前回ご紹介した「オケピが落ちた」サンケイホールには
イチローさんがゲスト出演されていたらしいんだけど
その日のセトリを見ると…アンコールでナゼか「銀座カンカン娘」が?!
しかも「サイクリング・ブギ」と
「喫茶店で聞いた会話」を間に挟むメドレー方式で…(笑)
照和時代のレパートリーだったんでしょうか?(笑)
その後に「テレ・ノイ」
ラストは「グッド・ゴリー・ミス・モリー」となってるんですが
「グッド・ゴリー」は、リトル・リチャード?ジェリー・リー・ルイス?
それとも、尾藤イサオさん?モップスのバージョンだったのか?
まさか安西マリアさんじゃないでしょ?(笑)
いずれにしても、Wミーニングの歌詞と取り沙汰された曲だし
甲斐さん、お好きそうですよね(笑)
このライブの直前に、大阪朝日放送の公録でも歌われてるのは
リハーサル代わりだったのかなあと…(笑)
ちなみに…初期のセトリには「カフェ・ル・モンドのメニュー」や
「京都」「忘れ得ぬ君」「花・太陽・雨」などの曲名がチラホラ…♪
デビュー当時は「持ち歌」もアルバム1~2枚分くらいだったでしょうし
イベント等で持ち時間が限られてる場合はいざ知らず
ワンマン・コンサートとなれば
カバー曲を歌われる機会が増えたようで
徳久広司さんとのジョイントでは
「ヘイ・ポーラ」と「砂山」をカバーされ
「バス通り」と「北へ帰ろう」をご一緒に歌われたらしいし
「翼あるもの」をリリースなさってからは
ほぼ全曲を披露されていたみたいですが
「サルビアの花」をアコギの弾き語りで歌われたのって
音源残ってないんでしょうか?(笑)
あっ、弾き語りといえば…
甲斐さんのお誕生日の翌日に京都でライブがあって
急に?(笑)「京都」を歌われたらしいんだけど
その時は、ご自身でチューニングなさってたそうです(笑)
それはさておき…取材メモによると
1980年、甲斐バンド春のツアー、6月16日大阪フェスティバル・ホールで
「漂泊者が初めてステージで演奏される」とありますが
ホントに突然歌うことになったみたいで(笑)
後に甲斐さんも「照明が何も出来なかったんだよね(笑)
まあ、次に歌った時にはチャンと考えて来てたけど(笑)」
…と、おっしゃったらしい…って、前島さんは悪くないでしょ?(笑)
12月9日の武道館は「ジョン・レノン死ス
逝ってしまったジョン・レノンのために…100万$ナイトが歌われた」
12月20日福岡九電体育館では
「甲斐よしひろが、ここでシカゴのコンサートを観た時…と
10代の時のコンサート体験について語る。思い入れすさまじ(笑)」
…って年末は、なんだかんだで福岡公演が多かったんですね(笑)
明けて81年3月3日の丹後文化会館は
「市になっていない町での初めてのコンサート
町の人口の2割近くが集まった」とか
4月14~15日の福井市文化会館は
「前年の5月に入り切れなかった客があまりに多かったため
異例の2日間コンサート。2日とも超満員だった」と記されてます
福井に関しては、ラジオのイベントの時にも
甲斐さんが「福井は2日連チャンだったんだよね」と話されてたそうだし
「人口8千人とか1万人って町で、2千人が集まることがスゴイと思う
何ヵ月も前からチケット買って待っててくれたのかって考えると
酒も控えめにしようと思うよね」と
「地方に住んでる若い奴らの方が、悶々として生きてる」ことを
おもんばかった言葉を口にされてたんだとか…
6月30日山梨県民会館は「春ツアーの最終日
後になって甲斐よしひろは、この頃が一番
自分自身のやりたいことが見えなくなっていた…と語っていた」
「アンコールの100万$もやらずに終えてしまった
夜、甲府の街で酔いつぶれた」と…
写真集「BEATNIK」に、井出情児さんが田家さんに促され
躊躇いながら撮られたその時の写真が掲載されてますが
同じホールで、甲斐さんが初めて客席にダイブなさったことで
観客の期待が高まっていたのが居たたまれなかったのでは?
…と、当時は言われてたらしいんだけど
他にも色々おありだったんですね…
イチローさんがゲスト出演されていたらしいんだけど
その日のセトリを見ると…アンコールでナゼか「銀座カンカン娘」が?!
しかも「サイクリング・ブギ」と
「喫茶店で聞いた会話」を間に挟むメドレー方式で…(笑)
照和時代のレパートリーだったんでしょうか?(笑)
その後に「テレ・ノイ」
ラストは「グッド・ゴリー・ミス・モリー」となってるんですが
「グッド・ゴリー」は、リトル・リチャード?ジェリー・リー・ルイス?
それとも、尾藤イサオさん?モップスのバージョンだったのか?
まさか安西マリアさんじゃないでしょ?(笑)
いずれにしても、Wミーニングの歌詞と取り沙汰された曲だし
甲斐さん、お好きそうですよね(笑)
このライブの直前に、大阪朝日放送の公録でも歌われてるのは
リハーサル代わりだったのかなあと…(笑)
ちなみに…初期のセトリには「カフェ・ル・モンドのメニュー」や
「京都」「忘れ得ぬ君」「花・太陽・雨」などの曲名がチラホラ…♪
デビュー当時は「持ち歌」もアルバム1~2枚分くらいだったでしょうし
イベント等で持ち時間が限られてる場合はいざ知らず
ワンマン・コンサートとなれば
カバー曲を歌われる機会が増えたようで
徳久広司さんとのジョイントでは
「ヘイ・ポーラ」と「砂山」をカバーされ
「バス通り」と「北へ帰ろう」をご一緒に歌われたらしいし
「翼あるもの」をリリースなさってからは
ほぼ全曲を披露されていたみたいですが
「サルビアの花」をアコギの弾き語りで歌われたのって
音源残ってないんでしょうか?(笑)
あっ、弾き語りといえば…
甲斐さんのお誕生日の翌日に京都でライブがあって
急に?(笑)「京都」を歌われたらしいんだけど
その時は、ご自身でチューニングなさってたそうです(笑)
それはさておき…取材メモによると
1980年、甲斐バンド春のツアー、6月16日大阪フェスティバル・ホールで
「漂泊者が初めてステージで演奏される」とありますが
ホントに突然歌うことになったみたいで(笑)
後に甲斐さんも「照明が何も出来なかったんだよね(笑)
まあ、次に歌った時にはチャンと考えて来てたけど(笑)」
…と、おっしゃったらしい…って、前島さんは悪くないでしょ?(笑)
12月9日の武道館は「ジョン・レノン死ス
逝ってしまったジョン・レノンのために…100万$ナイトが歌われた」
12月20日福岡九電体育館では
「甲斐よしひろが、ここでシカゴのコンサートを観た時…と
10代の時のコンサート体験について語る。思い入れすさまじ(笑)」
…って年末は、なんだかんだで福岡公演が多かったんですね(笑)
明けて81年3月3日の丹後文化会館は
「市になっていない町での初めてのコンサート
町の人口の2割近くが集まった」とか
4月14~15日の福井市文化会館は
「前年の5月に入り切れなかった客があまりに多かったため
異例の2日間コンサート。2日とも超満員だった」と記されてます
福井に関しては、ラジオのイベントの時にも
甲斐さんが「福井は2日連チャンだったんだよね」と話されてたそうだし
「人口8千人とか1万人って町で、2千人が集まることがスゴイと思う
何ヵ月も前からチケット買って待っててくれたのかって考えると
酒も控えめにしようと思うよね」と
「地方に住んでる若い奴らの方が、悶々として生きてる」ことを
おもんばかった言葉を口にされてたんだとか…
6月30日山梨県民会館は「春ツアーの最終日
後になって甲斐よしひろは、この頃が一番
自分自身のやりたいことが見えなくなっていた…と語っていた」
「アンコールの100万$もやらずに終えてしまった
夜、甲府の街で酔いつぶれた」と…
写真集「BEATNIK」に、井出情児さんが田家さんに促され
躊躇いながら撮られたその時の写真が掲載されてますが
同じホールで、甲斐さんが初めて客席にダイブなさったことで
観客の期待が高まっていたのが居たたまれなかったのでは?
…と、当時は言われてたらしいんだけど
他にも色々おありだったんですね…