僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

大阪国際女子マラソン

2012年01月30日 | スポーツの話題

前回ブログの更新後、左肩の付け根の痛みがかなりひどくなった。
右手を伸ばしたり上げたりすると、左側の首というか肩というか、
そのあたりに激痛が走る。顔を洗う時、左手を動かすとまた激痛。
何か動作をするたびに、またまた激痛、また激痛。 ううううぅぅぅぅ。

25日の水曜日に、たまらず整形外科へ駆け込んだ。
それ以来毎日通い、電気治療と痛み止め注射をしてもらっている。
昨日は休診だったけれど、今日からまた通わなければならない。

おかげで一時の激しい痛みからは解放されたけれど、
まだ、首を上げたり横に曲げたりすると痛みが走り、
何もしなくても左肩がだるくて、みしみしと痛む。
寝転んでいるときだけ(姿勢によるが)痛みはない。

でも、左肩をすくめるように上げたりすると、痛みがなくなる。
パソコンにもその姿勢で向かうと、キーが打てるようになった。

まあ、ちゃんと医院に通い続け、日が経てば、
そのうち完治するだろう…と思うことにしています。

で、昨日は大阪女子マラソンが行われた。
期待していた福士は、まさかの…ではなく、またか…の失速。

4年前の北京五輪選考会を兼ねたこの大会でも、失速した。
ゴール前で倒れたりもして、大会前もそればかり報じられた。
当時は福士も初マラソンだったし、練習も30キロ走しかおらず、
それではいくら福士でも、フルマラソンを勝ち抜くのは難しい…
と思っていたけれど、そのとおりの結果となった4年前だった。

でも今年は違う。 走り込みも十分にこなし、
去年のシカゴマラソンでも2時間24分台で完走している。
そりゃぁ期待もしますよね~

昨日の大阪は、それまで何日も強い寒風が吹きまくりの日が続いていたのに、
なぜか風がなく、穏やかで、まさにマラソン向きのコンディションになった。
神様も選手たちを応援してくれたかのごとき日和であった。

テレビでずっとそのレースを観戦していた。
そのテレビを見ていて感じたことだけど…
テレビ中継には、なぜあんな多くの解説者がいるのだろうか?
高橋尚子、益田明美、有森裕子、山口衛里らかつての女子ランナーが、
中継車やスタジオなどいろいろな場所で解説をしていた。

みんな話し上手だから、それはまだいいとしても、煩わしかったのは、
中継車で解説していた実業団陸上競技連盟の藤田というおっちゃんで、
話す声がかすれ気味で聴き取りにくいし、内容も、中身のない話ばかり。
この人が話すと、せっかくのレースも興ざめしてしまうほどなのである。
テレビ局も、そのへんの人選を、もうちょっと考えてほしいものだ。

レース結果はご承知のとおり、福士が25キロを過ぎた地点で失速し、
新鋭の重友梨佐が、実に安定した走りで独走し、初優勝を遂げた。

24歳。 マラソン界の新星の誕生である。

重友選手の茫洋とした人柄といい、スケールの大きさといい、
ちょうど20年前の92年バルセロナ五輪の年の大阪女子マラソンで、
新人ながら、当時の人気選手・松野明美を破って好記録で優勝し、
五輪切符を獲得した小鴨由水(こかもゆみ)を思わせるところがある。

小鴨は、しかし本番のバルセロナでは、スタート直後に飛び出して、
結局途中で失速してしまい、惨敗を喫したけれど、
有森裕子が銀メダルを獲って注目を浴びたレースでもあった。

さて、これで重友選手のロンドン五輪代表入りは確実となった。
長身から繰り出すあの頼もしい走りの再現が、今から楽しみだ。

しかしまあ、福士はやっぱりフルマラソンには向いていないんだね。
スピードランナーだから、あのペースでは脚がおかしくなるのかもしれない。
ともあれ福士には、本業のトラックの1万メートルのほうで頑張ってほしい。

ところで…
4年前のブログで、大阪女子マラソンと福士選手のことを書きました。

お暇な方は、お読みいただけたら嬉しいです。

まあ、週明け早々月曜日からお暇な方なんて、
どこにもいらっしゃらないでしょうけど…

         ↓

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20080201

 

 

 

 

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四十肩 五十肩 そして…

2012年01月24日 | 心と体と健康と

日曜日の朝、起きたら首筋が痛い。首の左側から肩にかけて痛い。
寝違えで首などが筋違いして痛むことが時々あるので、それだろうと思った。
ほうっておけば自然に治るものだろう…と。

痛みが少し気になったけれど、まあ普段どおりの1日を過ごした。
しかしその夜、寝返りを打つときに上半身を動かそうとすると、
「いててててて」と首から肩の部分が激しく痛んだ。
寝る格好によって少し痛かったり、すごく痛かったり、痛くなかったり。
寝返りを打つときに肩や首の筋肉を使うことなど考えたこともなかったが、
布団の中で動こうとするとこの部分に激痛が走り、結局一晩眠れなかった。

一夜明けた月曜日。
つまり昨日の朝であるが、起き上がってみると、今度は腰が痛い。
腰痛に関しては、何年か前に整形外科で診てもらったことがある。
慢性的なもので、じっと座っていた後に立ち上がるとき、
「よっこらしょ」という感じで、少し腰部が痛む程度である。
痛みは感じても、もう慣れたというか、生活に支障はなく、
ジョギングやウオーキングをしてもさほどの影響はない。

でも、この日の腰痛は、いつもより、いささか、ひどい。
これと、首、肩の痛みが重なって、何となく気分が重くなった。

「お医者さんに診てもらったら…?」と妻が心配して勧めてくれるが、
例によって医者嫌いの僕は、「こういうのって、行ってもいっしょだから」
と、今日一日は、様子を見てみようと考えていた。

そのとき…ふと、
何年か前の、職場の同僚のエノさんという人のことを思い出した。
エノさんは僕と同い年で、よく気が合い、いっしょに山などへ行ったり、
2人ともお酒が大好きなので、飲みに行ったりする間柄である。

そのエノさんがやはり左の肩が痛い、と言っていた時期があった。
寝返りも打てないほど痛い、とその時に聞いた。
医者へ行き、ずっと注射を打ってもらっていたそうだ。
「一番きつい注射でも、効きませんわ」
医者の診断は「50肩」というものだった。

「これだけは、日が経たなければ治らん、と言われましたわ」
と、エノさんは言っていたが、1年以上続いた後、今は普通に戻った。

そういえば、そのエノさんが、最近、こんなことを言っていた。
「あの肩の痛みは、どうも腰から来ていたそうですわ」

その言葉が、いま、電光の如くよみがえってきた。

今の僕の、この、首から肩にかけての症状は、
腕の位置によって、たまらなく痛んだりするのだけれど、
腰をグイと曲げたりしたら、心なしか痛みが和らぐのである。
腰と首、肩の痛みは、どこかでつながっているのだろうか…。

しかし、今朝になると、昨日以上に痛む、という感じはなく、
朝からパソコンを打つこともできている。 少し、マシになった。

実は朝起きてすぐ、以前医者からもらっていたコルセットをはめた。
腰がシャキっとして、座っていても姿勢がよくなる。
そうすると、首と肩の痛みはあまり感じなくなったのだ。

まあ、
このあと日中にかけてどうなるかわからないが、
とりあえず様子を見て、また痛みが強まるようなら医者へ行くほかない。

なんだかねぇ。
身体にトラブルが起きるたびに、
「年のせいか…」と思わざるを得ない。

…それよりも、僕のこの症状もエノさんと同じ「50肩」…ですか?

よく「40肩」とか「50肩」とか言われるけれど、
「60肩」というのは、あまり世間では聞かない。

では、やっぱり「50肩」…?

こんなところだけ若返ってどうするのだ。

 

 

 

 

 

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ヒップホップダンス ♪

2012年01月21日 | 日常のいろいろなこと


    

 

春の新学期から、中学校でヒップホップダンスが必修科目になるという。
AKB48やKARA、えぐざいる(…字の書き方、わからん)らの影響だろうか。
それにしても、義務教育の必修科目にダンスとは…
あんなものが教育として成り立つのか…

…と言いたいところだけど。

ダンスはものすごい運動量だし、バランス感覚も必要である。
体の動きが脳に与える影響も、かなり大きいのではないだろうか。
それが中学校で必修科目になるのは、むしろ歓迎すべきでしょうね。

僕もスポーツジムで何度かエアロビクス教室に参加したことがある。
ステップを踏みながら姿勢を変えたり、両手を上げたり回したりと、
あれもこれも同時にやらなければならないのは結構難しいけれど、
身体をリズムに乗せて踊っていると、ウキウキしてくるのは確かだ。

ダンスは、身体も心も豊かにしてくれる。

中学校の保健体育の先生たちが、春から生徒に教えなければならないため、
ダンス教室に通ってインストラクターから特訓を受けているニュースも見た。

そしてNHKのニューススタジオに小学生たちが来て踊っているのを見て、
その可愛らしさとダイナミックな動きに、僕はすっかりハマってしまった。

そういえば、わが家のモミィもダンスは大好きだ。
テレビでフィギュアスケートの真央ちゃんなどを見たらすぐに影響を受け、
「わたしもフィギュアスケートするから、見ておいてや」
と、部屋の中をチョコチョコ走り回ってポーズをとったりする。
そして「演技」が終ると、必ず「今のは、何点…?」と聞くのである。

数日前、そのモミィに「キッズダンスを習うか…?」と尋ねた。

モミィはもともと運動神経とか手先の器用さとかが、他の子より遅れている。
今はスイミングとエレクトーン教室に通い、それは改善されつつあるけれど、
全身を躍動させるダンスを身につけると、きっと将来にプラスになるだろう。

鉄は熱いうちに打て…である。

わが家から歩いて5分程度のところに、
「キッズ・ダンス・ファクトリー」というところがある。

さっそく1人でそこへ出向き、ピンポーンと鳴らした。
インストラクターらしい女性が出てきたので、詳細を聞いた。
「無料体験レッスンがありますので、ぜひお越しください」

冒頭のチラシは、その時にもらったものである。

そんなことで、昨日、夕方の5時半から1時間、
モミィを連れて行って体験レッスンを受けさせた。

生徒たちは幼稚園から小学校3年生くらいまでの女の子だったが、
びっくりするほど体がやわらかく、動きは俊敏で、いきいきとしている。
モミィもその中にまじって、見よう見まねで懸命に身体を動かしていた。
その姿が何ともユーモラスで、思わず吹き出してしまうほどだった。

休憩のとき、年長の女の子がモミィに足の動かし方を教えてくれていた。
「モミィちゃん、モミィちゃん」と、妹のように接してくれたのが嬉しかった。
教室に入って30分余りで、モミィはすっかり雰囲気になじんだようである。

体験レッスンが終ったあと、正式に生徒として入会する手続きをした。

「いやぁ、みんな上手ですね~。いいですね、ダンスは」
と、僕が感嘆してつぶやくと、インストラクターのお姉さんは、
「では、お父さんもご一緒にどうですか…?」と言った。

お父さん、なぁ…。

 

 

 

 

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春を待つランドセル

2012年01月19日 | モミィの成長日記

 

 
 


昨年末にフジテレビで再放送された「マルモのおきて」を見ていたら、
主演の芦田愛菜ちゃんが、小学生になる前、「どんなランドセルがいい…?」
とマルモに聞かれたとき、「ピンクのランドセルが好き」と答えるシーンがあった。
それを見て、あぁ、モミィも同じことを言ったなぁ、と思ったものである。

モミィのランドセルも、大好きなピンク色だ。
去年の12月に、わが家にやってきた。
今は「出番」を待つばかりである。

そしてちょうど1週間前に、依頼していた勉強机が届いた。

これまで、玩具や絵本などでにぎわっていたモミィの遊び部屋も、
勉強机を置くと、なんとなく引きしまって見えるから不思議である。

3月に卒園式があり、4月からいよいよ小学校だ。

もう、あと2ヵ月ちょっとである。
春の訪れが待ち遠しくて仕方ない。

モミィが小学生になれば、毎日の送り迎えをしなくて済む。
小学校には給食があるので、弁当も作らなくていいしねぇ。
それだけでも、ずいぶん楽になる。

要するに…
自分が楽をしたいから、早く小学生になってほしいわけで…。 だはは~

 

 

 

 

 

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そして神戸

2012年01月17日 | 日常のいろいろなこと

火曜日午後8時からのNHKテレビ「歌謡コンサート」は大好きな番組です。

特に今夜は、僕がいつもカラオケで歌う細川たかしと前川清が出ていました。

細川たかしの「望郷じょんがら」は、何を隠そう僕の十八番です(???)。
津軽三味線も、いいですね~。 聴いていると、なにか、切なさに心を打たれます。

前川清(クールファイブ)の「そして神戸」は、それ以上の僕の十八番です。

1972年(昭和47年)に出た曲ですが、カラオケ好きの僕がこれまで歌った中で、
もっとも多く歌ったのが、「そして神戸」であることは間違いのないところです。
それほど、この歌に魅せられていたのです。

歌が出てから20数年経った時、阪神淡路大震災が起こりました。
その後、この歌は神戸への鎮魂歌となりました。

今日の「歌謡コンサートは」細川たかしと前川清が、
それぞれ、東北の歌と、神戸の歌を歌ったわけです。

きょう1月17日。

あの阪神淡路大震災から、17年が経ちました…

17年間保存してきた震災当時の新聞を見てみます。

 

  
   1995年1月17日(地震当日)の夕刊 
 

 

  
  同じ1月17日夕刊の社会面。
  高速道路が途中で折れて、バスが落ちかけている写真などもありました。

 

  
  翌18日(水)朝刊。
  地震発生から半日が過ぎても燃え続ける神戸市街。



 
  1月18日夕刊。
  激しい地震で家が倒れ、焼け野原になった神戸市街。

  
 
   1月19日(木)朝刊。災害の全貌が、徐々に明らかになってきました。
   写真は、活断層が動き、地表に生じた亀裂が一直線に延びたさま。



 
  1月19日夕刊。
  19日になっても、三宮中心街の高層ビルで火災が発生しました。
  (写真は、煙に包まれる高層ビル)
  救助に当たった自衛隊や機動隊は、生存可能者を優先しました。
  生き埋めになった遺体の捜索・搬出まで手が回らないので、
  それらを、地元住民の手で行なった地域も少なくなかったそうです。

  
 
  1月20日(金)の朝刊。
  写真は、倒壊したビルの中から57時間ぶりに救出された子ども。
  この9歳の男児は、救出の瞬間「まぶしい」とつぶやいたそうです。
  新幹線の新大阪~京都間は、この日から運転が再開されました。


 
  1月21日(土)朝刊。
  当初、震度6と発表されていましたが、気象庁の詳しい調べで、
  神戸の三宮地区と淡路島北部は震度7だったと判定されました。
  昭和24年に震度7の震度階が設けられて以来、実際に
  震度7が確認されたのは、これが観測史上初めてということでした。
  (16年後の去年3月、東日本大震災の時の宮城県も震度7でした)

  

 
  1月24日(火)朝刊。震災から1週間が経った。
  死者はついに5,000人を超えたと報じられた。


 (この震災で亡くなられた方は、最終的には6434人でした)

 

 

 

 

 

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不機嫌爺さん

2012年01月15日 | 日常のいろいろなこと

男は年を取るとだんだん不機嫌になっていき、
女は年を取るとだんだん上機嫌になっていく…。

スポーツクラブのプールなどの光景を見ていると、
快活におしゃべりをして高らかに笑い合う女性たちと、
ひとり黙々と、苦虫を噛み潰したような顔で水中ウオークする男性たち。

そんな姿を見ていると、「男女の機嫌差」がよくわかる。

自分は不機嫌爺さんだけにはなりなくないなぁと、常々思っているけれど…

一昨日の午前中のこと。
大和川堤防コースをのろのろジョギングをしていたら、妙な光景に出会った。

僕の目の前、50mあたりのところで、2人の男がにらみ合っているのだ。
ゆっくり走りながら近づいて行くと、声が聞こえた。
「お前やろ!」
「何言うとんねん。お前じゃ!」
このご両人、ケンカをしている様子だ。

どんどん僕はその「現場」へ近づいて行く。
2人ともニット帽を被っていて、明らかに70歳は超えているようだ。
お互いに、ウォーキングをしている途中であることも、間違いない。

そのうち、ひとりが相手の胸元をこづいた。
こづかれた方は体を引き、ボクシングのファイティングポーズをとった。
「やるんか!」
「やかましいわい!」
まるで映画のような怒鳴り合いから、2人は胸倉をつかみ合った。
およそ30年間この堤防を走っているが、こんなシーンは初めて見た。

あわや…のところで、僕がそこへトロトロと走り着いた。
このまま素通りするわけにもいくまい。
巻き込まれるのもイヤだけど。

僕は2人から数メートルの間隔を取って、その場に立ち止まった。
そして、わざとらしくエッヘンと咳払いをして、
「おたくさんたち、何やってんのん…?」
という顔をして2人を見た。

2人は、互いに胸倉をつかみあったまま、僕の方を見た。
2人の動きが止まった。

「ふん。人が見てるやろ!」

ひとりが僕を見て、そう言いながら相手の手を放した。
相手のほうも、ふてくされた表情のまま、手を放した。
少しにらみ合っていたが、やがて左右に分かれて歩き始めた。

やれやれ。一件落着であった。
僕は再び、ジョギングを始めた。

しかし…なんであんなケンカが始まったのか?

たぶん…と僕は思うのだけれど、
2人は互いにコースを譲らなかったのだろう。

堤防は、車1台通れるくらいの道幅はある。
そして、ウォーキングする人も、そう多く歩いているわけではない。
僕はモミィを幼稚園に送り届けて帰宅してからジョギングに出るので、
時間はだいたい午前9時から11時までの間である。
こんな時間帯に堤防を走ったり歩いたりしているのはヒマな年寄りだけだ。

多くの人は、堤防道の真ん中ではなく端っこを歩く。
舗装された道路と草の生い茂る土手の境目近くを歩く。
僕にも、同じようなところを踏みしめながら走る習性がある。
それも、なぜかみんな河川敷の側の隅を歩いたり走ったりするのだ。
そのコースをとると、なんとなく落ち着ける感じがするのも事実である。

すると、当然、向こうから来る人とぶつかることになる。
だから人が近づいてくると、こちらから道の真ん中寄りにコースを変える。
僕はいつもそうしているし、相手が先に譲ってくれるときもある。

そんな中で、絶対に譲らない人、というのも中にはいるのだと思う。
相手がよけたらええねん…という感じの、不機嫌で依怙地な爺さんである。

その不機嫌依怙地な爺さん同士が、たまたま双方から歩いてきたら…

おまえが真ん中へ寄れ、といわんばかりに、ギリギリまで譲らず歩く。
それでも普通、「衝突」の寸前でどちらかが譲ってすれ違うだろう。
しかし、絶対に譲らないチョー不機嫌依怙地同士だとどうなるか…?

その結果が、先ほどの2人のケンカなのだ…と、僕は推測した。
たぶん、毎日同じ時間帯に歩いているこの人たちだから、
これまでも何度か2人の間に「ニアミス」があり、
一触即発の状態でここまで来ていたのだろうと思う。
それがこの日、とうとう爆発してしまった…ということだ。

温かい日差しを浴びながら景色のいい堤防を歩くって、楽しいことである。
心身がリフレッシュされ、1日の英気が養われる大切な時間であろう。

それなのに、そこでこんなケンカをしていたら、1日が台無しである。

散歩やジョギングは楽しまなければね~

やっぱり、不機嫌爺さんにだけはなりたくありませ~ん。

 

 

 

 

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成人の日&誕生日

2012年01月10日 | 日常のいろいろなこと

昨日の1月9日は成人の日だった。テレビニュースでは各地の成人式の様子を伝えていたけれど、中でも去年被災された東北地方の二十歳の若者たちの姿を、どの局でも詳しく報じていた。

僕みたいな古い人間は成人式というといまだに1月15日を連想するが、第2月曜日に変わったのが2000年からということなので、もう12年にもなるんだねぇ。早いわ~。

僕は現役の頃、市役所の議会事務局という部署に通算26年間も配属されていたけれど、若い頃は市議会議長の「あいさつ文」を作るのも仕事の一つだった。 たとえば、皆さんのご家庭に届けられている「広報〇〇1月号」には市長と議長の「年頭のごあいさつ」という記事が載っているはずである。 僕も昔は、12月に入ると、こういう広報紙に載せる議長の年頭のあいさつを作り、さらに1月15日の成人式の会場で新成人たちに配布するパンフレットにも市長と議長のあいさつが載るので、その文章なんかも、頭をひねりながらせっせと作成したものだった。

このころの成人の日のあいさつ文には決まり文句があって、
「新成人になられた皆さま、この成人の日は、大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます日でございます」
な~んていうのを、毎年挿入するのであるが、あとは社会情勢をざっと展望しながら、若さをたたえ、今後の大いなる飛躍を祈念いたしまして…という感じであいさつを締めくくるのである。

あの頃は、新年になるとまず新春互礼会があり、次に出初式があり、そして成人式があり…と、市議会議長が出席するそれぞれの行事で、その場で議長が読み上げるあいさつ文もいろいろと考えて作っていたことを、この時期が来ると懐かしく思い出す。

ということで…
昨日は全国的に(?)成人の日だったけれど、 個人的には僕の誕生日でもあった。

ちなみに、去年、英国王室ウィリアム王子と結婚したキャサリン妃も1月9日生まれ…
…と、今朝のニュースで言っていた (関係あれへんがな)。

まあ、自分の誕生日は、宵恵比寿、いわゆる「えべっさん」の日である…ということはいつも頭にあったけれど、成人の日が自分の誕生日だなんて…。 ピンとこないわけなんですよね~

昨日はモミィが「おたんじょうび おめでとう」と言って、妻と一緒にケーキを焼いてくれ、キンキラキンの折り紙で作った輪飾りを部屋中につるしたり、同じく折り紙で作った「お菓子」や「お手紙」をくれたりして、一人で盛り上がっていた。まあ、僕ぐらいの年齢になると、誕生日といってもモミィが盛り上がるほどには気持ちは盛り上がらない。

「門松は、冥土の旅の一里塚…めでたくもあり、めでたくもなし」
…という一休さんの有名な狂歌がある。昔は年齢を数え年で言っていたので、お正月が来るとひとつ年を取るというところから、門松が、次第に死に近づく標識のようでもある、…みたいなことを言っているわけである。

現在は満年齢で年を数えるので、ここでは 「正月」 を 「誕生日」 に読み替えてみる。

「誕生日は、冥土の旅の一里塚…めでたくもあり、めでたくもなし」 ということですね。

“ハッピー・バースデイ” 
の言葉も、年齢とともに、心に響かなくなりました。 ぐすん。

ところで、僕の生まれ年は1949年(昭和24年)である。 作家の村上春樹や歌手の南こうせつ、さとう宗幸、俳優の風間杜夫らと同世代だ。

気持ちはいつまでも若いんですけどね~

気持ちは若いんだけれども、今や内閣総理大臣ですら、僕より8歳も年下である。 そして、あんな「オジンの集団」みたいに見えていたナントカ大臣たちも、ほとんど自分より年下になってしまったわけで…。 そらぁ、年もとりますわね~。

成人の日を迎えてから43年も経つわけですからね。
しかたないっす。 (…と、言葉遣いだけ、若いモンぶってるわ。 あはは~)

…と書きながら、時計を見ると、もう午前6時半を過ぎた。

今日はモミィの幼稚園の始業式である。
この冬休みは18日間。 長かったなぁ。

間もなく妻とモミィが起きてくる。
そろそろ自室を出なければ。

さあ、忙しい朝が待っている。
また一つ年を重ねたけれど、がんばらなくっちゃ。

では、今日はこれくらいで…。 チャオ~   

 

 

 

 

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明石大橋を眺めながら

2012年01月07日 | ウォーク・自転車

 


5日~6日と家族3人で神戸の舞子へ行ってきた。
昨年11月に行ったばかりの所だが、とても印象がよかったので、
また同じホテルに泊まり、明石大橋を望む景色やバイキングを楽しんだ。

昨年末の千里への1泊旅行をわが家の忘年会とすれば、
今回の舞子は、さしづめ新年会旅行みたいなものである。

ところで、明石大橋と言えば、その記憶は、
6年前に参加した100キロウォーキング大会につながっていく。

大阪城前からスタートして、西へ西へと歩き、
神戸市内を通過して、須磨を過ぎ、明石大橋の手前で折り返す。

ここまででちょうど50キロである。
朝の10時にスタートして、ここへ着いたのは夜だ。
よ~し…と体に鞭打ちながら、再び大阪城に向かって歩き出す。
そして、徹夜で歩き、ようやくゴールしたのは翌日の午前である。
ほぼ24時間、歩いた。

この時の折り返し地点が、今から思えば舞子のすぐ近くだった。

一昨日、JR大阪駅から新快速に乗って三宮まで行き、
そこで各停に乗り換えて舞子まで電車に揺られたのだが、
車窓の移り変わる風景を眺めながら、その距離を実感した。

あのとき…
こんなところまで歩いて来て、また大阪まで歩いて戻ったのだ。

その大会に出た同じ月に、モミィが生まれた。
そのモミィも6歳になり、今春から小学生である。
いま、舞子に来ていっしょに明石大橋を見ている…
…というのも、なんとなく不思議な感じがするけれど。

一方ではわずか6年前…とも思うのだが、もうそんな体力はどこへやら。
そういうことをやろうという気力も、今はなくなったように思える。

このまま、どんどん体力も気力も衰えていくのだろうか…

昨日の朝、舞子のホテルの部屋から明石大橋を眺めながら、
バイキング料理を食べまくって膨らんだお腹をさすりつつ、
少~しばかり物寂しい気分に捉われた僕なのでありました。

 

 

 

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地下鉄サリン事件

2012年01月05日 | 思い出すこと

オウム真理教の元幹部で、指名手配中の平田容疑者が出頭したニュースには驚いた。
さらに、警視庁本部を訪れた時、表にいた機動隊員に「平田です」と名乗ったところ、
その機動隊員は「うっそ~。忙しいから他のところへ行ってくれ」と言ったという話。
これにはもっと驚いた。途中で平田容疑者の気が変わって再び逃走したら…
「なんと、間抜けな警察官やなぁ」という話では済まない。
警察はもう少しで「世紀の大失態」をさらすところであった。
(これだけでも大失態に変わりないけれど)

ともあれ平田容疑者はそのま丸の内署へ出頭し、警察もホッとしたことと思う。

オウム真理教といえば、誰もがあの地下鉄サリン事件のことを思うだろう。
僕は事件の前日まで、東京にいた。そして不思議なものと巡り合った。

あの前代未聞の大事件が起きたのは1995年1月20日の朝である。
月曜日だった。

その前日まで、僕は妻と東京旅行を楽しんでいた。
初めて東京ディズニーランドへも遊びに行ったりした。

事件が起きる前日、つまり1月19日の午後であるが、
僕たちは銀座で、東京での最後の食事を楽しんだあと、帰途についた。

日曜日だったので、銀座の道路は歩行者天国になっていた。
そこをぶらぶら歩きながら、地下鉄への降り口へ行った。
そのとき、ひとりの男が近づいてきて、カードのようなものを差し出した。
見ると、東京の地下鉄の路線図であった。僕はそれをポケットに入れた。

地下鉄の中でそれを取り出して見ると、裏に奇妙な文章が印刷されていた。
そこには…
その2ヵ月前に起きた阪神大震災のことに触れながら、
「日出る国、災い近し」という文が書かれてあったのだ。
間もなく日本に大震災以上の大きな災いが訪れるであろう…
…そんな書き方だった。

なんやこれは…? 地下鉄の路線図と、何の関係があるんや…?
と僕はそれをまたポケットにしまいこみ、そのことはすぐに忘れた。

翌日、20日の月曜日の朝。
勤務先の市役所へ出勤すると、ロビーのテレビの前に人が群がっていた。
ニュースだが、どこかの地下鉄の構内らしき様子が映っている。
ややっ、何があったのか…?
テレビ画面を凝視した。

それが、地下鉄サリン事件を知った瞬間だった。

翌日、3月21日は祝日(春分の日)で、仕事は休みだった。
僕は朝からテレビのニュースやワイドショーをつけっ放しにしていた。
もちろん、どのチャンネルも、前日に起きた忌まわしい事件を報道している。

それらの番組の中で、あれ…? と思うレポートがあった。

前日に、事件を暗示する「ビラ」が配られていた、という話である。
あるレポーターが、
「こういうものが、前日の午後、銀座で配られていたということです」
そして、テレビ画面にアップで映し出されたカード状のビラは…
まぎれもなく、僕が銀座の地下鉄の降り口で受け取ったのと同じものだった。

地下鉄の路線図は、東京都などが公式に作製したものとは違い、
路線図の中心に霞ヶ関駅が描かれていた…ということで、レポーターは、
「この路線図には、何かの意図を感じます」と強調していた。
もう一度、受け取った路線図をよく見ると、霞ヶ関駅が真ん中にあった。

そして、事件の現場となったのが、その霞ケ関駅だった。

さらに、このカードは銀座で一人の若い男が配っていた、という証言も出た。
僕が受け取ったのも、この若い男からだったのだろう。

僕は、テレビの前で、カードを手に、慄然としていた。

オウム真理教、そして地下鉄サリン事件と聞くと、今でも身の毛がよだつ。

 

 

 

 

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アイムソーリー・ひげソーリー

2012年01月04日 | 旅行

早いものでもう1月4日だ。
今日から仕事という人も多いだろう。
退職して仕事を持たない僕には、区切りというものがない。
だから、カレンダーを確かめなければ、今日が4日だということがわからない。
まあ、人生そのものが、ず~っと正月みたいなものでは…ありますけど。

で、相変わらずブログで気楽な話を書く僕なのである。

今日はお正月とは全然関係のない「金属探知機」についてのお話を。

海外旅行などの時、空港で搭乗手続きを終えてから金属探知機をくぐる…。
僕はあれが嫌いで嫌いで仕方なかった。

なぜか僕が通れば、必ずと言っていいほど、ピンポーンと鳴るのである。
最初、腕時計が反応するのだと言われて、次はそれを外した。それでも鳴った。
ポケットにいろんなものが入っているから、上着を脱いで通ったらいいと言われ、
そうしたのだけれど、それでもピンポーンと鳴る。そしてボディチェックをされる。
「入れ歯が反応する人もいるらしいよ」と言う人もいたが、
僕は虫歯など1本もなく、歯は丈夫なので入れ歯はしていない。
「ごくまれに、金属探知機に反応する体質の人がいるそうだよ」
…という人もいた。 ほんまかいな…?

そんなことで毎回「ピンポーン」が繰り返されるうち、
僕は金属探知機恐怖症になった。

いろんな人にその話をしていると「ベルトだと思うよ」という人がいた。
はは~ん。なるほど、そうかもしれない。ベルトは外したことがなかった。

今もよく覚えているけれど、スペインへ旅行する時に初めてベルトを外した。
そして、いつものように緊張しながら金属探知機をくぐった。
「……」
初めてピンポーンの音は鳴らず、無事に探知機を通過した。
普通の人にとってはなんでもないことなのに、
僕はガッツポーズをしたいほどうれしかった。
それ以来、一度も鳴らなくなった。

それで思い出したことがある。ベルトの話ではありませんが…

初めてハワイへ行ったのは2003年のゴールデンウィークだったけれど、
その1ヶ月前にイラク戦争が勃発し、米国の飛行場のチェックは厳しかった。

オアフ島からマウイ島へ行く飛行機に乗る際、手荷物検査でひっかかった。
身体のほうはそれまで常にひっかかっていたが、手荷物は初めてだった。

美人の女性検査官が僕のバッグの中身を調べ始めた。
べつだん変わったものは入っていなかったのだが、
その検査官が「オー」と言いながら取り上げたのは電気カミソリであった。
どうやら、これが手荷物のX線検査で「怪しいもの」と見られたようだった。

「これは髭剃りですわ、ヒゲソリ」と相手に通じない日本語で僕が言うと、
キリリと引き締まった表情の美人検査官は、じっと僕の顔を見て、
「オー、ソリー」と言い、電気カミソリをバッグに戻したのだった。

電気カミソリだから日本語でソリーと言ったのか…
「ごめんね」と言う意味の「sorry」と言ったのが…
いまだに謎である。

そういえば、昔「アイムソーリー・ひげソーリー」というギャグがあったっけ。

…と、新年早々、なんのことやらわからぬ話をしておりますが…

金属探知機のベルトの話に戻ります。

4、5年前、東京の国会議事堂を見学したときのことである。

入り口に検査官が立っていて、ふと見るとそこに金属探知機があった。

僕はいつもの癖で、上着を脱いだり、腕時計を外したりしたあと、
ズボンのベルトを外そうとした。
すると、検査官の男性がそれを見て、
「あっ、あのぉ、ズボンまで脱がなくていいですから」
と言ったのである。

あのなぁ…
誰がズボンを脱ぐねん。 こんなとこで。

「はぁ…? ベルトを外すだけですけど」 と僕が言うと、
「あ、ベルトは、されたままで結構です」という返事が戻ってきた。

まあ、ここは空港ではないのだから。
何も考えずにベルトを外そうとした僕もあわて者だけど、
それを見てズボンを脱ぐと思った国会議事堂の検査官も、
かなりのあわて者だったのではないか、と思うのであります。

 

 

 

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虹色の夢を描こうね~♪

2012年01月02日 | 日常のいろいろなこと

皆さま、飽けましておめでとうございます。
あ、漢字変換ミスだ。

では改めて…
明けましておめでとうございます。

でも、正月を迎えるのも60何回目となれば、そろそろ飽きてくるので、
つい、飽きましておめでとう…な~んて書きたくなりまりません…?
(ならん、ならん)

さて、近畿地方を中心に、西国三十三札所というのがありますが、
わが家の近くにその五番札所である葛井寺というお寺があります。
本尊の千手千眼観音は、天平時代末の国宝として有名なんですよ。
葛井寺は「ふじいでら」と読み、藤井寺の地名もここから来ています。

昨日は妻とモミィの3人で、その葛井寺へ初詣に行きました。

その朝に1年前の元旦に書いた自分のブログを見たのですが、
毎年「今年こそ、これとこれをやろう」と心に誓うのだけど、
いつも成し遂げたためしがないので、今年はひとつに絞って、
このブログを1年間、毎日欠かさず更新したい…という目標を掲げました。

…へぇ、去年はそんなことを心に誓っていたんだ~
そう思って次のブログを見たら、2日じゃなく、3日の記事でした。
???…。 なんだ、それは…?
2日にすでに、ブログを休んでいるではないか。
三日坊主にも達しないだらしなさ。
自分でもあきれます。

こういうのって、意志が弱い…とかの話じゃなくて、
平気でうそをつく、モラルに欠けた人間…というほうが当たっていますね。
まことにトホホな話であります。

そこで、今年はもう、あれをやろう、これをやろう…とは心に誓わず、
ただ、平穏無事に1年が過ぎてくれることだけを願おうと思いました。

…でも、実際に葛井寺へ着いて、賽銭を入れて両手を合わすと、
あれもこれもの「新年の決意」みたいなものが、やはり浮かんでくる。
仕方がないので、何かひとつだけを…と思考を巡らし、
「よ~し、今年は英語検定に合格することを目標にするぞ~」と、
心の中でむにゃむにゃと誓ったのでした。

英語はもう数ヶ月前からせっせと勉強を始めているのですが、
なにせこの年だから覚えが悪く、単語や熟語も覚えてもすぐ忘れる。
とにかく読む・聴く・話すを毎日根気良く繰り返すか…しか方法がない。
まあ、そういうことを心の生活の中心に据えて過ごす1年にしたいですね。

葛井寺の千手千眼観音様の前で手を合わせ、「英検準2級合格よろしく~」
とお願いして、なんとなく気分が落ち着いた僕なのでした。

とはいえ、元旦ですからね。
家では昨日、途中まで見て寝てしまった紅白歌合戦の録画を見ながら、
おせちをつまみ、チビリチビリをお酒を飲んでいい気分になっていました。

今回の紅白は、7歳の芦田愛菜ちゃんで大いに盛り上がりましたね。
(ミッキーと手をつないで出てきたとき、階段でコケましたけど)
年末に「マルモのおきて」がまとめて再放送されていたので、
それを見て、6歳のモミィは歌と振り付けを覚えてしまい、
テレビに愛菜ちゃん・福くんらが出てきて歌い始めると、
「マルマルモリモリ」といっしょに歌って踊っていました。

歌の中では森進一の「港町ブルース」が断然よかったです。
聴いているうちに、目頭が熱くなりました。とくに、
「♪
みなと~ 宮古 釜石 気仙沼 」
のところでは、ついに涙が溢れ出ました。

まさに絶唱でしたね~。 

この歌には、格別の思いがあります。 


http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/ca52df6b8eda1f480e52d442495f0afd

1969年(昭和44年)に流行した歌です。
僕が20歳の時で、東北から北海道まで、自転車旅行をした忘れられない年…。
森進一は、僕よりひとつ年上ですが、21歳にしてこの曲で数々の賞をとりました。

さ~て、話はコロッと趣を変えますが…
KARAが出てきた時だけ、メガネをかけてテレビを見ました。
お尻フリフリダンスを、コクメイに見たかったんだもんね~
相変わらずこういうのが気になる僕なのです(お下劣やわ)。

夕方から次男夫婦と2歳のケイがやってきて、賑わいました。

そんなことで、昨晩は半ば酔いつぶれて寝てしまいましたが、
今朝は特に二日酔い症状もなく、このブログも書けてよかった~

では、今年は「マルマルモリモリ」の歌詞にある

 ♪ 大人になっても 虹色の夢を描こうね~

というのを、

 ♪ いくつになっても虹色の夢を描こうね~ 

と歌い替えて、今年の僕の心の中に刻み込んでおきたいと思います。

今年1年が、皆さまにとりまして、良い1年でありますよう、願っています。

どうか、この1年も、よろしくお願い致します。

 

  
   「イオン」の前でおもちつき大会がありました。 モミィははじめてのおもちつき体験。

 

  
    葛井寺で初詣

 

 
  あはは~。  今年1年も、みなさん、よいお年でありますように…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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