祖母(父の母)が書いた文などを少し貰って持っている。
これは祖母が83才の時に書いた文。
祖母と祖父の馴れ初めなどが書かれている。
「運命の出会い」
”会うは別れの始め”とか、全く理をうがった言葉です。人生あっての出会い、
出会いあっての人生だと思います。
私の運命の決定的な出会いは、若き日の夫との出会いです。19才で学校を出たばかりの私は
初めて肉親の加護を離れ、田舎のある小学校の教員として赴任しました。
全く見も知らぬ初めての土地で私ひとりでの生活が始まったのです。
学校では先輩教師の励ましを受け、教師としての体面は保たれていましたが
宿に帰るとたまらなく淋しくなって泣いてばかりいました。
それでも日が経つにつれ、自分なりの自覚もでき、教えることの楽しさも
湧いてきました。
宿はお医者さんのお家で、女学校で一級下だった千代さんと言う娘さんがいて
救われました。
そんなある日、宿に帰ると、一人の青年が千代さんと話しているのです。
私はただ頭を下げて自分の部屋に入りました。それからもその青年は
度々来ていましたが、ある日、初めて千代さんから紹介されました。
長い軍隊生活で体をこわし帰郷療養中であること、お父さんは当時学務委員を
されていた方で、青年はその家のご養子であることなどを聞きました。
それが後に私の夫となった彼との出会いでした。その後も、故意か偶然か
学校の帰途などで一緒になることが重なり、自然と親しくなっていったのです。
そのうち、彼は軍隊の方は除隊となり、病気も回復し、体に自信ができたのか
再び朝鮮慶尚北道の警察官採用試験を受け合格し間もなく渡鮮しました。
渡鮮後も良く手紙を貰っていましたが、私は三度に一度返事を書くくらいのものでした。
千代さんの話では、彼にはすでにお嫁さんになる方が決まっていて、義母さんの姪の
方だとか、家の方の事情も色々あったようです。
ところが丁度学校は学年末で忙しい日々のある日、彼がひょっこり帰って来たのです。
そして私は今でいうプロポーズをされたのです。
しかし、あまりにも突然の事であり、すでに家の事情も聞かされていたので
私は頑なに断りました。
彼はいつにない強い口調で「自分はすでに家を出る決心をしたうえでの申し込みであり
今更自分の意思を変えるわけにはいかない」と語気も荒く私を説得するのです。
私もついに彼の激しさに負け、将来はどうであれ彼と運命を共にしようと決心しました。
短い休暇中のことで、早速校長先生のお世話でささやかな結婚式を挙げ
準備もそこそこに彼と一緒に渡鮮しました。
彼が26歳、私が21歳の時でした。もちろん、彼は養家を捨てたのです。
(つづく)