2011年もあと1日を残すだけとなった。
このブログも、数えてみたら、これが今年189本目の記事だ。
今年の最後は、やはり東日本大震災に関する話で締め括ることになる。
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東京新宿の「大将」との出会いは昭和44年8月、北海道の帯広駅前だった。
お互いに自転車旅行の途中で、たちまち意気投合し、ラーメン屋へ入った。
ラーメンを食べ終り、僕が財布をごそごそ取り出していると、
当時20歳だった僕より、何歳か年上の彼は「俺がおごるさ」
初対面なのに、そう言って気前よくご馳走してくれた。
黒いサングラスがよく似合い、格好よかった。
行く方向が一緒だったので、そこから2人で走った。
襟裳岬、苫小牧、函館と走り、本州に渡って下北半島の大間崎、
恐山、そして野辺地というところまで、9日間、2人で走った。
ある時、ボロボロの屋根付きのバス停で野宿した。
僕がベンチで、大将は下の地面で、寝袋にくるまって寝た。
夜中、僕がベンチから、大将の寝ているところへドス~ンと落ちた。
「いてぇ~~~」と大将が悲鳴を上げ、「ごめん~」と僕は両手を合わせた。
野辺地というところで道路は左右に分かれていた。
右は国道4号線で、青森市へ通じる道。
左へ行けば、三沢、八戸方面に続く。
大将は右へ行き、青森から日本海側を通ってはるか西日本へ向かう。
僕は左へ行き、太平洋側を通って東京から故郷の大阪へ向かう。
「…ここで、お別れだな。道中、気をつけてな」
「大将も、気をつけてね」
手を振り合い、右と左に分かれて、9日間の「ふたり旅」が終った。
42年前の出来事である。
その後大将は、宮城県石巻の女性と知り合い、結婚して石巻に住んだ。
「石巻で嫁さんの実家の花屋をしてるんだぜ。俺には似合わね~かなぁ」
そんなハガキが来て「ほんまに似合わんわ」と思ったことを覚えている。
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今年の3月11日。
あの東日本大震災と巨大津波で、石巻市も甚大な被害を受けた。
僕は大将に安否確認のメールを送ったが、返事は来なかった。
すると震災から9日後、僕の外出中に、大将から電話があった。
大将は、電話に出た僕の妻に、
「ご心配をかけていますが、当方はみんな無事です。
電話がつながらなかったので誰にも連絡できなかったのです。
1階の花屋は全滅ですが、2階でなんとか生活できています。
『新宿の大将はがんばってるぞ~』 と伝えておいてください」
と言ったそうである。 無事を聞き、やっと気持ちが落ち着いた。
しかし、その後も、当然ながら厳しい日々が続き、
その苦闘ぶりを如実に語るハガキを何度か受け取った。
僕はただ「頑張ってください!」と返事を書くぐらいのことしかできなかった。
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そして一昨日、「海藻紙」で出来た郵便はがきが届いた。
石巻からであった。
前略
先日、店の家屋修理が終りました。
あの日より9ヶ月が過ぎ、やっと完成です。
商売的には、かなり厳しいですが、
皆さんからのご支援に応える為にも、
奮闘努力・安定生活が我々の責務と自覚しております。
本当に有難うございました。
日々、寒くなります。御体、御自愛下さい。
来年は平穏な年であります様に…
筆ペンで丁寧に書かれたこのハガキには、万感の思いがこもっているだろう。
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このハガキのように、来年が平穏な年であるよう、心から願っています。
今年1年、このブログにお付き合いくださった皆さま方、ありがとうございました。
どうか、よいお年を~