12月10日から某所でリトリートをしています。
私は約10日間滞在します。
この映画プロジェクト・ファンクションのリトリートは、いつもの合宿とは違っていて
告知案内による参加申し込み形式ではなくて、祈り・ガイダンスによる参加形式になっています。
なので、前回の映画プロジェクトリトリートに参加したからと言って、次回もその次も参加できるわけではありません。
本当にガイドされている場合にのみ、その上で本人にコミットがある場合にのみ集まりあい
リトリート参加者としてではなく、リトリート開催当事者として全員がひとつとなってリトリート準備をしていきます。
また、リトリート開催するしないにかかわらず、通常はリトリート以外の日頃のファンクションも与えられます。
日頃のファンクションを兄弟たちと一緒に関わり合い、コールし合い、ミーティングし合い、助けを求めたり与えたりしながら
コミュニケーション障害状態である私たちの心を共にトレーニングしていきます。
すると、目覚めたような、私知ってるというような錯覚状態にとどまってはいられません。
机上の空論ではなく、文字通り兄弟とつながり
2人もしくは2人以上で「神を一番にする」という目的のもとで祈り、聖霊のガイダンスに従います。
ガイダンスというもののほとんどは「実は、できれば避けたい何か」であることがほとんどです。
ヘレンもそう話していたように。
安全地帯にとどまっているだけではどうにもならない。
安全地帯から出て、まさに聖霊が言う通りに従うとき経験が起きていって
その経験を通して心は心底納得していける。
「ああ、私は本当に無条件に愛されていて、何もする必要がないのだなあ、神がすべてをなさってくださるのだなあ、私はそれに従って養われていればいいのだなあ」
と。
「私は何もする必要がない」と言うのは、私は何も行動言動しなくていい。と言う意味ではなくて
「私は何についても見誤るので、私の代わりに見誤らない聖霊によって日常・人生のすべてを見てもらい判断してもらうだけでいいのだ」と言う意味です。
なので、聖霊の判断によって眺められた、その瞬間その瞬間を
「聖霊の目的のために、どうぞ使ってくださいと」聖霊に自分自身を与え、聖霊が導くとおりに従う。
御心のままになさしめ給え。
とは、肉体人間存在として生きてきた「私」が神に創造されたままの神とひとつの「私」へ
戻って行くためのかけ橋。
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昨日のできごと
世界中のほとんどの人は気づいていないものかもしれない。
「私」にとって一番欲しいものが、一番恐ろしく怖いものになってしまっている。
自分の信念によって、無意識にそうなってしまっていると認識することは
最初の重要な一歩。
昨日ケンタさんは、期せずしてガクブルのそれに直面した。
そして号泣していた。
完全な自由も
完全な愛も
永遠の愛も
完全な平安も
全部同じ、真の自己。
今まで抹殺されてきた、時間の遅延の原因だった恐れに直面するから
その鎖がだんだんと解かれていく。
解かれるから、もう恐れなくてもいいんだ。望んでもいいんだ。
望むことを、従うことを自分に許してあげたいと思えるようになる。
実際に、兄弟たちとつながり合って自分を差し出す、仕え合うというのは最速の道だと確信しています。
私はこのためにのみここに居る、という感覚がある。
圧倒的に何かを約束していて、約束されたそれが展開されていて
どうにかこうにか、それに従っているような気がする。
肉体存在レベル、キャラクターレベルでは超絶ダメダメでどうにもうだつが上がらなくても
それでも聖霊にとっては、その心を鮮やかに導くことは全く可能で
だからこそ、誰にとっても望みがココにあるのだなあ... という、ありがたさでいっぱい。
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