1月17日。
忘れられない日です。
あの阪神淡路大震災が起きた日でした。
ここ数日、テレビでも、それに関する特集番組が各局で放送されています。
1995年(平成7年)のことでした。
あれから30年が経ったのですね。
僕たち家族が経験した地震の中でも、最も恐ろしかったのが、あの地震でした。早朝5時台に急にガタガタっと揺れだし、布団にしがみついて、生きた心地がしませんでした。それでも大阪の南部に位置するわが家の地域では、揺れは大きかったですが、それ以上のことはなく、すぐにつけたテレビでも、神戸の様子が映っていましたが、さほどの被害はないような報道でした。
で、その日は普通に勤務先の松原市役所に出勤して普通に仕事をしていたのですが、お昼休みに、職場でテレビを見て、飛び上がるほどの衝撃を受けたのでした。地震で高速道路が崩れ落ち、バスがもう少しで転落する映像など、目を疑うような映像が繰り返し報じられていたのです。
本当に、あの時は驚きました。
そして、その震災で、神戸を中心に6,000人以上の方々が亡くなられています。
今、モミィが住んでいる西宮市もその時に大きな被害を受け、1,000人以上の方々が亡くなられた、とのことです。
あれからもう30年が経ったなんて。
早いなぁ、と思いながら、当時のことが強烈に脳裏に浮かんできます。
このブログでも、何度かこのことを書きました。
それで、今年も阪神淡路大震災に関する記事を載せたいと思います。
………………………………………………………………………
当時から保存していた震災当時の新聞記事です。

1995年1月17日(地震当日)の夕刊一面。

同じ1月17日夕刊の社会面。
高速道路が途中で折れ、バスが落ちかけている写真もありました。
翌18日(水)朝刊。
地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街。

1月18日夕刊。
激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市街。

1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきました。
写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。

1月19日夕刊。
19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生しました。
(写真は、煙に包まれる高層ビル)
救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先しました。
生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったそうです。

1月20日(金)の朝刊。
写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたそうです。
新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開されました。

1月21日(土)朝刊。
当初、震度6と発表されていましたが、気象庁の詳しい調べで、
神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定されました。
僕が生まれた昭和24年に震度階級「7」が設けられて以来、実際に
震度7が確認されたのは、これが観測史上初めてということでした。
(16年後の2011年3月、東日本大震災の時の宮城県も震度7でした)

1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経ちました。
死者はついに5,000人を超えたと報じられました。
(最終的には6434人が亡くなられたとされています)
…という驚くべき記事の連続でした。
その後、2011年3月11には東日本大震災で1万5千人以上の方々が亡くなられました。
自然災害は本当に恐ろしい、
ということを改めて感じさせられます。