東京都内の公立図書館などで何百冊もの「アンネの日記」や関連本が破られるという事件が起きている。最近は信じられない出来事が次々に起こるが、この事件などはその極めつけである。一体誰が、何のためにそんなことを…
「アンネの日記」は、多くの人たちがそうであるように、僕にとっても子どもの頃から、心の支えとなる一冊だった。世界中の子供たち、そして大人たちの心の中へ、生きることの大切さを永遠に呼びかける世界の宝物「アンネの日記」が、よりによってこの平和な国・日本で破られるとは、まさかの出来事である。日本の恥だろう…と誰もが思うはずだ。
犯人はまだ捕まっていない。こんな乱暴な手口なんだから、早々に見つかってもいいはずなんだけれど。とにかく一日も早く捕まえなければならない。
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今からちょうど20年前、僕が初めてヨーロッパへ旅行した時、最初に行った都市がオランダのアムステルダムだった。そしてまず見学に出かけたのが「アンネ・フランクの家」だった。少年時代からずっと行きたいと夢見ていた場所だ。その時の記録があるので、微力ながらアンネ・フランクに関して少しでも参考にしていただければと、今回のブログに掲載することにしました。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
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オランダのアムステルダムの運河の数は、イタリアのベネチアを上回り、大小合わせて165本もあるという。さらに、それにかかる橋が、1292 もあるのだそうだ(「JTBポケットガイド」による)。 まさに元祖・水の都である。
現在、僕が住んでいる大阪も、江戸時代から「浪花の八百八橋」と呼ばれた「水の都」だけれど、実際にはもちろん 808 も橋はない。だから、アムステルダムの、1292 という橋の実数は、僕たちには想像もつかないほどのスケールを感じさせる。
この運河のすぐそばに アンネ・フランクの家がある。
「アンネの日記」のアンネ・フランクの家は、その数多いアムステルダムの運河の一つの畔に建っている。彼女の一家は、ドイツ・ナチの迫害から逃れるために、1942年から2年間、この家の奥にひっそりと隠れ住んでいた。
このあたりは、17世紀にできた商館がぎっしりと並んでいる。かつて、この地方では、家の間口の広さに応じて家屋税が課せられる仕組みになっていたため、間口を狭くし、奥行きを長くする建築物が多かった。アンネ・フランクの一家が、2年間もナチスの目から逃れられたのは、そういう特殊な建物であったことも大きな要因であったと言われている。
地図をたどりながら、そこへ向かった。アムステルダム駅から、そんなに遠くないところに「アンネ・フランクの家」があった。
行ってみて驚いた。家の周りには、観光客がズラリと長蛇の列をなしていた。世界中のありとあらゆる国から、多くの人々が、「アンネの日記」を残した少女の「隠れ家」を見学にやって来るのだ。
ナチスがユダヤ人を虐殺した数は500万人とも600万人とも言われているが、わずか15歳でその生涯を閉じたアンネ・フランクは、その日記を残すことによって、いまも戦争と人種差別を告発し続け、世界中の人たちの心の中に生き続けていることが実感される光景であった。長い列の後ろに並び、胸が少し熱くなった。
大勢の人が見学のために並んでいる。
ここでアンネの家の近くにある「西教会」のことについて少し触れておきたい。
アンネ・フランクの家に行くためには、その西教会の前を通ることになるのだが、教会の正面にアンネの像があり、見学客たちはここでまず記念写真を撮ったりする。アンネの像の前には、花が添えてあったが、1年中、花は絶えることはないという。この西教会はアムステルダム市内で最も高い鐘楼を持つ教会でもあるそうだ。

西教会の前に立つアンネの像。
…さて、家の前で並ぶ観光客の長い列も少しずつ前に進み、ようやく順番がやって来て、家の中に入ると、前後左右にいる誰もが、神聖な場所の雰囲気を壊すことを避け合うように、そろりと静かに歩きながら、神妙な顔つきで家の奥へ奥へと吸い込まれて行った。
家の中では写真撮影が禁止されているので、残念ながら僕が撮った写真はない。(ネット上ではいろいろ出ていますので、関心のある方は検索してください)
僕は行列について歩いているだけなので、部屋ごとの構造が、いまイチどうなっているのかわからない。しかし、隠し扉になっている本棚へやって来たときには、さすがに緊張が高まった。この裏側が、アンネの一家が隠れ住んでいた部屋へつながって行くのだ。この奥の空間で、一家は、肩を寄せ合い、小さな音を立てることもしないように、息を殺すように毎日の生活を送っていたのである。
アンネが日記を書いていた屋根裏部屋は、立ち入り禁止になっていた。部屋に通じる短い階段の真上に大きな鏡が設置されていた。僕たち見学客は、階段の下からその鏡をあおぎ見て、そこに映し出されている屋根裏部屋の様子を、わずかに見ることができるのであった。
また少し進むと、小さな渡り廊下のような造りになっているところに出た。少し見上げる角度の場所に小窓があり、その窓から近くの教会の鐘楼が見えた。それが、あの西教会の鐘楼だったのだ。
アンネは、その日記の中で、時を打つ西教会の鐘の音に感激し、
「鐘の音がとても素敵に聴こえます。
とくに夜は、鐘の音が私に何か安らぎを与えてくれます」
と書いている。
2年間、外の世界から隔絶されたアンネは、この小窓から見える教会こそが、唯一の「風景」であり、安らぎであった。息を潜めながら生きてきた彼女は、常に発覚・逮捕という恐怖にさらされながらも、希望を失わず、この小さな窓から教会に向かって敬虔な祈りを捧げ続けたという。命の尊さ、魂の純粋さというものを改めて感じさせられた。
小窓から、その鐘楼が見えたときの光景を、僕は今でもはっきりと覚えている。写真が撮れなかったので、記憶の中にしかない光景だったけれど、今これを書くに際して、どうしてもその写真が欲しくて、あちらこちらのサイトを探しまくり、やっとその画像を探し当てることができた。個人のHPではなく、公のサイトだったので、ちょっと拝借してここに掲載させてもらうことにした。ちょうど、これと同じ角度で、窓からの教会の鐘楼を、僕は目にしたのである。アンネ・フランクが、毎日見ていたであろう窓からの教会の鐘楼であった。
窓から見える西教会の鐘楼 (資料写真)
アンネの一家は、1944年8月、不幸にも密告によってナチスに逮捕され、翌45年3月に、アンネは、ベルゲン・ベルゼン収容所で病死した。しかし、潜伏生活の中で、屋根裏部屋で書き綴られた彼女の日記は、戦後、生き残った父親オットーによって出版されて世紀のロングセラーになり、人類の貴重な遺産となった。
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「アンネの日記」が発刊されたのは、彼女が死んで2年後の1947年であった。僕が生まれる2年前のことである。アンネは、1929年(日本流で言えば昭和4年)生まれだから、僕より20歳年上で、生きていれば、今年で85歳になる。健康でさえあれば、今でも、まだ元気に暮らしていられる年齢である。それが…わずか15年で人生を閉ざされてしまった。
でも人の命は、長いか短いか…だけの差でしかない。
「アンネの日記」は、永遠に生き続けていく。
私の望みは、死んでからも なお生き続けることです。
~ 「アンネの日記」より ~

アンネ・フランクの家には、さまざまな資料が展示されている。
「アンネの日記」は、日本を含む約60カ国で翻訳、出版され、
それら各国の本が1冊ずつ展示されたコーナーがこれである。
(ここは、写真撮影が許されていた)。