※祖母が書いた文『運命の出会い』昨日のつづきです。
翌年長男が誕生、次々と子どもが生まれ、私はただ育児に追いまわされる毎日でした。
それでも今思うと、私の人生の中では一番楽しかった思い出の多い平安な日々でした。
昭和9年も終わりの頃、夫は病気を再発、内地療養を勧められて私どもは夫の郷里に
帰り、養生に専念しましたが、その甲斐もなく翌10年6月、後の事を気にしながら
亡くなったのです。
本人も終わりの日の近きを察してか、それまであんなにうるさがっていた子どもたちを
呼び集め、枕元に坐らせ、無言でしばらくじっと見ていましたが、傍にあったバナナを
1本ずつ与え「立派な人になるんだよ」と目にいっぱい涙をためているんです。
私は耐え切れずその場に泣き伏しました。
その時、私を諭すように静かな声で「どんなことがあっても強く生きるんだ。
子どもたちを頼む」と言われ、私ははっとして自分をとりもどしたのです。
夫はその2日後に息を引き取りました。思えば短い結婚生活でしたが
自分で選んだ道、何の悔いもありません。幸せでした。
そのうち、戦争がはじまり、4人の子どもを抱えての私の生活は
口には言えないほど苦しいものでした。
しかし、今はすべて夢のようです。あれからもう50年、世は急速に変わりました。
私はそれにも何とか順応しつつ生きつぎ、今はこうして気楽な余生を送っております。
人間の人生なんてはかり知れないものです。
夫逝って54年、思い出のまま綴りました。(完)
『病みながら嬰児(みどりご)を抱く我が手とり
励ましいし夫(つま)三十四にて逝く』(祖母の短歌)
※祖父が亡くなった時、長男である伯父は8歳、私の父は5歳
叔母は3歳と1歳くらいだったと思われる。
私は祖母が42歳の時に生まれた初孫。
亡き祖母を偲びながら記す。