義姉の旦那さんのお葬式から1週間経った昨日、アルゼンチンから来ているヒロユキと妻のソルちゃんのお誘いを受けて、大阪の京橋のイタリア料理店で会って4人で食事をしました。

うちの妻とヒロユキ、ソルちゃん。ここでお別れでした。
アルゼンチン・ブエノスアイレスのレストランでシェフをしているヒロユキは毎年4月に3週間の休暇をもらって日本へ来ている。しかし、2020年から22年までの3年間はコロナ禍で来られず、23年、つまり去年、久しぶりに来日した。
しかしその年の4月はヒロユキの母である妻の姉(つまり義姉)が体調不良で入院をしており、僕自身も体の調子が悪かった上、モミィもイギリスへ短期留学していた時期だったので、去年は会えずじまいだった。
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思い起こせば、義姉の末っ子であるヒロユキが家を出たのは彼が26歳の時、1995年の元旦だった。1995年(平成7年)と言えば、1月に阪神淡路大震災があり、そのあと3月に、オウム真理教の地下鉄サリン事件があったりして物騒がせな年だった。
春に妻とフランス旅行を申し込んでいた僕たちは、旅行を10月に伸ばした。そして、ヒロユキが料理人として働いているスペインのサンセバスチャンという街へ行ったのでした。サンセバスチャンはフランスとのほぼ国境にあり、パリから特急列車に乗ればそれほど時間はかからなかったのです。
その後、ヒロユキは料理人としてアルゼンチンのブエノスアイレスへ行ったと聞いた。なんとまぁ、地球の裏側まで行ったんや、と驚いたものです。
その後のことはこのブログにも何度も書いていますが、僕が市役所を退職した年である2009年の9月に、ヒロユキの母(妻の姉、つまり僕の義姉)を誘って3人でアルゼンチンへ行くことにしました。
現地に着き、義姉にとっては、14年間会っていなかったヒロユキとの対面でした。26歳で家を出て、今は40歳になったヒロユキを見て、義姉は感慨無量だったと想像できます。

ヒロユキと母である義姉、14年ぶりの再会でした。

ここはブエノスアイレスの中心地。ソルちゃんと僕です。
そして、
それをきっかけに、翌2010年から2019年まで、毎年4月に休暇をもらって、ソルちゃんと2人で日本へ来るようになったのでした。
むろん、その都度、会いました。僕らはモミィも連れて行ったのですが、2人はモミィをとても可愛がってくれましたね~

ソルちゃんと小学生だったモミィ。
ところが、2000年から2002年までの3年間はコロナ禍で日本に来ることができなかったんですよね。
そして、前述のように2003年(去年)4月、久しぶりの来日も、義姉の入院と僕たちの都合もあり、会えないまま終ってしまいました。義姉は7月に息を引き取りましたが、その時はヒロユキたちは日本にはいませんでした。
それで今回、義姉の旦那さんの死去が4月だったので、たまたま日本に帰っていたヒロユキとソルちゃんはお葬式に立ち会うことができました。その時はゆっくり話す余裕はなかったのですが、数日前に「会いたいです」と連絡があって、昨日、ヒロユキの実家の近くの京橋で、ヒロユキ、ソルちゃん、うちの妻、そして僕の4人で会った次第です。
モミィは学校やスタバのアルバイトがあるので時間の都合がつかず、今回は会えなかったことを、ヒロユキとソルちゃんはとても残念がっていましたが、これはもう、仕方がないことだと思います。
僕らがアルゼンチンへ行った翌年から10年間、ず~っと日本へ帰って来たヒロユキたち。コロナで3年間のブランクのあと、去年と今年で2年。計12回、日本に帰ってきました。
でも、去年に母が亡くなり、今年は父がなくなりました。
ヒロユキの姉と兄はそれぞれ東京で生活をしているので、大阪の今の家に戻っても、誰もいないということになります。
「寂しいですね」とヒロユキ。
う~ん。これが「最後の晩餐」に?
ヒロユキとソルちゃんは、
もう日本には帰って来ないんだろうか?
二度と会うことができないのだろうか?
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最後に、あきれるほど古~い古~い写真をご紹介します。

義姉の3人の子供たちと、僕らの2人の子供たちです。
まず義姉の子供たちから。
一番右側がヒロユキ君。この時はまだ日本にいます(当たり前やがな)。
真ん中の奥にいるのが、去年の母親、今年の父親のお葬式などを仕切った、
しっかり者の長女、美〇ちゃん(東京在住)。
その前で手を上げているのが長男でやはり東京在住で内科医の信〇君。
次に、わが家の子供たち。
前列、真ん中の赤ちゃんがうちの次男です。
そして一番左側にいるのが長男。つまり、モミィのパパですわ。
こんな時代があったなんてねぇ…