馴れさせようと
南九州ツアーに誘われたことがあったり
エレキに持ちかえたばかりのリードギタリストもさりながら
ついこの前までリードギタリストだったドラマーを
不安に思われた方も少なくなかったみたいで(失礼!)
サンデーフォークの桑原宏司さんは
当時、ご自身のバンドでドラムを担当なさっていたこともあり
東海ラジオの公録で初めて甲斐バンドをご覧になった時に
「松藤ばかり見ていた
余りうまくなかったのでドラムの叩き方を教える風な話をした」と…(笑)
でもその後、スタッフとして豊橋でのステージをご覧になり
「ハッキリこれはモノになると確信できた」そうだし
名古屋市民会館では「ここまで来たと涙が出た
感動してしまって、気づいた時には警備しきれないくらいになってて
胃が痛くなって倒れてしまった(汗)
壮絶に感動的だったんだよ」と話されてます
以前に甲斐さんが東海ラジオの「聞いてみや~ち」で
「松藤にドラムを教えたイベンターがいる」とおっしゃってましたよね(笑)
その桑原さんがご覧になった公録番組の加藤ディレクター?は
ハッピーフォークの全国大会で審査員を務めておられ
「甲斐のアマチュアとは思えないふてぶてしさと生意気さに(笑)
何だ?!と思いながら圧倒された」そうで
「名古屋出身のバンドに最高点をつけてたんだけど
九州代表で甲斐が出てブッ飛んじゃって
これを1位にしないと僕のプライドが許さない(笑)って1位にした」んだとか…
でも、上記のラジオ番組の際には
「ふてぶてしさよりも、可愛らしい感じがしていた(笑)
やはり、プロになったプレッシャーがあったんだろうね
どこかオドオドした感じで
今とは別人のようだけど…(笑)」とおっしゃってます(笑)
ちなみに…その時の演奏曲は、魔女の季節
No.1のバラード、スウィート・キャンディ、あの頃、バス通り…で
奧さんによれば、当時まだアルバムに収録されてなかった
スウィート・キャンディは秘かな人気曲だったそうだ(笑)
その半年後に再び、ハイ・ファイ・セットと共にゲストに招かれた際には
トリを甲斐バンドになさったらしく
「甲斐もビックリしてたし、ハイファイの方は憮然としてた
でも、演ってみて、僕の直感は間違ってなかったからね」と加藤さん
観客の前で生で演奏し歌う時の甲斐バンドの魅力を
いち早く見抜いておられたんでしょうね?
それはさておき、吉田昌佐美さん(BEATNIK編集部)によると…
初期の甲斐バンドのコンサートには、カセットテープだけでなく(笑)
「甲斐さんに当たると可哀想だから(笑)
芯を抜いた紙テープを抱えていく」のがフツーだったようですが(笑)
田家さんも亀和田さんも
チャンとホールでのライブをご覧になったのは、79年の3月で
「もうその頃にはテープなんか飛んでなかった」と…
もっとも、地方ではまだ乱れ飛んでたみたいだけど(笑)
でも、甲斐さんが何かおっしゃったんじゃなく
いつの間にか?その習慣はなくなって
奧さんも自然と紙テープに金紙銀紙を巻き込む作業をしなくなったという
当時は「会場が汚れて、床が下がるバンド」として
悪名をとどろかせておられたようで(苦笑)
奧さんは偶然、甲斐さんのギターのネックにかかったテープだけ
慎重に回収して大事に保管したみたいだけど(苦笑)
吉田さんは後片付けを手伝われたことがおありらしいです
「プロマイドなんかないバンドだったし(笑)
雑誌だってそんなに滅多に載らなかったから
自分で撮った写真が生命だった」っていうのも
奧さんの「三種の神器(笑)」話と同じなんですが
地方在住の小~中学生が、そうそうライブに行ける訳もなく
「2部構成で3時間くらいやってた」とか
「甲斐さんが生ギターを持ってて
ほのぼのとしたアコースティックな雰囲気だった」とか
「ほとんど話さない人だという印象があった」との証言に驚いたらしい
ただ、途中の大森さんのソロタイムには
甲斐さんがステージを下がられることや
アンコールで発売前の新曲を歌われたり
急に予定にない曲を歌うと宣言なさって、メンバーの皆さんを慌てさせたり(笑)
「週末とテレフォン・ノイローゼのどっちがいい?」ではなかったものの
「何でも好きな曲言ってみて(笑)
俺が歌いたいと思ったら歌うから」と
リクエストに応えてもらったり
「誘惑」をリリースされた後から
「コンサートがどんどん凄くなっていった」というのは経験済みなんだとか…(笑)
このVol.14と翌月のVol.15には「取材メモ」として
ライブの印象的な出来事やエピソードが紹介されてるんだけど
78年8月5日の札幌市民会館では…
甲斐よしひろが「サルビアの花」を歌った後
打ち合わせもなしに「二色の灯」をやろうと言い出し(笑)
戸惑う大森信和に「同じバンドの仲間だからといって
定められた日常の通りにステージが動くと思ったら大間違いだ」とゲキ(笑)
大森信和は何とか、これを弾きこなした…と書かれてるし
この手のサプライズは珍しくなかったんでしょうか?(笑)
ともあれ「あんまり昔の話ばかりだと
終わったみたいな気になっちゃうんじゃないかな?」と吉田さん
でも、田家さんも亀和田さんも
「前から聴いてるから偉いとか
最近だから恥ずかしいってことじゃなくて
ただ、前はこうでした…というのを
見た人が見てない人に伝える必要はあると思うんだよね」とおっしゃってます
…という訳で、次回は「取材メモ」を中心にご紹介しますね…たぶん…(笑)