奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

自我を直視するとは、、「惨めさを自覚する。白状する。自白すること。」

2016年06月15日 01時11分56秒 | ACIM奇跡のコースという生き方
今日は、庭仕事(芝桜100ポットを庭に植え敷き詰める)の、残り作業を終える中

今年2月~4月あたりの、真我なるハートの勉強会動画を聞きながら過ごしました。

また、いろいろな複数の理不尽系シナリオが上がってきては、赦してゆきました。

けど、本当に今年の2月~の勉強会のおかげ様で、どんな風な理不尽系シナリオも

その相手とは、私自身で、そこに見る葛藤はすべて私自身の愛と助けを求める懇請だったんだ。

ということ。

切ないまでに、助けを求める惨めな自分そのものだったんだ。。と

そういう正気な心から、もう一度見直してゆくことに意欲を注ぎ続ける粘り強さが

だんだんと培われていってる確かさがあります。


その確かさは、どこかに探しに行ったり、どこかで承認してもらったり、証明してもらう必要が一切なくて

「完全に大丈夫なんです。」という、神の保証を確信しています。


日常の映像は、どうあれ良いのです。それはとうの昔に過ぎ去ったものです。

私の心が、今、何に信頼を置いているか?

それだけが、私自身に影響を与えます。


で、今日の記事のタイトルの本題ですが

あ~~~~。この世界・宇宙を夢見るきっかけ、原因というのが

「あまりに悲惨な地獄を知覚してしまった」というところなんですね。

その地獄があまりにすさまじかったので、それをどうにかごまかしすり替え違うものに変えて

自分の思うような何かに作り替えようとした。

=抑圧、否認、解離、投影

そこなのですが、、


その映し鏡として、この世界の夢見があるので

もしも、本気で、この夢見・人生のもともとの動機・目的は何だったのか?

に、目を向けると、、、

心のレベルの地獄をどうにかしたかった。あまりにそれが苦しかった。悲惨だった。惨めさそのものだった。

というところが、、透けてくるのだろうと感じています。


そして、それに目を向けて認める。ということ自体何と言うのでしょうか。。

自白する、自供する、白状する。という言葉が、今日はしっくりきます。

自分が思い描いた分離が、あまりにも苦しすぎて、

「恐れへの迂回」(中央アート出版社/奇跡講座テキスト編 T-2.1.2:1)という

逃避行を続けてきた者が、崖っぷちに追い詰められて自白する。。

という感じ。


実は、その自白が今日(ある一定のレベルで)起きました。

ああ!私は、2013年~2015年前半まで、

幸せな道のりがスタートしたということで、かなり幸せだ。と思っていたし
(2013年以前は、問題にならないくらいの状態)

爆裂なハート・エクスタシーに囲まれていたのだけれども


「うーーーーーーーーわ!!!!私、あの時、まったくもって、地獄の中、惨めさの真っただ中にいたんじゃん。」
(自我の惨敗を認めて来つつある今の比ではない)

ということを、聖霊と一緒に静かに認め、自白してゆきました。

静かに、静かに認め、白状したら。。。


本当に本当に、これはパラドックスなのですが。。。。。

世界が、自分自身が、感謝と幸せ一色、それのみになりました。

そうなりながら、

「え?ということは、、自分の惨めさ、悲惨さ、惨敗さを、、白状すればよいということ?やっぱり、そこなんだな。。。」


これは、今年に入ってから何度となく出てきたニュアンスですし

合宿でも、相当深まったところなのですが、、


「あーーーーーーー。犯人が、窮地に陥って自白してスッキリしたら改心する気になった。みたいなことなのか。」

この、感動が伝わるかどうかはわかりませんが、、

自分の気づきのメモのためにも、記しておきます^^


先日つくった、和歌山産レモンのハチミツ漬け4リットル。おそらく、すぐなくなるでしょう(笑)



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