ここ最近、様々な兄弟たちとのかかわりの中で
何度も何度も「忍耐」という言葉が内側からやって来ていました。
奇跡講座を学びすすめてゆく多くのプロセスの中で
どうしても「忍耐力」が必要になってくる。
忍耐力とは、苦痛を伴うものではないのだけれど
私たちにとっては
なかなか、最初から備わっているわけでもないですね。
この忍耐力は、いかにして養われてゆくものなんだろうな。。
と、思っていました。
奇跡講座マニュアル編に、その答えがありました。
奇跡講座マニュアル編(中央アート出版社)
P61
M-4.8.1:1~4
結果について確信を抱いている者は待つだけの余裕があり、しかも、心配せずに待つことができる。
神の教師にとって、忍耐は自然なものである。
彼が見ているのは確かな結末だけであり、それがいつになるかをまだ彼は知らないかもしれないが、疑ってはいない。
その時期は、その答えと同じく、適切なものとなる。
M-4.8.1:9~10
信頼を抱く者たちにとって、忍耐は自然なことである。
時間の中で起こるすべてのものごとの究極の解釈を確信しているため、
すでに目にしている結果も、これから起こるものも、何一つ彼らに恐れを引き起こすことはあり得ない。
(※ここで言っている神の教師とは、赦しを選ぶ者たちすべてのことを指しています)
この、救済という結果に対する信頼や、そこに導く聖霊に対する私たちの信頼は
一朝一夕で培われるものではないことは、言うまでもありませんが
「そこに一致してゆきたい。」
という想いがあれば、沢山のレッスンを積み重ねてゆくうちに
ある日、「深い深い信頼が自分の中に元々宿っていた。」ということに気が付いたりします。
それまでは、その方その方にふさわしい形で聖霊が寄り添い導いてくれます。
ずっと、そうやって導いてくれていることに気が付くまでは、ちょっときついかも知れませんが。。。
そこを経てゆかないと、なかなか
神への信仰心のみの、聖霊と一つの心の状態には一致できませんね。
私も、初期のプロセスの途中段階にいますが
最近思うのですが、、
やはり奇跡講座を学びすすめてゆくと、ある段階からは
「神への信仰心のみの状態」
になるのではないか?と。
この世界の、どの宗教とも一切の関係がない
真の、神への信仰心のみの状態。
それ以外は、精神的レベルでは一切を望んでいない状態。
2014年の10月に行われた、大阪リトリートあたりから少しずつその道を歩みはじめた気がします。
今年は、もう少し歩幅を大きく歩んでゆけるのかも知れません。
やはり、この言葉がリフレインします。
↓
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)
T-30.4.6:4 ~ T-30.4.7:3
しかし、あなたが一つの非常に単純な決断をするとき、すなわち、「偶像が与えてくれると自分が信じているどんなものも、自分は望まないことにする」
という決断をするとき、あなたは、強力な変化が速やかに引き起こされたことを理解するだろう。
なぜなら、そのようにして、神の子は自分が偶像たちから自由であることを宣言するからである。
そして、そのようにしてこそ彼は自由である。
救済とはまさしく逆説(パラドックス)である!それは幸せな夢以外の何であり得るだろう。
救済があなたに求めることは、もとより誰も行っていないことのすべてを赦すことであり、存在しないものを看過することであり、
非実在なるものを実在のものと見なさないというだけのことである。
何度も何度も「忍耐」という言葉が内側からやって来ていました。
奇跡講座を学びすすめてゆく多くのプロセスの中で
どうしても「忍耐力」が必要になってくる。
忍耐力とは、苦痛を伴うものではないのだけれど
私たちにとっては
なかなか、最初から備わっているわけでもないですね。
この忍耐力は、いかにして養われてゆくものなんだろうな。。
と、思っていました。
奇跡講座マニュアル編に、その答えがありました。
奇跡講座マニュアル編(中央アート出版社)
P61
M-4.8.1:1~4
結果について確信を抱いている者は待つだけの余裕があり、しかも、心配せずに待つことができる。
神の教師にとって、忍耐は自然なものである。
彼が見ているのは確かな結末だけであり、それがいつになるかをまだ彼は知らないかもしれないが、疑ってはいない。
その時期は、その答えと同じく、適切なものとなる。
M-4.8.1:9~10
信頼を抱く者たちにとって、忍耐は自然なことである。
時間の中で起こるすべてのものごとの究極の解釈を確信しているため、
すでに目にしている結果も、これから起こるものも、何一つ彼らに恐れを引き起こすことはあり得ない。
(※ここで言っている神の教師とは、赦しを選ぶ者たちすべてのことを指しています)
この、救済という結果に対する信頼や、そこに導く聖霊に対する私たちの信頼は
一朝一夕で培われるものではないことは、言うまでもありませんが
「そこに一致してゆきたい。」
という想いがあれば、沢山のレッスンを積み重ねてゆくうちに
ある日、「深い深い信頼が自分の中に元々宿っていた。」ということに気が付いたりします。
それまでは、その方その方にふさわしい形で聖霊が寄り添い導いてくれます。
ずっと、そうやって導いてくれていることに気が付くまでは、ちょっときついかも知れませんが。。。
そこを経てゆかないと、なかなか
神への信仰心のみの、聖霊と一つの心の状態には一致できませんね。
私も、初期のプロセスの途中段階にいますが
最近思うのですが、、
やはり奇跡講座を学びすすめてゆくと、ある段階からは
「神への信仰心のみの状態」
になるのではないか?と。
この世界の、どの宗教とも一切の関係がない
真の、神への信仰心のみの状態。
それ以外は、精神的レベルでは一切を望んでいない状態。
2014年の10月に行われた、大阪リトリートあたりから少しずつその道を歩みはじめた気がします。
今年は、もう少し歩幅を大きく歩んでゆけるのかも知れません。
やはり、この言葉がリフレインします。
↓
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)
T-30.4.6:4 ~ T-30.4.7:3
しかし、あなたが一つの非常に単純な決断をするとき、すなわち、「偶像が与えてくれると自分が信じているどんなものも、自分は望まないことにする」
という決断をするとき、あなたは、強力な変化が速やかに引き起こされたことを理解するだろう。
なぜなら、そのようにして、神の子は自分が偶像たちから自由であることを宣言するからである。
そして、そのようにしてこそ彼は自由である。
救済とはまさしく逆説(パラドックス)である!それは幸せな夢以外の何であり得るだろう。
救済があなたに求めることは、もとより誰も行っていないことのすべてを赦すことであり、存在しないものを看過することであり、
非実在なるものを実在のものと見なさないというだけのことである。